十六国春秋前燕錄一 慕容廆
字は奕落瓌、鮮卑の人で昌黎棘城の出。父は渉帰、莫護跋の被った歩揺冠が訛って慕容の氏になったと伝える家に生まれた(享年六十五、在位四十九年)。284年に部落の君長に迎えられ、扶餘・宇文部・段部と戦いながら勢力を広げた。晋に帰順して鮮卑都督となり、のち大棘城に移って農桑と法制を整え、中原からの流民を郡を置いて受け入れた。東晋からは平州牧・遼東郡公に進められ、後趙の石勒の通好を拒み続けた、前燕の基礎を築いた人物である。
年表(24件)
- 太康二年281年父の渉帰が昌黎に侵攻するが、晋の安北将軍厳詢に敗走させられる
- 太康四年283年渉帰が没し叔父の耐が簒立、十五歳の廆は殺されかけて徐郁の家に匿われる
- 太康五年284年国人が耐を殺して廆を迎え立て、部落を統べることとなる
- 太康六年285年扶餘を討って王依慮を自殺させ、国城を破り万余人を捕えて帰る
- 太康七年286年遼東へ侵攻するが賈沈に将の孫丁を斬られ、扶餘が復興される
- 太康十年289年晋へ使者を送って降を乞い、武帝から鮮卑都督に任じられる
- 元康四年294年遼東の僻遠を避けて徒河の青山、のち大棘城へ移り、農桑と中国に倣う法制を敷く
- 太安初年302年棘城を包囲した宇文の別帥素怒延の十万を破り、万余人を捕斬する
- 永嘉初年307年自ら鮮卑大単于を称する
- 永嘉五年311年子の翰を前鋒として素喜連・木丸津を撃破し、二部を併合して遼東郡を再興する
- 311年王命によらぬとして王浚の授けようとした官を受けず、翰に段疾陸眷を攻めさせる
- 建興年間313年幽州の乱で数万家の流民が身を寄せ、冀陽・成周・営丘・唐国の四郡を置いて統治する
- 建武元年317年元帝から都督遼左雑夷流民諸軍事・龍驤将軍・大単于を授かり、王濟を建康へ送って即位を勧める
- 太興元年318年元帝の即位に伴い改めて龍驤将軍・大単于・昌黎公を授かるが、公爵は固辞する
- 太興二年319年崔毖の結んだ三国の連合を離間して破り、宇文悉独官を大敗させ玉璽三紐を得る
- 319年追い詰められた崔毖が高句麗へ逃走し、遺された民はすべて廆に降る
- 太興三年320年晋から監平州諸軍事・安北将軍・平州刺史に任じられ食邑を加増される
- 太興四年321年使持節・車騎将軍・平州牧に進み遼東郡公に封ぜられ、子の皝を世子とする
- 永昌元年322年世子皝に令支を襲わせ、千余家と名馬・宝物を得て帰らせる
- 太寧三年325年石勒の通好を拒み、報復に来た宇文乞得帰を皝・仁とともに大破する
- 咸和五年330年晋が加えようとした開府儀同三司を固辞する
- 咸和六年331年太尉陶侃に書を送り、東晋が北伐の兵を挙げれば呼応すると伝える
- 咸和七年332年石勒が再び求めた通好をこれも拒む
- 咸和八年333年文德殿で薨じて青山に葬られ、車騎大将軍を追贈され襄公と諡された
出自と系譜
- 慕容廆、字は奕落瓌、鮮卑の人。本は昌黎棘城の出で、伝説では高辛氏が海浜に遊んだ際に末子の厭次を北夷の君として留めたのに始まり、代々遼左の紫蒙の野に居して東胡と号したという。のちに匈奴と並び立つほど強盛となったが秦漢の頃に匈奴に敗れ、鮮卑山に拠って鮮卑と号した。十一世祖の乾帰は、天から降臨したという金銀の鎧兜と白馬・金銀鞍を身につけた神を見て、鮮卑の人々からこれを神格化され君長に推された故事が伝わる。
