十六国春秋前燕錄三 慕容皝(下)

前燕の建国者・慕容皝の治世後半を記す(?–348年)。父慕容廆の跡を継いで遼西に拠り、東晋に働きかけて正式に燕王の号を得た。高句麗の丸都を陥れ、宇文氏を滅ぼし、扶餘を降して東方を平定し、龍城を築いて遷都した。封裕の諫言を容れて苑囿を民に開放し農政と学問を整え、前燕の版図と制度の基礎を築いた人物である。子の儁が帝を称すると文明皇帝と追諡され、廟号は太祖。

年表(14件)
  • 咸康六年340年狂を装って宇文氏のもとにいた慕容翰が脱出し帰還する
  • 咸康六年340年長史劉翔らを建康へ遣わし燕王号の承認を求める
  • 咸康六年340年精鋭二万を率いて薊城へ長駆し幽冀の民三万余戸を連れ帰る
  • 咸康七年341年柳城の北に龍城を築かせ、柳城を龍城県と改める
  • 咸康七年341年東晋成帝から大将軍・大単于・燕王に任じられる
  • 咸康七年341年慕容恪を渡遼将軍として平郭に鎮めさせる
  • 咸康八年342年龍城へ遷都し境内に大赦を行う
  • 咸康八年342年精鋭四万で高句麗を討ち丸都を陥れ、釗の母妻と五万余人を捕らえる
  • 建元元年343年世子儁らに代を討たせるが昭成帝を捕捉できず帰る
  • 建元二年344年代の昭成帝と通婚し、烈帝翳槐の娘を娶らせる
  • 永和元年345年晋の年号を用いず自らの即位を起点に十二年と称する
  • 十三年346年世子儁・恪らに扶餘を襲わせ、その王玄と五万余口を捕らえる
  • 十四年347年東晋の使者により安北大将軍に進められる
  • 十五年348年世子儁に恪と陽裕を用いよと遺言し、承乾殿で薨ずる(享年五十二)

慕容翰の帰還

  • 咸康六年(340年)春正月、高句麗王釗が世子を遣わし来朝した。かつて段遼敗北の際に宇文逸豆帰のもとへ逃れていた建威将軍翰は、自らの威名が高いために身の安全を保てないと考え、狂人を装って酒に溺れ髪を振り乱して歌い狂ったふりをし、監視を緩めさせて自由に各地を巡り、山川の地形や攻戦の要路をつぶさに把握していた。皝は商人王車を密かに遣わして翰の様子を探らせると、翰は無言のまま胸を叩くしぐさで応じ、車が報告すると皝は「翰は帰りたいのだ」と察し、弓矢を贈らせた。翰はこれを機に脱出して帰還し、皝は大いに喜び手厚くもてなした。

燕王号を巡る晋への働きかけ

  • 秋八月、皝は燕王を自称しながらも晋の正式な承認を得ていないことから、長史劉翔・参軍鞠運を建康へ遣わし戦勝を報告するとともに仮の権限の承認と、中原平定討伐の期限設定を求めた。また庾亮の死後に弟の庾冰らが将相を継いだと聞き、皝は上表して、歴代の外戚専権の弊害(前漢の田蚡・王莽、後漢の竇憲・梁冀らの故事)を引きながら、外戚一族が権力を集中させることの危うさを説き、庾冰兄弟が枢機と軍権を併せ持つ現状を憂慮し、外戚には封地と禄を厚くする一方で権勢を制限すべきだと進言した。あわせて庾冰個人にも書簡を送り、外戚として権勢の絶頂にありながら功業が伴わなければ梁冀・竇憲の轍を踏むと直言し、国難にある今こそ自らも寡兵で強敵に対抗し続けていると述べ奮起を促した。

