十六国春秋後趙錄十二 徐龕

反乱の経緯

  • 徐龕、太山の人。勇猛だが素行が悪く、かつての盗賊たちがこぞって彼に帰属し、公然と略奪を行った。太興元年(318年)、晋の太山太守となったが、周撫が寒山で反乱を起こすと部将于薬がこれを斬った。論功の際、彭城内史劉遐が先んじて功を主張したため龕は怒り、郡を挙げて反乱し安北将軍・兖州刺史を自称、東莞太守侯史旄を破ってその塢に拠った。

晋と後趙の間での寝返り

  • 石勒が石虎を遣わして討伐させると龕は恐れて晋の元帝に降伏を願い出て許されたが、まもなく再び勒に叛帰した。元帝が誰に討伐させるべきか王導に問うと、導は太子左衛率羊鑒が龕の同郷の名族であり抑えられるはずと推薦したが、鑒自身は将帥の才に非ずと固辞し、郄鑒も鑒の不適を上表したが導は聞かず、鑒を征討都督とし徐州刺史蔡豹・臨淮太守劉遐・武威将軍侯礼・鮮卑段文鴦に討伐させ、檀丘で龕を破った。
  • 龕は勒に救援を求めたが、勒は多くの要求を出しつつ王歩都を先鋒に送った。歩都らの淫虐な振る舞いに苦しんだ龕は、後継の張景が東平に至った際、自分を襲うものと疑って歩都ら三百余人を斬り再び晋への降伏を求めた。勒は激怒し、元帝も龕の変わり身の早さを嫌って降伏を受け入れず、鑒は逡巡して免官され、代わった蔡豹が卞城に迫ると龕は再び勒に降った。

最期

  • 石虎が鉅平から豹を攻めようとすると豹は夜逃げし、龕は檀丘で豹の輜重を襲い将軍劉寵・陸党を討ち死にさせた。まもなく龕は再び勒に叛いて晋に降ったが、勒は石虎に精騎四万を率いさせて撃たせ、龕は籠城して戦わず、虎は長囲を築いて包囲し城は陥落、龕は捕えられ襄国へ送られた。勒は龕を袋に入れて百尺楼から自ら投げ落として殺し、歩都らの妻子は生きたまま食わせたという。