十六国春秋前燕錄二 慕容皝(上)

字は元真、小字は万年。慕容廆の第二子で単于妃段氏の所生、身長七尺八寸、雄毅で権謀に長け経学と天文を好んだ。333年に父の跡を継いで遼東公となり、兄弟の翰・仁・昭の離反を鎮めて遼東を平定した。段部・宇文部・高句麗と戦って版図を広げ、337年に燕王を僭称して官制を整えた。翌年、石虎の大軍に棘城を包囲されたが子の恪の出撃でこれを大破し、前燕の地歩を固めた。

年表(19件)
  • 建武元年317年世子として冠軍将軍を拝命する
  • 永昌初め322年左賢王・望平侯に封ぜられ、遠征でしばしば功を立てる
  • 太寧末325年平北将軍・朝鮮公に進む
  • 咸和八年333年廆の没後に遼東公位を嗣ぎ、平北将軍として平州刺史を代行する
  • 333年自立した宇文逸豆帰を討ち、和を請われて榆陰・安晋の二城を築いて帰る
  • 咸和九年334年封奕に白狼で卑忸堤を、淑虞に平岡で烏丸悉羅侯を討たせいずれも斬る
  • 334年自ら遼東を攻めて襄平に入城し、大姓を棘城へ移して三県を置く
  • 咸康元年335年子の儁を世子に立て、封奕に宇文の別部渉奕干を襲わせて大勝する
  • 335年十二月に王斉らが棘城へ至り、初めて晋の朝命を拝受する
  • 咸康二年336年凍結した海を渡って平郭を突き、慕容仁を捕えて誅殺し遼東を平定する
  • 336年諫言を受け付ける木柱を立てて言路を開く
  • 咸康三年337年段遼の従弟屈雲が興国城を夜襲するが五官水で敗死し全軍が捕えられる
  • 337年後趙に臣従を称して段遼討伐の援軍を乞い、石虎は翌年の大挙討伐を約す
  • 咸康四年338年令支以北の諸城を攻略し、段蘭を撃破して数千戸と家畜を得て帰る
  • 338年利を独占されたと怒った石虎が数十万で攻め寄せ、崔燾ら三十六城が叛く
  • 338年棘城を十日余り守り抜き、子の恪の騎兵二千の出撃で趙軍を破って三万余級を斬獲する
  • 338年降った段遼と謀り、三蔵口で麻秋を大破して趙軍の六、七割を失わせる
  • 咸康五年339年評・恪らが趙の遼西を襲い、謀反を企てた段遼を誅して首級を趙へ送る
  • 339年妹の興平公主を魏の什翼犍に嫁がせ、高句麗を討って新城まで進み盟約を結ぶ

世子時代

  • 慕容皝、字は元真、小字は万年。廆の第二子で単于妃段氏の所生。竜顔で歯並びよく、身長七尺八寸、雄毅で権謀に長け、経学を尊び多芸多才、特に天文に通じ国人はこれを称えた。廆(遼東公)は皝を世子に立てた。晋の建武元年(317年)冠軍将軍を拝命、永昌初め(322年頃)左賢王・望平侯に封ぜられ、遠征でしばしば功を立てた。太寧末(325年頃)平北将軍・朝鮮公に進んだ。

遼東公位の継承

  • 咸和八年(333年)夏五月、廆が没すると皝は遼東公位を嗣ぎ、平北将軍として平州刺史を代行、囚人を赦し、裴開を軍諮祭酒、高詡を玄菟太守、王誕を左長史とした(誕は遼東太守陽鶩の才を認めて自ら地位を譲り、皝は誕を右長史とした)。六月、長史王済らを晋へ送り喪を告げた。秋八月、宇文逸豆帰が乞得帰を殺して自立した機に乗じ討伐に赴くと、逸豆帰は恐れて和を請い、皝は榆陰・安晋の二城を築いて帰った。