薊城遠征

  • 秋九月、皝は石氏(後趙)討伐を計画し、諸将に「石虎は安心しきって薊城の南北の守りは手薄なはずだ、奇襲すれば冀州北部を制圧できる」と語った。冬十月、皝は自ら精鋭二万を率いて蠮螉塞から出撃、道中の趙の守備隊を次々に捕らえ薊城まで長駆した。趙の幽州刺史石光は数万の兵を擁しながら籠城し出撃しなかったため、皝は武遂の渡しを破り高陽まで進み、沿道の物資を焼き払い幽冀の民三万余戸を捕らえて連れ帰った。

龍城の造営

  • 咸康七年(341年)春正月、皝は柳城の北・龍山の南を福地として唐国内史陽裕らに命じ龍城を築かせ、門闕・宮殿・廟園・耤田を整え、柳城を龍城県と改めた。この頃、棘城の黒石谷で大石が独りでに立ち上がり動いたという奇異が伝わる。

劉翔の建康での交渉

  • 二月乙卯、長史劉翔らが建康に至り、成帝は謁見して慕容鎮軍(皝)の様子を尋ねた。翔は皝のために大将軍・仮燕王の印綬を求めたが、朝議は「大将軍は辺境に置かない、漢魏以来異姓を王に封じた例もない」として許さなかった。翔は「劉聡・石勒の乱以来、長江以北はすでに戎狄の巣窟となり、中華の公卿の子弟で腕まくりして戈を執り凶賊を打ち破った者は誰もいない、独り慕容鎮軍父子だけが力を尽くし本朝への忠を貫き、寡兵で強敵をしばしば打ち破って石虎を畏怖させ辺境の民を移住させるほどの功を立てたのに、なぜ封邑を惜しむのか」と反論、漢の高祖が韓信・彭越を王に封じて帝業を成した故事と項羽が印を刻みながら授けるのを惜しんで滅んだ故事を引いて説得を試みた。
  • 尚書諸葛恢(翔の義兄)は「仮に慕容鎮軍が石虎を除いたとしても、それは新たな石虎を得るに過ぎず朝廷に何の益もない」と反対したが、翔は「今晋室は危うくなっているのに、あなたは元凱の位にありながら憂国の心がないのか、少康の中興も桓文の覇業もその礎を築く者がいなければ成らなかった、慕容鎮軍は今まさに枕を戈にして夜も眠らず凶逆を滅ぼそうとしているのに、あなたが邪説を唱え忠臣を疑うから天下が一つにまとまらないのだ」と痛烈に反論した。翔は建康に一年余り留まったが議論は決しなかった。

燕王号の獲得

  • 翔は中常侍彧弘を説き「石虎は八州の地と百万の兵を擁し、索頭・宇文以下の諸国もみな臣従する中、慕容鎮軍だけが天子を戴いて忠義を尽くしているのに、これに殊礼の任命が下されなければ天下の人心は離反するだろう。呉が公孫淵を燕王に封じ九錫を加えた先例があるのに、今なお実効ある功をあげている慕容鎮軍に対し虚名を惜しんで忠義を挫くのは国家の長計ではない」と説き、弘がこれを帝に取り次ぐと帝も許す意向を示した。皝はさらに庾冰に書簡を送り、権力を握りながら国の恥をそそげずにいることを責め、冰はこれを見て恐れ、遠方ゆえ制御し難いことを理由に何充らと共に皝の燕王号を認める上奏をまとめた。
  • 庾翼(冰の弟)も皝に返書を送り交誼を通じた。乙卯、成帝は兼大鴻臚郭悕を遣わし節を持たせ、皝を使持節・侍中・大将軍・大都督河北諸軍事・幽州牧・大単于・燕王に任じ、殊礼をもって遇し、世子儁も仮節・安北将軍・東夷校尉・左賢王に任じられ、軍資器械が千万単位で下賜され、功臣百余人も封ぜられた。翔は代郡太守・臨泉郷侯・員外散騎常侍を授けられたがこれを固辞した。翔はかねて江南の士大夫が驕奢に耽り緊張感を欠くことを憂い、朝貴の宴席で「天下の乱から既に三紀余り、宗廟は廃墟となり民は塗炭の苦しみにあるのに、諸君は江南に安住し奢侈と傲慢を美徳として恥じない、諫言も征伐の功もなくてどうして君主を尊び民を救えようか」と痛烈に説き、何充らを恥じ入らせたという。
  • 翔が北へ帰る際、公卿がこれを見送ると、翔は「少康はわずかな兵で有窮を滅ぼし、句践は会稽の恥から強大な呉に報いた、雑草でさえ早く除くべきなのに、まして仇敵をや。今、石虎と李寿(成漢)は互いに呑み合おうとしている、王師が北方を平定できずとも、まず巴蜀に手を打つべきだ、もし石虎が先に事を起こして李寿を併呑すれば、地の利を得て東南に臨むことになり、いかに智者でもその後始末は難しくなろう」と警告し、中護軍謝広もこれに深く同意したという。

