十六国春秋前燕錄四 慕容儁(上)
前燕の第二代君主・慕容儁(字は宣英、小字は賀賴䟦)。慕容皝の第二子で、母は段氏。身長八尺二寸、学問に通じ文武の才略を兼ね備えたという。父の死を受けて燕王位に即き、後趙の崩壊に乗じて幽州・冀州へ進出、慕容恪に冉閔を廉台で破らせて魏を滅ぼし、鄴を取って中原に版図を広げた。ついに皇帝を称し、国号を大燕、元号を元璽と定めて前燕を帝国とした人物である。
出自と人柄
- 慕容儁、字は宣英、小字は賀賴䟦。慕容皝の第二子。母は段氏で、妊娠十三か月を経て生まれ、神秘的な光が現れたと伝わる。父皝はかねて「積徳の末に子孫が中原を得るだろう」と語っており、儁の誕生に際し「この子の骨相は尋常でない、我が家はついに得た」と喜んだという。長じて身長八尺二寸、風采堂々、学問に通じ文武の才略を兼ね備え、詩文にも秀で、身の回りの器物や車馬にまで自ら戒めの銘を刻むほどであった。皝の治世八年、東晋が皝を燕王に任じた際、儁は仮節安北将軍・東夷校尉・左賢王・燕王世子に任じられ、皝十一年には使持節鎮軍将軍を加えられた。
燕王即位と趙討伐の発議(348年)
- 皝の死を受け、儁は春秋列国の故事にならい燕王位に即き元年と称した。恩赦を行い、東晋の都建康へ皝の訃報を伝える使者を送った。弟の友を左賢王、陽騖を郎中とするなど文武百官を叙任し、「二十八将」の銘を刻んだ刀二十八振りを作らせた。
- 同年夏、後趙の石虎が死去し趙魏の地は大乱に陥った。平狄将軍の慕容霸は「石虎の暴虐は天に見放された結果であり、いま乗じて攻めれば必ず勝てる」と上書し、北平太守孫興も中原進出を勧めたが、儁は父の喪が明けていないことを理由に許さなかった。霸はなお龍城に赴いて「好機は得難く失いやすい、石氏が勢いを盛り返せば他の英雄に先を越される」と説得。儁は東方から鄧恒の守る安楽を攻める案には難色を示したが、霸は「恒配下の将兵は帰郷を望んでおり大軍を見れば瓦解する」と応じた。五材将軍封奕、従事中郎黄泓、殿中将軍慕輿根らも天文の兆しや民心の動向を挙げて出兵を勧め、儁はついに笑ってこれに従った。
- 慕容恪を輔国将軍、慕容評を輔弼将軍、陽騖を輔義将軍の「三輔」とし、霸を前鋒都督建鋒将軍として二十余万の精鋭を整え、趙討伐の準備を進めた。秋、東晋の穆帝は謁者陳沉を遣わし儁を使持節侍中大都督・都督河北諸軍事・幽冀并平四州牧・大将軍・大単于・燕王に任じ、かつて父祖に倣い官職の承制任命を認めた。冬には涼州の張重華と結んで趙を挟撃する約束を交わし、高句麗王釗が捕らえていた前東夷護軍宋晃を送り届けたため、儁はこれを赦して活と改名させ中尉に任じた。
東征と薊の攻略(349年)
- 二年、儁は霸・慕輿根・自身の三方から趙領へ進軍させた。慕容恪と鮮于亮を先鋒とし、慕輿埿に山を切り開かせて道を通した。世子の曄に龍城の留守を託し、劉斌・皇甫真に後方統治を委ねた。趙の征東将軍鄧恒は燕軍の接近に恐れをなして倉庫を焼き安楽を放棄、幽州刺史王午とともに薊へ退いた。霸は安楽・北平の兵糧を接収し、儁の本隊と合流した。
- 三月、無終へ進んだ燕軍に王午は城を捨てて逃走し、部将王他が薊を守ったが、儁はこれを攻め落として王他を斬った。降兵千余人を穴埋めにしようとした儁を霸が「暴虐な趙を討ち民を救うための出兵で、降兵を殺せば王師の評判を損なう」と諫め、儁はこれを容れて釈放した。以後、中原の士女は相次いで燕に降った。
