王浚滅亡時の節義
- 裴憲、字は景思、河東聞喜の人。父は裴楷。幼くして聡明で人と交わることを好んだが、二十歳を境に節を改め儒学を修め数年間国門を出なかった。陳郡の謝鯤・頴川の庾凱ら俊才もその剛直さと識見を高く評価した。王浚の下で尚書郎となったが、浚が石勒に破られた際、他の部下たちがこぞって軍門に謝罪し賄賂を贈る中、憲と従事中郎荀綽だけは私邸で動じず出向かなかった。勒がこれを咎めると、憲は毅然として涙しつつ「処罰は有司に委ねます」とだけ答えて拝礼せず退出し、勒はこれを深く評価し賓客の礼で遇した。
- 勒が浚の将佐・親戚の家財を没収させたところ、他の者は皆巨万の富を蓄えていたのに憲と荀綽の家には書物百余袋と塩米各十余斛しかなかった。勒はこれを聞いて張賓に「わしは幽州を得たことよりこの二人を得たことが嬉しい」と語り、憲を従事中郎に任じた。
石勒・石虎の代での重用
- 憲はのちに長楽太守となり、勒の即位後は尚書として機務に参与、王波と共に朝儀典章を制定し、王者に擬するほど整備されたことを勒は大いに喜び大中大夫・司徒に進めた。憲はまた東耕儀を撰し、中書令徐光の建議で親耕の際の服制が改められた。
- 石虎の代にはさらに礼遇されたが、二子の挹・㲄は河間の郝魚との確執から偽りの密告により誅殺され、憲もこれに連座して免官された。まもなく右光禄大夫・司徒・太傅に復し安定郡公に封ぜられ、官途に特筆すべき治績はなかったものの、徳と名望によって石氏の代を通じて重んじられた。