- 曽祖の莫護跋は魏初に諸部落の大人を率いて塞外から遼西に入り、司馬懿の公孫淵討伐に従軍した功で率義王を拝し、棘城の北に王府を建てた。当時の燕代の若者が歩揺冠を好んで被っていたのを見て莫護跋も髪を束ねてこれを被ったため「歩揺」と呼ばれ、のちに音が訛って「慕容」となり、これを氏としたという。祖の木延は左賢王として毌丘倹の高句麗遠征に従軍し大都督・左賢王の号を加えられた。父の渉帰(一名奕落韓)は柳城平定の功で鮮卑単于を拝し遼東の北に遷り、胡風を改め「二儀の徳を慕い三光の容を継ぐ」の意で慕容を姓としたという。
幼少期と危難
- 廆は幼くして体格が立派で美貌、身長八尺、雄々しく度量が大きかった。晋の安北将軍張華は人物鑑識に優れ、少年の廆に会って「そなたはきっと一世の器となり、乱を治め世を救う者となろう」と感嘆し、自分の冠を与えて親交を結んだという。
- 晋武帝の太康二年(281年)冬、父の渉帰が昌黎に侵攻したが安北将軍厳詢に敗走させられた。太康四年(283年)、渉帰が没すると弟の耐が簒立し廆を殺そうとしたため、当時十五歳の廆は難を避けて出奔、追手が迫る中、遼東の徐郁の家に匿われ、莚で身を隠したところ追手が屋内を捜しても発見できず難を免れたという。
部族統一と初期の対外戦争
- 太康五年(284年)、国人が耐を殺して廆を迎え立て、廆は部落を統べることとなった。父の代からの宇文鮮卑との遺恨を晴らそうと討伐を上表したが武帝は許さず、廆は怒って遼西に侵攻し多くを殺掠した。晋の幽州諸軍がこれを討ったが肥如の戦いで廆軍が大敗させ、以後も昌黎への侵攻は毎年やまなかった。
- 太康六年(285年)には東の扶餘を討ち、扶餘王依慮は自殺、その子弟は沃沮に逃れ、廆は国城を破り万余人を捕えて帰った。太康七年(286年)に遼東へ侵攻すると、扶餘の遺児依羅が東夷校尉何龕に助けを求め、龕の派遣した督護賈沈が廆の将孫丁を斬って扶餘を復興させた。以後も廆は扶餘の民を捕えては中国へ売り、晋の朝廷が官物で買い戻し扶餘人の売買を禁じたという。
晋への帰順と何龕との逸話
- 太康十年(289年)夏四月、廆は「わが先祖以来代々中国に仕えてきた、華夷の理は強弱を異にする、なぜ晋と争って民を害する必要があろうか」と衆に諮り、晋へ使者を送って降を乞い、武帝はこれを喜び鮮卑都督に任じた。五月、廆が東夷校尉何龕に謁見した際、龕が士大夫の礼をもって粗略に迎えたため、廆はあえて戎衣に着替えて入り「主人が客を礼をもって迎えぬなら、客が礼を尽くす必要もない」と述べたため、龕は大いに恥じ入り以後は廆を敬い憚るようになったという。
- 東胡の宇文氏・段氏の鮮卑は廆の威徳が広がるのを恐れてしばしば侵掠したが、廆は謙った言葉と厚い贈り物でこれを懐柔した。鮮卑段国の単于階は娘を廆に嫁がせ皝と仁が生まれた。元康四年(294年)、廆は遼東が僻遠であるとして徒河の青山へ、のちに顓頊ゆかりの地とされる大棘城へと居を移し、農桑を教えて上国(中国)に倣う法制を敷いた。永寧年間(301-302年)に大水害が起きた際は倉を開いて幽州方面まで救済し、天子はこれを聞いて衣服を賜り褒めたという。
素怒延・宇文部との攻防と人材登用