- 范陽太守李産は当初趙のために抗戦しようとしたが将兵の支持を得られず開城、儁は改めて李産を太守に任じた。李産の子・李績は父の投降にもかかわらず幽州別駕として王午のもとに留まっていたが、鄧恒が「績の父は既に燕に降っており、彼を留めれば災いになる」と除去を勧めた際、王午は「乱世にあって家を捨て節義を貫く績の志は古の忠臣に劣らぬ」と擁護した。それでも王午は恒の害意を恐れ績を燕へ送り、儁は当初父に背いたことを咎めたが、績が「旧主への情と己の節義は両立する、殿下が義によって天下を取られる以上お仕えするのに遅すぎることはない」と答えると、儁は喜んで厚遇した。
- 夏、儁は弟の宜を代郡城郎、孫泳を広寧太守とし幽州の郡県に守宰を配置した。自ら鄧恒討伐に向かい青梁に至った際、恒配下の鹿勃早が夜襲を仕掛け一時燕軍陣中に突入したが、前鋒都督の霸が奮戦して数十人を討ち取り撃退。慕輿根は「敵は寡兵、いま討たねば好機を逃す」と儁を励まし、精鋭で反撃して敵を四十里余り追撃、鹿勃早は単身で辛くも逃れ従軍していた兵はほぼ全滅した。
- 秋八月、代郡の趙榼が三百余家を率いて趙の并州刺史張平のもとへ離反したため、儁は広寧・上谷の民を徐無へ、代郡の民を凡城へ移した。九月、儁は冀州へ南下して章武・河間を平定。趙の元章武太守賈堅が慕容評を高城で迎え撃ったが敗れ捕らえられ、評が章武太守、恪が河間太守に任じられた。冬、儁は薊に帰還した後、諸将に守備を委ねて龍城へ戻り先祖の廟に参拝した。
冉閔の称帝と使者常煒の節義(350年)
- 三年、冉閔が皇帝を僭称し後趙の残存勢力・石祗が籠る襄国を攻囲した。窮した石祗は元太尉張挙を遣わして援軍を乞い、伝国の玉璽を差し出すと約束、姚弋仲もまた使者を寄越して急を告げた。儁は悦綰を禦難将軍として三万の兵を救援に向かわせた。
- 儁が趙を救おうとしていると知った冉閔は大司馬従事中郎常煒を使者として送った。儁は記室封裕に命じて「冉閔は恩を裏切り簒奪した身でありながら何の瑞祥があって帝を僭称するのか」と詰問させたが、常煒は歴代王朝の瑞祥の例を挙げ、暴虐な胡族を誅した冉閔の功績は天命に適うものだと堂々と弁じた。封裕がさらに「冉閔が即位に際し自らの金像を鋳造して吉凶を占ったところ像が壊れて成らなかったというが、それでも天命があると言えるのか」と問うと、常煒は「玉璽は既に我が君の手中にあり、そのような話は姦佞の徒が人心を惑わすための作り話に過ぎない」と一蹴した。
- なお納得しない儁は薪を積み火を焚いて煒を脅させたが、煒は顔色一つ変えず「趙と燕は元より不倶戴天の敵同士であり、冉閔が趙の残党を滅ぼしたことをなぜ我が君を責める理由にできるのか。今すぐ焼き殺し天に訴えさせてくれれば本望だ」と言い放った。左右は殺害を勧めたが、儁は「使者を殺すのは道に外れる、主君に忠実な臣下を罰する理由はない」としてこれを赦し客館に留めた。夜、儁は隣人の趙瞻を遣わして翻意を促したが、煒は壁に向かって黙し応じなかったため、儁は怒って煒を龍城に幽閉した。
渤海・中山方面の平定
- 三月、渤海の逢約が趙の混乱に乗じて数千の兵を集め冉閔に帰属し渤海太守に任じられた。また元太尉劉隗の甥にあたる劉準と、封奕の従弟にあたる豪族封放がそれぞれ別に自衛の兵を集め、冉閔は劉準を幽州刺史として渤海を約と分割統治させた。儁は封奕に逢約討伐を、昌黎太守高開に劉準討伐を命じた。