兄弟の内紛

  • 皝は即位当初、法を厳しく用いたため国人は不安に思い、主簿皇甫真が諫めたが聞き入れなかった。庶兄の建威将軍翰は驍勇で雄才があり常々皝に忌まれ、同母弟の征虜将軍仁・広武将軍昭も廆に寵愛されていたことから皝は快く思わず、三者とも自らの立場に恐れを抱いた。翰は段遼のもとへ出奔し、仁は昭に挙兵して皝を廃するよう勧めたが事が発覚、皝は昭に死を賜り、仁の実否を確かめる使者を送ったところ、仁は事の露見を知って使者を殺し東の平郭に拠った。
  • 皝は軍諮祭酒封奕を遼東へ遣わし民心を慰撫する一方、庶弟の幼稚・軍・佟寿らに討伐させたが皝軍は大敗し幼稚の軍は仁に捕らえられた。かつて仁の司馬であった佟寿はそのまま仁に降った。襄平令王永・将軍孫機も遼東で挙兵し仁に呼応、東夷校尉封抽・護軍乙逸・遼東相韓矯・玄菟太守高詡らはみな城を棄てて逃げ帰り、仁は遼東の地を全て手中に収めた。段遼や鮮卑諸部も仁を支援した。皝はかつての皇甫真の諫言を思い出し、真を平州別駕に任じた。

段遼・宇文部との攻防

  • 咸和九年(334年)春正月、皝は封奕に白狼で卑忸堤を、揚威将軍淑虞に平岡で烏丸悉羅侯を討たせいずれも斬った。三月、段遼が徒河を侵すと別将張萌がこれを撃退した。遼は弟の蘭を慕容翰と共に柳城へ差し向けたが、柳城都尉石琮と城大慕輿埿の防戦で撃退された。遼は蘭らを叱責し兵を増して再攻、二十日にわたる包囲で死傷者千余人を出しながらも落とせなかった。皝は寧遠将軍汗と封奕を救援に送ったが、汗は皝の「万全を期し軽々に進むな」との戒めに反して先鋒として突進、牛尾谷で蘭と遭遇し大敗、封奕が陣を立て直してかろうじて全滅を免れた。
  • 夏四月、仁は自ら平州刺史・遼東公を称した。秋八月、王済が遼東から戻り、晋の成帝は使者を送り皝を鎮軍大将軍・平州刺史・大単于・遼東公に任じ持節都督・承制封拝の権をも廆と同様に与えたが、贈られた船や馬などは仁に奪われた。冬十一月、皝は自ら遼東を攻め、遼東の王岌の内応もあって襄平に入城、仁配下の翟楷・龎鑒は単騎で逃走した。皝は遼東の民を皆生き埋めにしようとしたが高詡の諫めで思いとどまり、居就令劉程は城を挙げて降り、新昌の張衡も県宰を捕えて降った。仁配下の守宰を誅し遼東の大姓を棘城へ移し、杜羣を遼東相として遺民を安んじ、和陽・武次・西楽の三県を置いて引き上げた。十二月、仁が新昌を襲ったが督護王寓がこれを撃退、新昌の民を襄平へ移した。

燕王即位までの経緯

  • 咸康元年(335年)春正月、左右司馬を置き韓矯・封奕を任じた。秋七月、子の儁を世子に立て、右司馬封奕に宇文の別部渉奕干を襲わせて大勝、その追撃も渾水で退けた。冬十月、慕容仁が王斉らを晋へ帰そうとしたが海路で風に阻まれ、十二月にようやく棘城に至り、皝は初めて晋の朝命を拝受した。
  • 咸康二年(336年)春正月、皝は仁の不意を突くべく海路からの討伐を計画、群臣は海路の危険を理由に陸路を勧めたが、皝は「昔から海が凍ることはなかったが仁の反乱以来三度凍った、後漢光武帝が滹沱河の氷を頼りに大業を成した故事のようだ、天が味方しているのだ」として計画を強行、氷結した海を渡って平郭近くまで進み、不意を突かれた仁を捕えて誅殺、遼東は平定された。晋への上表文では、将士の忠誠が天に通じ海が凍ったことを奇瑞として報告したという。
  • 夏四月、朝陽門の東に耤田を置き専任の官を設けた。六月、段遼が武興を夜襲したが雨で失敗、都督張萌が追撃してこれを捕えた。遼は弟の蘭に数万を率いさせ曲水亭に屯し柳城を窺わせ、宇文逸豆帰も安晋に侵入し蘭を支援したが、皝が五万の軍で迎え撃つと蘭は戦わず退き、逸豆帰も輜重を捨てて逃げた。封奕がこれを追撃し大破、二十日にわたり敵地で食糧を徴発して帰った。皝は「二虜は成果なく帰ったことを恥じ再来するはず」と読み、柳城付近に伏兵を置かせ、七月に果たして遼が数千騎で再来したところをこれも撃破し、その将榮伯保を斬った。九月、長史劉斌・郎中令楊景に王斉・徐孟らを建康へ送らせ、侍中顧和や大司馬桓温にも書簡を送り、桓温からも激励の返書を得た。冬十月、世子儁に段遼の諸城を、右司馬封奕に宇文の別部を討たせいずれも大勝した。十二月、諫言を受け付ける木柱を立てて言路を開いた。