- 太安初年(302年頃)、鮮卑宇文単于莫珪の部衆が強盛となり、その別帥素怒延が諸部を侵掠したため廆自ら撃退したが、これを恥じた素怒延は十万の兵で棘城を包囲した。人々が動揺する中、廆は「烏合の衆で軍紀もない、力戦すれば恐れることはない」と諭して自ら甲冑を着け出撃、素怒延軍を百里にわたり追撃して万余人を捕斬する大勝を得た。この頃、遼東の孟暉が宇文部から数千家を率いて投降し、廆は勤勉廉直な慕輿句に府庫を、明敏な慕輿河に獄訟を司らせるなど人材を適所に配したという。
- 永嘉初年(307年)、廆は自ら鮮卑大単于を称した。当時、魏の昭帝(諱は禄官)が没し弟の穆帝(諱は猗盧)が三部を統べたが、かつて昭帝の代に廆と敵対関係にあったのが、この頃には和好を通じるようになっていた。永嘉三年(309年)、遼東太守龐本が私怨で東夷校尉李臻を殺害したため、詔により渤海の封釋が代わって太守となり本を討ち斬った。
連津の乱と遼東の再興
- 永嘉五年(311年)、李臻の死に乗じ、遼東の鮮卑素喜連・木丸津らが臻の復讐を名目に諸県を攻め殺掠を重ね、郡兵や太守袁謙もこれに敗れ続けた。東夷校尉封釋は討伐を恐れて和睦を求めたが連津は応じず、流民が日々廆のもとへ帰順した。廆の庶子で鷹揚将軍の翰は「連津の暴虐は甚だしく、王命に仗って義兵を興し諸部を討てば、上は遼東を復興し下は二部を併呑できる、これぞ覇業の基である」と進言、廆は「若いのによくぞそこまで見通したものだ」と喜び、翰を前鋒として連津を撃破しその二部を併合、掠奪されていた民三千余家を取り戻して棘城に遷し遼東郡を再興した。
- ちょうど晋の懐帝が平陽で捕らわれの身となった頃、王浚は承制して廆に散騎常侍・冠軍将軍などを授けようとしたが、廆は王命によるものでないとして受けなかった。翰を派遣して段疾陸眷を攻めさせ徒河・新城・陽楽を得て引き上げ、翰はそのまま徒河の青山塁に鎮した。当時、両京陥落で幽冀も乱れ、中国の流民が多く王浚を頼ったが浚は撫恤できず法政も乱れて士民が離反する一方、段氏兄弟も武勇のみを重んじ士大夫を軽んじたため、刑政の整った廆のもとへ多くの流民が身を寄せた。廆は河東の裴嶷ら英才を登用して謀主・股肱に任じ、機要の職を固めた。
- 遼東の張統が楽浪・帯方の二城に拠り高句麗王乙弗利と長年抗争していたが、楽浪の王遵の説得で千余家を率いて廆に帰順、廆は楽浪郡を置いて統を太守に任じた。建興年間(313-316年)、王浚が石勒に殺され幽州が乱れると、会稽の朱左車・魯国の孔纂・泰山の胡母翼らが薊から昌黎へ逃れて廆を頼り、中国からの流民は数万家にのぼった。廆は出身州郡ごとに冀陽郡・成周郡・営丘郡・唐国郡を設けてこれを統治した。愍帝は使者を遣わし廆を鎮軍将軍・昌黎遼東二郡公に任じた。
東晋への帰順と燕王への推挙
- 晋元帝の建武元年(317年)春三月、元帝は承制して廆に仮節・散騎常侍・都督遼左雑夷流民諸軍事・龍驤将軍・大単于・昌黎公を授けたが、廆は公爵を辞退した。征虜将軍魯昌が「諸部がなお兵を擁して従わぬのは官が王命によるものでないからだ、まず建康に使者を送り帝統を継ぐよう勧め、その上で帝命を宣べて有罪を討てば誰も従わぬ者はない」と説き、処士の高詡も同様に「大義を示した上で諸部を征すれば大義名分は立つ」と進言、廆はこれに従って長史王濟を建康へ遣わし即位を勧めた。
- 太興元年(318年)春三月、元帝が即位すると改めて龍驤将軍・大単于・昌黎公を授けられたが公爵はなお固辞、游邃を龍驤長史、劉翔を主簿とし府朝の儀法を定めさせた。長史裴嶷の勧めもあって諸部の弱小なものを漸次併呑していった。