高句麗を巡る攻防

  • 秋七月、郭悕・劉翔らが燕に至ると、皝は翔を東夷校尉・領大将軍長史、唐国内史陽裕を左司馬、典書令李洪を右司馬、中尉鄭林を軍諮祭酒とした。九月、皝は恪を渡遼将軍として平郭に鎮めさせた。平郭は翰・仁の乱以来、優れた後継の将がいなかったが、恪が着任すると新旧の民を慰撫し高句麗の侵攻をたびたび撃退したため、句麗は恪を恐れて侵入しなくなったという。冬十二月、皝は魏(代)へ使者を送り婚姻を求めた。
  • 咸康八年(342年)夏六月、石虎が来攻したが皝はこれを大破した。秋七月丁卯、龍城の新殿を造営中、昌黎大棘県の城の河岸が崩れて鉄製の築頭(工事用の器具)千百七十四枚が出土し、永楽の民郭陵がこれを皝に報告したところ、皝は「造営に着手したまさにその日に鉄器が出たのは神が協力してくれる兆しだ」と喜び陵を関内侯に封じた。冬十月、皝は龍城へ遷都し境内に大赦を行った。

高句麗遠征と丸都陥落

  • 十一月、皝は自ら精鋭四万を率いて南陝から宇文・高句麗を討伐、建威将軍翰と平狄将軍霸を前鋒とする一方、長史王寓ら一万五千を北道から進ませた。高句麗王釗は燕軍が北道から来ると考え、弟の武に精鋭五万を率いさせ北道を防がせ、自らは弱兵を率いて南陝を守った。しかし翰らが先に南陝で釗の本隊と木底で交戦、皝の大軍がこれに続くと、左常侍鮮于亮が数騎で先陣を破って高句麗陣を動揺させ、大軍がこれに乗じて大勝、左長史韓寿は敵将阿佛和度加を斬り、諸軍は勝ちに乗じて丸都まで攻め入った。釗は単騎で逃走し、軽車将軍慕輿埿は釗の母周氏と妻を捕えて帰った。一方、北道の王寓らは高句麗の武の軍に敗没したため、皝はそれ以上の追撃をやめ釗に降伏を促す使者を送ったが釗は応じなかった。
  • 皝が帰還しようとした際、韓寿は「高句麗の地は守り切れない、王が退けば残党が再び集まり後患となる、その父の遺骸を運び生母を人質に取って帰り、釗が自ら出頭するのを待って返すのが上策だ」と進言、皝はこれに従い、釗の父乙弗利の墓を暴いてその遺骸と釗の母・妻を連れ帰り、代々の宝物を府庫から奪い、男女五万余人を捕虜とし、宮室を焼き丸都城を破壊して引き上げた。