- 封奕は逢約の陣に迫り単身での会見を申し入れ、旧交を温めつつ「冉閔は成りゆきで天下の一部を得たに過ぎず天命には逆らえない、燕王は代々徳を積み義兵を以て乱を討ってきた、亡国の将として孤城を守り破滅を待つより帰順すべきだ」と説いた。逢約は返答に窮したところを、封奕配下の勇士張安に馬ごと拉致され燕陣営へ連行された。封奕は「あなたの決断を代わってつけただけで功を求めたのではなく、あなたと民を守るためだ」と告げた。高開が渤海に至ると劉準・封放は迎え降った。儁は封放を渤海太守、劉準を右司馬とし、逢約は捕縛の経緯にちなみ名を「釣」と改めさせられた。
- 秋八月、儁は恪に中山方面の攻略を、評に魯口の王午討伐を命じた。恪は唐城で冉閔配下の白同・侯龕の頑強な守りに遭い一部の兵を残して常山へ転じ、遼西太守李邽の投降を受け入れて手厚く遇し、続いて中山を包囲すると侯龕も降伏し中尉に任じられた。恪は中山を攻略して白同を斬り、有力者数十家を薊へ移住させた。評は南安で王午配下の鄭生を迎撃してこれを斬った。悦綰は襄国から帰還し、儁は張挙の虚言(伝国璽が襄国にあるとした話)が事実でなかったことを知りこれを処刑した。
- 幽閉されていた常煒には中山に四男二女がいたが、儁はその子らとの面会を許し、煒が謝意を上表すると「そなたはもとより保身のためでなく郷里への義理でここに留めただけ、乱世で子らが皆無事に集ったのは天の配慮であろう」との勅を与え、妾一人と穀物三百斛を賜り凡城に住まわせた。北平太守孫興を中山太守とし、その善政により中山は安定した。冬十一月、逃亡していた逢釣は渤海で再び兵を集めて叛いたが、楽陵太守賈堅の説得で民衆が離反し孤立、再び燕に投降した。上党からは厙傉官偉が部衆を率いて来降。十二月、儁は龍城に赴き、丁零の翟鼠が部族を挙げて帰順したため帰義王に封じた。この年、儁は郊外で甘棠の木を見て「甘棠は仁徳と土徳・生育・慶祝の兆しを表す詩の題材であり、国家の隆盛を示す瑞祥だ」と述べ、群臣に頌を上呈させた。
廉台の戦いと冉閔の最期(352年)
- 元璽元年正月、儁は薊に戻り軍中の文武・兵民の家族を薊へ移住させた。四月、いったん帰順していた鮮卑段勤が離反したため、儁は霸を繹幕へ、評と相国封奕を安喜へ遣わして冉閔討伐に向かわせ、自らも中山まで進んで両軍の後詰めとした。冉閔は部下の反対を押し切って安喜へ進軍、恪がこれを追い、常山へ向かう冉閔軍と派水(『資治通鑑紀事本末』では魏昌の廉台とする)で十度に及ぶ交戦を行ったがいずれも恪は勝てなかった。
- 冉閔の武名を恐れる諸将に対し、恪は「冉閔軍は疲弊しており、勇はあっても謀がなく一人の敵に過ぎない、軍を三隊に分け互いに呼応させよ」と指示。参軍高開の進言で歩兵中心の冉閔軍を林から平地へ誘い出す策をとり、恪は三隊に分けた騎兵で待ち構え、冉閔軍が必ず我が陣中へ決死の突撃を仕掛けてくると読んで分厚い陣で受け止め側面から挟撃する作戦を立てた。魏昌の廉台で方陣を敷いて戦い、冉閔軍を大破して七千余りを斬首、冉閔自身を捕らえて薊へ送った。
- 薊に至った冉閔に儁は「奴僕風情がなぜ勝手に帝を称したのか」と詰ったが、冉閔は「乱世にあって桀驁不遜な者たちがこぞって簒奪を企てる中、我こそ中原の英雄であり帝を称して何が悪い」と屈しなかった。怒った儁は冉閔を鞭打ち三百、龍城で斬った。この戦いで参軍高開も負傷がもとで没した。
