十六国春秋前燕錄八 慕容仁

廆の死と昭との謀議

  • 慕容仁、字は元愷、小字は千年。廆の末子で皝の同母弟。勇略に優れたびたび戦功を挙げ士心を得ており、征虜将軍として平郭を鎮守した。末弟の昭も広武将軍として才芸に優れ、ともに廆の寵愛を受けたが、皝はかねてこれを快く思っていなかった。咸和八年夏五月、廆が死去。仁は平郭から喪に駆けつけ、密かに昭に「我らは常々驕り皝に対し無礼であった、皝は厳格な性格で罪がなくとも恐ろしいのに、まして罪があればなおさらだ」と語ると、昭は「我らは皆正嫡の子であり国に相応の分がある、兄は士心を得ており私は宮中にあってまだ疑われていない、隙を見て皝を除くのは難しくない、兄は挙兵して来られよ、私が内応する、失敗すれば死あるのみ、慕容翰のように異国で生き恥をさらすようなことはしない」と応じ、仁は「よかろう」と答えて平郭へ戻った。

挙兵と鎮圧

  • 閏月、仁は挙兵して西進、この仁・昭の陰謀を密告する者があったが皝は信じず使者を送り確かめさせたところ、仁の軍はすでに黄水に至っており事の露見を悟った仁は使者を殺して平郭へ引き返した。皝は昭に死を賜い、玄菟太守高詡を広武将軍として五千の兵を与え仁討伐を命じたが、汶城の北で交戦し皝軍は大敗、軍勢はことごとく仁に降った。襄平令の王永・前大司農の孫機らも遼東城を挙げて叛乱に呼応、仁は自ら車騎将軍平州刺史遼東公を称し、段遼や鮮卑諸部もこぞって仁と呼応した。
  • 皝は自ら軍を率いて仁討伐に向かい襄平を攻略、仁配下の翟楷・龎鑒は単騎で居就・新昌へ逃走、仁はなおも平郭を固守した。皝が遼東の民をことごとく穴埋めにしようとすると、高詡は「遼東の叛乱は本意からのものではなく仁の凶暴を恐れてやむなく従っただけだ、いま元凶がなお存命なのに、やっと落としたこの城の民を皆殺しにすれば、まだ落ちていない城には帰順の道がなくなってしまう」と諫め、皝は思いとどまった。仁はさらに兵を送り新昌を襲ったが督護の王寓が出撃してこれを撃退した。段氏・宇文氏はそれぞれ使者を平郭の仁のもとへ送っていたが、皝配下の帳下督張英が百余騎で間道を進み奇襲、宇文氏の使者十余人を斬り段氏の使者を生け捕りにして帰還した。

氷上作戦による平定

  • 皝は再び仁討伐を謀り、高詡が「仁は君親を裏切り人神ともに怒っている、これまで海が凍ったことはなかったが仁の反乱以来すでに三度も凍った、しかも仁は陸路の備えばかりしている、これは天が我らに氷を渡って襲わせようとしているのではないか」と進言、皝はこれに従ったが、群臣は氷上の行軍は危険であり陸路を進むべきだと反対した。皝は「私の計はすでに決まった、あえて阻む者は斬る」として弟の軍師評らを率い昌黎から氷を踏んで進み、およそ三百里余り進んで櫪林口に至ると輜重を残し軽装の兵で平郭を目指した。城の七里手前で物見が仁に急を告げ、仁はうろたえて出撃した。先立って捕らえられた張英の一件で仁は追撃しきれなかったことを悔やんでおり、皝の来襲についても再び小部隊による略奪だろうと油断し、皝自らの来襲とは思っていなかった。皝は側近に「今回の出撃では敵の一騎たりとも生かして帰さぬ」と語り、全軍を城の西北に布陣、広威軍の帥がその部下を率いて皝に降ったため仁の軍は動揺、皝はこれに乗じて猛攻し大破、仁は敗走し帳下の者たちも叛いたため生け捕りにされた。皝はまず仁の帳下で叛いた者たちを斬り、その後仁に死を賜った。丁衡・游毅・孫機ら仁の腹心も捕らえて斬られ、王永は自殺、幼稚・佟寿・郭充・翟楷・龎鑒はいずれも東へ逃走したが、幼稚は途中で引き返し、皝軍は追撃して翟楷・龎鑒を殺し、佟寿・郭充は高句麗へ逃れた。その他仁に巻き込まれただけの官吏・民は皆赦され、遼東はついに平定された。