十六国春秋後趙錄十二 汲桑

挙兵と敗死

  • 汲桑、平陽の人(一云、清河貝丘の人)。二十余歳で百鈞を担ぐ力を持ち、大声は数里に響いたという。かつて成都王司馬穎に仕え、穎の死後もその棺を軍中に載せ何事も棺に啓してから動いた。石勒と共に苑の牧馬人を率いて公孫藩に投じたが藩の死後、群衆を集めて郡県を略奪し自ら大将軍と称した。
  • 劉淵の永鳳元年(308年)、桑は趙魏の地で再挙兵し趙王を自称、成都王穎の仇討ちを掲げ石勒を先鋒として鄴を攻めたが、晋の将茍晞に敗れて楽陵へ逃れ、乞活の田甄に殺された。先立って洛陽で流行った童謡が桑の敗死を予兆していたと伝わる。
  • 桑はかつて真夏の盛暑に厚着をして人に扇がせ、なお涼しくないと扇者を斬ったことがあり、軍中では将軍の理不尽さを嘲る歌が作られたという。