- 恪が滹沱に駐屯していると冉閔配下の蘇彦が金光に数千騎を率いて夜襲をかけさせたが恪はこれを撃破、彦は并州へ逃走し、恪はそのまま常山を占拠した。霸の軍も繹幕に至ると段勤は弟の思聡とともに恐れをなして開城降伏、燕軍はそのまま鄴を攻めた。冉閔配下の大将軍蒋幹は冉閔の子・智を奉じて籠城を続けた。
鄴の攻略と瑞祥(352年)
- 儁は評・侯龕らに精騎一万を率いさせ鄴を攻囲、外郭は次々に降伏し、劉寧・劉崇兄弟は胡騎三千を率いて晋陽へ逃れた。続いて慕輿根・皇甫真らも歩騎二万を率いて評の攻城を支援した。ちょうどこの頃、方角を示す指南車が完成し儁は大いに喜んで先祖廟に報告。正陽殿脇の椒に燕が巣を作り雛が異様な毛を頂いて生まれたことや、凡城で五色の異鳥が献上されたことについて、群臣は「大燕の興隆と至尊の即位、五行の継承を示す瑞祥だ」と口を揃えて言祝いだ。
- 六月、蒋幹が精鋭五千で出撃してきたが評らが迎撃して四千余りを討ち取り、蒋幹は単騎で鄴に逃げ帰った。以後鄴北の郡県は次々と降伏。相国封奕ら百二十人が儁に帝位に即くよう勧めたが、儁は「自分はもと辺境の遊牧の民、暦数の正統がどうして自分にあろうか」と固辞した。
王午・蘇林の乱平定と皇帝即位(352年)
- 儁が常山へ移動した頃、王午は鄧恒の死を知って自ら安国王を称した。八月、儁は恪・封奕・陽騖を魯口へ遣わし王午を攻めさせたが、王午は籠城して抵抗しつつ冉操を燕軍に差し出し、恪らは穀物を刈り取って引き上げた。
- 鄴では魏の長水校尉馬願らが内応して燕軍を城内に迎え入れ、戴施・蒋幹は城壁を伝って倉垣へ逃走。評らは冉閔の妻董氏、太子の智、太尉申鍾、司空条攸のほか輿服・六璽を薊へ送った。伝国璽は既に蒋幹が東晋へ送っていたため、儁は自らの正統性を演出すべく「冉閔の妻が璽を献上した」との作り話を用い、その者に「奉璽君」の号を与えた。冉智は海浜侯、申鍾は大将軍右長史に封じられ、評は司州刺史として鄴の鎮守にあたった。
- 冬十月、儁は薊に帰還。旧趙の諸将で州郡を保持していた者たちが相次いで降伏を申し出たため、王擢を益州刺史、䕫逸を秦州刺史、張平を并州刺史、李歴を兗州刺史、高昌を安西将軍、劉寧を車騎将軍にそれぞれ任じた。恪は安平に駐屯して兵糧・攻城具を整え王午討伐に備えた。
- 中山では蘇林が無極で挙兵し天子を自称したため、恪は魯口から引き返してこれを討ち、慕輿根の助けを得て斬った。王午は部将秦興に殺され、秦興も呂護に殺されて呂護が改めて安国王を称した。この頃恪ら五百五人が皇帝の璽を奉じて儁に尊号を勧め、儁はこれを許した。
- 十一月、儁は百官を任命し、相国封奕を太尉、恪を侍中左長史、陽騖を尚書令右司馬、皇甫真を尚書左僕射、張悕を右僕射、宋活を中書監、韓恒を中書令とするなど文武百官に序列に応じた官職を与えた。戊辰の日、正陽殿にて皇帝の位に即き、境内の恩赦を行い、元号を「元璽」、国号を「大燕」と定めて天地を祀った。時に東晋の永和八年(352年)にあたる。続いて祖父・武宣王慕容廆を高祖武宣皇帝、父・文明王慕容皝を太祖文明皇帝と追尊。折しも来訪した東晋の使者には「私は人材の不足を承け中国の推戴を受けて既に天子となった」と告げ、司州を中州と改称して司隷校尉を置き、龍城に留台を設けて玄菟太守乙逸を尚書としてその統治を委ねた。