高句麗の臣従と宇文氏討伐

  • 晋康帝の建元元年(343年)春二月、高句麗王釗は弟を遣わして臣従を称し方物を千単位で貢いだため、皝は釗の父の遺骸を返したが、なお母を人質として留めた。宇文逸豆帰が相国莫浅渾に討伐の兵を送らせると、諸将は迎撃を主張したが皝は許さず、渾が皝を恐れていると見て酒色と狩猟に耽り油断していることを見極めた上で「渾の驕り怠りが極まった今こそ戦える」と翰に騎兵を率いさせて撃たせ、渾は大敗しわずかに身一つで逃れ、その軍勢はことごとく捕らえられた。
  • 秋七月、代の昭成帝什翼犍が再び婚姻を求めてきたため、皝は馬千匹を礼として納めさせようとしたが、昭成帝はこれに応じず尊大な態度をとり婿の礼を欠いた。八月、皝は世子儁と前軍師将軍評らに討伐させたが、昭成帝は逃走しこれを捕捉できず帰った。冬十月、皝は自ら郡県を巡って農桑を奨励し、龍城の宮闕を大々的に再興した。

宇文氏の滅亡

  • 建元二年(344年)春正月、皝は左司馬高詡と宇文逸豆帰討伐を謀った。詡は「討てば必ず勝てるが、将にとっては不利な戦いになろう」と述べたが、皝は自ら騎兵二万を率いて出撃、翰を前鋒将軍、劉佩を副将とし、恪・霸・慕輿根らに三道から進ませた。逸豆帰は驍将の渉奕干に精兵を率いて翰を防がせたが、皝は使者を翰に送り「奕干は勇猛で三軍随一、まずは避けて敵の驕りを待つべきだ」と伝えたところ、翰は「奕干を討てば宇文国は自壊する、彼の武名は虚しいもので実際は与しやすい、みすみす敵に付け入る隙を与えるべきではない」と進撃を決断、自ら陣頭に立って渉奕干と衝突し、霸が側面から急襲して奕干を斬ると、宇文の兵は総崩れとなり燕軍は勝ちに乗じてその都城を陥落させた。逸豆帰は漠北へ逃れて客死し、宇文氏はこれにより離散した。
  • 皝は宇文氏の家畜・財貨を接収し千余里の地を開拓、その部民五万余落を昌黎へ移し、渉奕干の居城を威徳城と改めて弟の左将軍彪に守らせて帰った。高詡・劉佩はいずれも流れ矢に当たって没した。この戦いに先立ち逸豆帰は趙に恭順して貢献を続けていたため、石虎は右将軍白勝・并州刺史王霸に救援させたが、着いた時には宇文氏はすでに滅び、威徳城を攻めるも落とせず引き返し、彪の追撃を受けて敗れた。皝は凱旋の礼を行い論功行賞した。
  • 翰は宇文氏との戦いで流れ矢に当たり長く病臥していたが、快方に向かい馬を試し乗りしたところ、翰が謀反を企てているとの讒言があり、皝は翰に死を賜った(詳細は翰の伝にあり)。
  • 二月、代の昭成帝が大人の長孫秩を遣わして后(先に嫁いだ興平公主か)を迎えた。夏四月、趙の平北将軍尹農が凡城を攻めたが落とせず退いた。秋七月、皝は代へ通婚を申し入れ昭成帝はこれを許し、九月、烈帝翳槐の娘を娶らせた。