崔毖・三国連合軍との戦い
- 太興二年(319年)、廆の勢力が広がり棘城に拠ると、晋の平州刺史東夷校尉崔毖は自らの威信を保てず廆を妬み、密かに高句麗・宇文氏・段国氏と結んで廆討滅を謀った。三国が合流して攻め寄せると諸将は迎撃を主張したが、廆は「烏合の衆で統率がなく久しく続かず内部対立するはず、まず固守して待つべきだ」と方針を示し、単独で宇文の大人へ牛酒を贈り「崔毖からの使者が来た」と流布させて他の二国に疑心を生じさせた。二国は撤退したが宇文氏の悉独官は「他国が去るなら自分が独り功を得る」として数十万の大軍で棘城を包囲した。
- 徐河にいた子の翰は「敵は多勢だが計略で勝てる、外で奇兵となって呼応したい」と献策したが、廆は当初これに躊躇し、遼東の韓寿の進言もあって最終的に翰の策を容れた。悉独官が翰を先に討とうと数千騎を差し向けると、翰は段氏の使者を装って敵を油断させ伏兵で殲滅、そのまま進軍して廆と呼応した。廆は子の皝と裴嶷を前鋒に、自ら大軍を率いて後詰めとし、油断していた悉独官の陣営を翰の別動隊が横合いから急襲して火を放ち、これを大敗させた。悉独官はわずかに身一つで逃れ、廆軍はその陣営から皇帝の玉璽三紐を得たという。
- 崔毖はこの敗報に恐れをなし、甥の燾を棘城へ遣わして偽って祝賀を述べさせたが、廆は攻囲の跡を燾に示し「叔父は三国を結んで我らを滅ぼそうとしながら、なぜ偽って祝賀に来たのか」と詰問、燾は服罪した。廆は燾を通じて「降伏こそが上策」と毖に伝えて追撃すると、毖は数十騎とともに高句麗へ逃走し、遺された民はすべて廆に降った。廆は子の仁を征虜将軍として遼東を鎮めさせ、市街も動揺なく治まった。高句麗の別将如奴子が于河城で略奪を働くと、樂浪太守張統がこれを急襲して捕え千余家を得た。崔燾・高瞻・韓恒・石琮らは棘城に移されて客礼で遇されたが、高瞻は病と称して出仕を拒み、廆はこれを不満に思ったが高瞻は憂いのうちに没したという。
東晋との連携強化
- 宋詼の勧めで廆は捷報を建康へ献じ、裴嶷に得た三璽を奉じさせて建康に届けた。高句麗がしばしば遼東を侵すと廆は翰と仁に討伐させ、句麗王乙弗利が盟約を求めて来たため兵を引いた。
- 太興三年(320年)春三月、建康から戻った裴嶷が廆の威徳を盛んに称えたため朝廷はこれを重んじ、監平州諸軍事・安北将軍・平州刺史に任じ食邑を加増した。太興四年(321年)冬十二月には使持節・都督幽平二州東夷諸軍事・車騎将軍・平州牧に進め遼東郡公に封じ食邑一万戸、侍中・単于はそのままとした。廆はこれを機に僚属を整え、子の皝を世子とし、裴嶷・游邃を長史、裴開を司馬、韓寿を別駕、楊耽を軍諮祭酒、崔燾を主簿、黄泓・鄭林を参軍事とし、朱左車・孔纂・胡母翼ら徳望ある者を賓友とし、劉讃を東庠祭酒として世子皝ら貴族の子弟に学問を授けさせ、自らも政務の合間に講義を聴いたという。これにより路に頌徳の声が満ち礼譲の風が興ったと伝わる。翰を遼東に、仁を平郭に鎮めさせ、それぞれ善政を敷いた。
- 永昌元年(322年)冬十二月、段末波が国を統べたばかりで守りが手薄なのに乗じ、世子皝に令支を襲わせ千余家と名馬・宝物を得て帰らせた。
東晋朝廷との関係と石勒との対立
