十六国春秋前燕錄八 吐谷渾

出自と部族の分裂

  • 吐谷渾は元は遼東鮮卑・慕容廆の庶兄にあたり、その字を氏として一族の名としたため「野虜」と呼ばれた。父の徒河渉帰には二子あり、長子が吐谷渾、次子が若洛廆(慕容廆)。廆が部落を継いで慕容氏となったが、渾は庶出の長男、廆が正嫡であった。父の存命中、戸千七百を渾に分け与えて統率させた。
  • 渾と廆それぞれの部の馬が牧場で喧嘩して傷つけ合ったことから、廆は使者を送り「先公は兄弟でそれぞれ別々に牧させるよう定められたのに、なぜ距離を取らず馬を喧嘩させたのか」と渾を責めた。渾は怒り「馬は家畜、喧嘩の原因は馬にあるのに、なぜ人にまで怒りが及ぶのか、遠く離れたいなら容易いこと、いまお前から万里の彼方へ去ろう」と述べ、馬を率いて西へ向かった。廆は後悔し長史の乙那婁馮を送って謝罪させたが、渾は「先公はかつて占いで『二人の子はともに強盛となり子孫に福が及ぶ』と言われた、私は庶子であり道理として二人共に大をなすことはない、今回馬の一件で別れることになったのはおそらく天意だろう、試しに馬を東へ追ってみよ、もし馬が東へ帰るなら私もついて行こう」と述べた。婁馮は従者二千騎で馬を東へ追い立てたが、馬は数百歩ごとに悲しげにいななき西へ走り戻ることを何十度も繰り返したため、婁馮は「これは人為ではない」と悟り、そのまま戻らず陰山のふもとに居を構えた。
  • 渾はかつて部族に「我ら兄弟はともに国を保つはずだが、廆とその子孫はわずか百年ほどで終わるだろう、我が玄孫の代以降にこそ栄えるだろう」と語ったという。永嘉の乱の初め、渾の子孫は隴西を渡り枹罕にとどまり、以後西零以西・甘松の境、西は洮水、南は白蘭に至る数千里の地を領有した。鮮卑の言葉で兄を「阿干」と呼び、廆は渾を偲んで「阿干歌」を作り、歳末の物思いにふけるたびにこれを歌ったという。

吐延の最期と葉延の即位

  • 渾には子が六十人あり、長子の吐延が跡を継いだ。吐延は若くして大志を抱き、身長七尺八寸、勇力に優れ雄々しい姿で羌族から恐れられ「項羽」と呼ばれた。常々「大丈夫たるもの中国に生まれ高祖・光武の時代に名将たちと共に中原を駆け天下を定め名を歴史に残すべきなのに、辺境の山中に身を潜め異俗に隔てられ礼教も知らず、生きては麋鹿と群れ死しては異俗の鬼となる」と嘆いていたという。その知勇を恃み猜疑心も強く部下を思いやらなかったため、帛城の羌族の首長・姜聡に刺され、死に瀕して剣を抜き将の紇拔泥を呼んで長子の葉延の後見を託し、「小僧に刺されたのは私の過ちだ、私が息絶えたら埋葬を終えたらすぐに立ち去り、険しく遠い白蘭の地を保て、葉延はまだ幼く他人に託せば急場に制御できまい、いま葉延をお前に託す、力の限り輔佐してくれ」と言い残し剣を引いて死んだ。
  • 葉延は当時十歳、常に藁人形を作って「姜聡」と名付け、泣きながら弓で射て天に向かって号泣した。母が「逆賊姜聡はすでに諸将が斬り刻んでいる、お前はまだ幼いのになぜ毎日そんなに苦しむのか」と言うと、葉延は泣いて「藁人形を射ても父の仇には何の益もないと分かってはいるが、この尽きせぬ思いを留めておきたいだけだ」と答えた。至孝な性格で、母が病めば五日間食を断ち自らも食べなかったという。
  • 成長すると沈毅な性格となり、天地の造化や帝王の暦数を好んで問うた。司馬の薄洛隣が答えられずにいると、葉延は「伏羲以来の符命や天象は明らかに示されているのに、お前たちは何も知らぬ、『夏の虫は冬の氷を知らず』とはよく言ったものだ」と述べた。また「我は公孫の子である、礼に『公孫の子は祖父の字をもって氏とすることができる』とある、我が祖(吐谷渾)は昌黎より出てこの地に居を構えたのだから」として自ら国号を「吐谷渾」と称した、祖を尊ぶ意味であるという。葉延の死後、子の辟奚が立った。