農政を巡る封裕の諫言

  • 晋穆帝の永和元年(345年)春正月、皝は貧しい民に牧牛を貸し与えて苑で耕作させその収穫の八割を公が二割を私が得る、牛を持たず土地もない者にも苑での耕作を許しその七割を公が三割を私が得るという税制を敷いた。記室参軍封裕はこれを諫め、聖王の政治は民に薄く課税し十分の一税で暮らしを支えるものであり、農官を選んで勧農に努め、功績ある農民を賞し怠る者を罰すべきだと述べた上で、永嘉の乱以来の混乱で人口が流出する中、亡き武宣王(廆)が神武の略で一方を保ち多くの流民を集めた結果、人口に対して土地が不足している現状を指摘し、皝の代に趙・句麗・宇文を破って三千里の地を広げ十万戸を増やした功績を踏まえ、諸苑をことごとく開放して流民に土地として与え、資産のない者には牧牛のみを与えて過重な税を課すべきでないと説いた。魏晋の時代でさえ官牛官田の場合でも官が取るのは六割にとどまり私牛官田なら折半であったこと、水旱への備えとして灌漑を整備すべきこと、句麗・百済・宇文・段部などの民は武力で移住させられた者で望郷の念が強く都に集中させるのは危険であるため分散して統治すべきこと、遊食の徒(不要な官吏・工商)を減らし農耕・養蚕に人を戻すべきことなど、多岐にわたる施策を上申した。あわせて、以前に直言して罪に問われた参軍王憲・大夫劉明の赦免と復職を求め、諫言する臣を罰することの弊害を説いた。
  • 皝はこの諫言に応じ、農を怠る地方官を罰する法整備、苑囿の開放と貧民への牧牛支給、灌漑事業の推進、工商・冗官の削減と農への転換、王憲・劉明の赦免と諫官への復職などを命じる詔を下し、封裕の忠言を評価して銭五万を賜った。皝は文学を好み自ら学舎に赴いて講義を奨励し、学徒は千余人に及んだが名ばかりの者も多く、これも封裕が指摘したところであった。
  • 二月、龍山に黒龍・白龍各一頭が現れ、皝は群臣を率いて観覧、二頭が首を交え戯れ角を落として去ったとされ、皝は喜んで大赦し、新宮を和龍宮、山上に龍翔仏寺を建てた。大臣の子弟を官学生として高門生と号し、旧宮に東庠を建てて郷飲の礼を行い、太上章を自ら作り典誡十五篇を著して子弟の教育に用いた。
  • 冬十月、皝は古の諸侯が即位ごとに元年を称した例に倣い、以後晋の年号を用いず自らの即位を起点に「十二年」と称するようになった。十一月、渡遼将軍恪が高句麗を攻め南蘇を抜いて守備を置き帰った。平狄将軍霸が徒河を守った際、趙の将鄧恒が数万の兵で楽安に屯し攻略を狙ったが、霸を恐れてついに侵犯しなかった。

扶餘の平定

  • 十三年(346年)、皝は世子儁と広威将軍・渡遼将軍恪・折衝将軍慕輿根の三将に騎兵一万七千を授けて扶餘を襲わせ、儁が中軍から指揮し実際の軍事は恪に委ねた結果、扶餘を陥落させその王玄と部衆五万余口を捕虜とした。皝は玄を鎮軍将軍に任じ娘を娶らせた。

内政の整備と晩年

  • 十四年(347年)春正月、皝は自ら東庠に赴いて学生を試験し、経学に優れた者を抜擢して近侍とした。夏五月戊申、晋は使者を遣わし皝を安北大将軍に進めた。冬十月、承乾殿で群臣に宴を賜ったが、右長史宋諺は貪欲な性格であったため、賜った布百疋を自ら背負って帰らせその恥を悟らせたという。皝は久しい旱害を受け百姓の田租を免じ、成周・冀陽・営丘などの郡を廃して興集県・寧集県・興平県・育黎県・呉県などに再編し、いずれも燕国に直隷させた。
  • 十五年(348年)秋七月、皝が西の辺境で狩りをし河を渡ろうとした際、白馬に乗った父老が現れ「ここは狩猟の場ではない、王は帰るべきだ」と手を挙げて制したが、皝はこれを秘して従わず河を渡り連日大猟を得た。八月、再び白兎を見て馬を馳せて射たところ、馬が倒れ石の上に落ちて負傷し、皝はようやくこの出来事を語って輦で宮へ帰った後、病を発した。
  • 病が重くなると世子儁を呼び後事を託し、「今なお中原は未平定で、これから世の大業を成すには賢才に委ねることが肝要だ、恪は智勇兼備で重責に耐える器だから、これに委ねてわしの志を継がせよ」と述べ、さらに「陽士秋(陽裕)は志操高潔で忠実堅固だから大事を託せる、そなたはこれを厚遇せよ」と遺言した。九月丙申、承乾殿で薨じた。時に年五十二、在位十五年。冬十月、龍山に葬られた。儁が帝位を僭称すると文明皇帝と追諡し廟号を太祖、陵を龍平と号した。