- 晋明帝の太寧元年(323年)春二月、長史裴嶷を遼東相とした。太寧二年(324年)秋七月、晋は使者を遣わし食邑五千戸を加増し旧好を重ねて確認した。太寧三年(325年)春三月、石勒が通好を求める使者を送ってきたが廆はこれを拒み、使者を建康へ送ってしまった。勒は激怒し、宇文乞得帰に官爵を加えて廆を撃たせたが、廆は皝を主将に、裴嶷を右部都督として索頭・段国を右翼、仁を左翼とする迎撃態勢を敷いた。乞得帰は澆水に拠って持久戦を図り、兄の子悉抜雄に伯林の仁を襲わせたが仁はこれを迎え撃って斬り、その軍を丸ごと捕えた。勝ちに乗じて皝と共に乞得帰を大破し、乞得帰は軍を捨てて逃走、廆軍は国城に入り追撃で財貨・家畜を得、数万戸の民を連れ帰った。乞得帰はその後、東部大人逸豆帰に追われて殺され、逸豆帰が自立したという。
- 同年冬十一月、段氏と親交のあった廆は、段牙のために都を牙へ移させる策を進言してこれを実行させたが、令支の国人はこれを喜ばず、段疾陸眷の孫の遼が牙の遷都を口実に国人を率いて牙を殺し自立した。段氏は務勿塵以来次第に強盛となり、漁陽から遼水にまたがる地に胡・晋三万余戸、控弦の兵四、五万を擁するに至っていたという。
- 晋成帝の咸和元年(326年)秋九月、廆を侍中・位特進に任じる使者が来た。咸和二年(327年)春二月、廆は建康へ使者を送り爵位を固辞したが優詔によって許されなかった。咸和三年(328年)冬十二月、後趙の石勒が趙主劉曜を殺した。咸和四年(329年)春正月、石虎が長安を取り、冬十二月には羌の酋長姜聡が吐谷渾王吐延を殺害した(吐延は廆の庶兄で吐谷渾の子、その子葉延が跡を継ぎ白蘭山に拠って国号を吐谷渾としたという)。
晩年の統治と陶侃への上申
- 咸和五年(330年)春、晋がさらに開府儀同三司を加えようとしたが廆はこれも固辞した。廆はかつて「訴訟は人命に関わるから慎まねばならない、賢人君子は国家の基だから敬わねばならない、農耕は民生の本だから怠ってはならない、酒色と佞言は徳を乱す最たるものだから戒めねばならない」と語り、これを『家令』数千言にまとめて記したという。
- 咸和六年(331年)秋、僚属の宋詼らが廆の功に比して官位が低いとして進爵を上表しようとしたが、参軍の韓恒は「功を立てる者は名声を求めるべきで地位の高さを求めるべきではない、桓公・文公も先に礼命を求めず功を成した後に自然と九錫を得たのだ、君に取り入って寵を求めるようなことをすべきでない」と反対した。廆はこれを喜ばず韓恒を新昌令に左遷したが、なお使者を太尉陶侃のもとへ送り、後趙(羯族)打倒への協力と自らの忠義を訴え、歴史上の名臣・名将の故事を多く引きながら東晋が北伐の兵を挙げれば呼応する用意があると伝える書簡を送った。あわせて僚属からも、廆の功に見合う燕王への進爵を朝廷に働きかけるよう陶侃に上申する書が送られたが、廆自身はなお謙譲を貫きこれを望まぬ姿勢を示していたという。陶侃は返書でこの上申を朝廷(天台)の裁定に委ねる意向を伝えた。
- 咸和七年(332年)春三月、石勒が再び通好を求めたが廆はこれも拒んだ。
薨去
- 咸和八年(333年)夏五月甲申、廆は文德殿で薨じ青山に葬られた。享年六十五、在位四十九年。朝廷は使者を遣わして車騎大将軍・開府儀同三司を追贈し諡を襄公とした。子の皝が燕王となると武宣王と追諡し、のちに皝の子儁が皇帝を僭称した際には武宣皇帝と改諡し廟号を高祖とした。