燕王即位

  • 咸康三年(337年)春正月、昌黎郡を移し乙連の東に好城を築いて折衝将軍蘭勃に守らせ、さらに曲水にも城を築いて後詰めとした。夏四月、乙連が飢餓に苦しむと段遼は数千台の車で粟を送ったが、蘭勃がこれを迎撃し奪った。六月、遼の従弟屈雲が皝の子遵を興国城に夜襲したが、五官水の戦いで敗死し全軍が捕えられた。
  • かねて北平の陽裕は段疾陸眷から遼まで五代に仕えて尊敬され、遼が皝との抗争を繰り返す中「隣国と親しむのが国の宝、まして慕容氏とは代々婚姻関係にある、皝には才徳があるのに争いを続ければ社稷の憂いとなる」と諫めたが遼は聞かず、裕は北平相として出された。秋九月、鎮軍左長史封奕らは「皝の任は重いのに位は軽い、燕王を称すべきだ」と群議し、咸康三年冬十月丁卯、皝は文德殿で王位を僭称、境内の大赦を行い官制を整え、封奕を相国、韓寿を司馬、裴開を奉常、陽鶩を司隷、王寓を太僕、李洪を大理、杜羣を納言令、宋詼・劉瞻・石琮を常伯、皇甫真・陽協を冗騎常侍、宋晃・平熙・張泓を将軍、封裕を記室監とし、他の文武にもそれぞれ官を授けた。文昌殿を建て金根車に乗り六馬を用いて警蹕を称するなど帝王の儀礼を敷いた。十一月甲寅、父廆を武宣王、母段氏を武宣后に追尊し、夫人段氏を王后、世子儁を王太子に立て、いずれも魏の曹操・晋の司馬昭が朝政を輔けた故事に倣ったという。
  • 皝は段遼がしばしば辺境を脅かすことから、揚烈将軍宋回を後趙へ遣わし臣従を称して討伐の援軍を乞い、自らも国中の兵をすべて動員して呼応すると申し出、弟の寧遠将軍汗を人質として差し出した。趙王石虎は大いに喜び厚くこれに応え、人質は辞退して送り返し、翌年の大挙討伐を約した。

段遼の滅亡と趙軍来襲

  • 咸康四年(338年)春正月、皝は都尉趙槃を趙へ遣わし出師の時期を確認させた。虎は段遼討伐のため驍勇の者三万余を募って龍騰中郎とし、水軍十万・歩騎七万を発した。三月、趙槃が棘城に戻ると、皝は令支以北の諸城を攻略、段遼は弟の蘭に迎撃させたが撃破し数千戸と家畜を得て帰った。夏四月癸丑、晋は使者を遣わし皝を征北大将軍・幽州牧・領平州刺史とし散騎常侍を加え食邑一万戸を増した。五月、趙王虎が徐無に至ると遼は密雲山へ逃れ、虎は令支に進んだが、皝が先に段遼を攻めて利を独占したことに怒り、自ら大軍で燕へ攻め寄せた。
  • 皝は趙軍来襲を聞いて厳戒態勢を敷き六卿・納言・常伯・冗騎常侍などの官を一時停止した。虎が棘城に至った際の兵は数十万に及び燕人は震え上がったが、皝が内史高詡に対処を問うと「趙兵は強大だが恐れるに足りない、堅く守れば何もできまい」と答えた。虎は使者を四方に送り民や夷族を調略、成周内史崔燾・居就令游泓・武原令常霸・東夷校尉封抽・護軍将軍宋晃ら三十六城がこれに応じて叛いた。冀陽の流民は太守宋燭を殺して趙に降り(燭は晃の従兄)、営丘内史鮮于屈も趙へ降ろうとしたが、武寧令孫興が吏民を諭して屈を捕え罪を数えて誅殺し城を守った。朝鮮令孫泳も趙軍に抵抗する中、大姓王清らが内応を謀ったが泳がこれを捕え斬り、同謀数百人は畏れて罪を請うたため泳はみな赦して共に城を守った。楽浪太守鞠彭は境内がことごとく叛いた中、郷里の壮士二百余人を選んで棘城へ帰還した。

棘城籠城戦

  • 戊子、趙軍が棘城に迫ると皝は逃亡を考えたが、帳下の折衝将軍慕輿根が「趙は強く我は弱いが、王が一歩でも退けば趙の勢いは決定的になり国民も兵も奪われ二度と対抗できなくなる、趙はまさにそれを狙っている、その計に乗ってはならない、堅城を守れば持ちこたえられる」と諫め、皝は思いとどまったが、なお顔色に恐れが表れていた。玄菟太守劉佩は「強敵を前に人心が動揺する今、事の安危は王お一人にかかっている、弱みを見せてはならない」と述べ、自ら数百の決死隊を率いて出撃し趙兵を撃破して戻り、これにより士気は倍増した。皝が相国封奕に策を問うと、奕は「石虎の凶虐は極まり天も人も憎んでいる、遠征軍は補給が続かず持久すれば自ずと隙が生じる、ただ堅守すればよい」と答え、皝は安堵した。
  • 趙軍は十日余り包囲を続け、周囲から降伏を勧める声も出たが皝は「わしはまさに天下を取ろうとしているのだ、なぜ降るものか」と一蹴、慕輿根らは十余日にわたり力戦し趙軍を防ぎきった。壬辰、子の蕩寇将軍恪らに騎兵二千を率いさせ早朝に出撃させると趙軍は動揺し敗走、恪はこれを追撃して三万余級を斬獲する大勝を収めた。皝はさらに諸叛城を討って平定し版図を凡城まで広げ、崔燾・常霸は鄴へ、封抽・宋晃・游泓は高句麗へ逃走した。皝は鞠彭・孫泳・慕輿根らを賞し、叛いた者を誅滅したが、功曹長史劉翔の弁護で多くが助命されたという。凡城に城塞を築いて引き上げた。

段遼の最期と麻秋の敗北

  • 冬十二月、段遼が皝に降った。皝は趙へ偽って降伏を申し出て応援を求め、石虎が征東将軍麻秋に三万を率いさせて迎えさせ(尚書左丞で遼の旧臣であった陽裕を秋の司馬とした)、皝自らも軍を率いて遼を迎えると見せかけ、遼と共に趙軍を覆す策を謀った。皝は子の恪に精騎七千を密雲山に伏せさせ、三蔵口で麻秋を大破し趙軍の六、七割を失わせた。秋は単騎で辛くも逃れ、その司馬陽裕と将軍鮮于亮を捕え、段遼とその部衆を連れ帰り、遼を上賓の礼で遇し、陽裕を郎中令、鮮于亮を左常侍とした。

咸康五年の対外戦

  • 咸康五年(339年)夏四月、前軍師将軍評・広威将軍恪・折衝将軍慕輿根・軽車将軍慕輿埿が趙の遼西を襲い、趙の積弩将軍呼延晃・建威将軍張支らを斬り千余戸を得て帰った。段遼が謀反を企てたため皝はこれを誅殺し、その一党数十人と共に遼の首級を趙へ送った。趙王虎は鎮遠将軍石城に凡城への侵攻を命じたが落とせず、広城を陥落させるにとどまった。
  • 五月、魏の昭成帝什翼犍が婚姻を求めてきたため、皝は妹の興平公主を嫁がせた。この年、皝は高句麗を討ち新城まで進軍、高句麗王釗が盟約を求めたため兵を引いた。また子の蕩寇将軍恪・平狄将軍霸らに宇文の別部を撃たせた。霸は当時十三歳ながら勇は三軍に冠絶していたという。