石世の廃立と輔政体制
- 石遵、字は大祗。虎の第九子で、初め斉王に封じられ、虎の即位後に彭城王と改封された。虎の死後、世が位を嗣いでいたが、遵はこれを廃して自ら即位し、母の鄭氏を皇太后、妃の張氏を皇后とし、もと燕王斌の子衍を皇太子に立てた。大司馬義陽王鑒を侍中太傅、沛王沖を太保、楽平王苞を大司馬、汝陰王琨を大将軍、武興公閔(石閔、のちの冉閔)を都督中外諸軍事・輔国大将軍・録尚書事として輔政させた。李農も帰参して罪を謝したため、遵は元の地位に復し当初通りに遇した。
鄴の大火と血の雨
- 遵の即位七日目の甲午、鄴に暴風が吹いて樹木をなぎ倒し、雷雨・雹(盂升ほどの大きさ)が降り、太武暉華殿と宮内の府庫を焼き、閶闔をはじめ諸門・観閣に至るまで焼き尽くした。天子の車服も大半が焼け、光炎は天を照らし金石も燃え尽きるほどで、火は一月余りも消えなかった。翌乙未には鄴城全域に血の雨が降ったという。
沛王沖の挙兵と鎮圧
- 薊を鎮めていた沛王沖は遵が世を殺して自立したと聞き、僚佐に「世は先帝の命を受けた身、遵はこれを廃して殺した、これほどの大逆はない。内外に戒厳を命じ、自ら討伐に赴く」と告げた。寧北将軍沐堅を幽州に残し五万の兵を率いて薊から南下、檄を燕趙に伝えると各地から兵が雲集し、常山に至る頃には十余万に膨れ上がった。苑郷に至った時、遵からの赦書に接し、沖は左右に「みな我が弟だ、死者は取り戻せぬ、何のために殺し合うのか、私は帰ろう」と言ったが、将の陳暹が「彭城の簒奪弑逆は大罪です、王は北へお戻りになっても、私は南へ赴き、京師平定・彭城捕縛の後に大駕をお迎えします」と諌めたため、沖は再び進軍した。
- 遵は王擢に書を持たせて沖を説得しようとしたが聞き入れられず、武興公閔に黄鉞・金鉦を仮し、李農らと精鋭十万を率いて討伐に向かわせた。平棘の戦いで沖の軍は大敗し、沖は元氏で捕らえられて死を賜り、その兵卒三万余人は生き埋めにされた。
- この月、遵は中黄門竺昌蒲を遣わし道安を華林園に招き房舎を広く修めさせようとしたが、道安は石氏の末に国運が衰え危ういと見て、西の牽牛山へ去った。
晋の北伐と関中の動揺
- 六月、晋の桓温は趙の内乱を聞いて安陸に出屯し、諸将を河北経略に遣わした。遵の揚州刺史王浹は寿春を挙げて晋に帰順した。秋七月、晋の褚裒は趙討伐を上表して即日戒厳し泗口へ進んだ。朝議は褚裒の地位の重さゆえ深入りを避け偏師を先発すべきとし、裒は前鋒督護王頤之らを彭城へ進めて威信を示し、後に督護糜嶷を下邳へ進めると賊は敗走、嶷はその城池を占拠した。河朔の士庶で帰順する者は日に千を数え、裒はこれを厚く迎え入れた。督護王龕を沛へ派遣し、遵の偽相支重を捕らえ郡中二千余人が帰順、魯郡山の五百余家も義兵を挙げて援を求めた。
- 遵は李農を南討大都督とし騎兵二万で拒がせた。裒は王龕・李邁に精兵三千を率いさせ迎え入れようとしたが、裒の節度に違い代阪で李農に敗れ、李邁は戦死、士卒の死傷は大半に及んだ。龕は節を守り屈せず、後に殺された。裒は進めず八月に広陵へ退き、陳逵はこれを聞いて恐れ、寿春の蓄えを焼き城を毀って逃げ帰った。
- 長安を鎮めていた楽平王苞は関右の兵を率いて鄴を攻めようと謀ったが、左長史石光・司馬曹曜らが固く諌めたため苞は怒って光ら百余人を誅殺した。苞は貪欲で無謀であり、雍州の豪族はその成功のないことを見て皆密使を晋へ送った。晋の梁州刺史司馬勲が兵を率いて赴き、仇池公楊初は西城を襲って破った。九月、勲は駱谷を出て遵の長城の戍壁を懸鉤で破り(長安まで二百余里)、治中劉煥を遣わして長安を攻め京兆太守劉秀離を斬り、賀城も抜いた。三輔の豪傑の多くが太守・令長を殺して勲に呼応し、砦は凡そ三十余、衆は五万人に達した。苞は鄴攻めの計画を中止し、麻秋・姚国らに騎兵を率いさせて勲を防がせた。遵は車騎将軍王朗に精騎二万を率いさせ、表向きは勲討伐としながら実は苞を捕らえて鄴へ送らせた。勲は兵が少なく自立できず、朗を畏れて進めなかった。
- 冬十月、遵の将石遇は宛を攻め陥落させ南陽太守郭啓を捕らえた。司馬勲は懸鉤の囲みを解いて再び宛を攻め、遵の南陽太守袁景を殺して梁州へ退いた。
武興公閔との確執と石遵の誅殺
- かつて遵が李城を発つ際、武興公閔に「事が成れば汝を儲君にする」と言ったが、実際には衍を太子に立てたため閔は深く失望した。閔は功績が並ぶ者なきことから朝政を専らにしようとしたが、遵はこれを忌んで任せなかった。閔はもとより勇猛で戦功多く、夷夏の宿将たちも皆畏れ憚る存在であった。都督として内外の兵権を握ると、殿中の将士やもと東宮に属した高力一万余人を懐柔し、彼らを殿中員外将軍・爵関外侯に上奏して宮女を賜るなど恩を売った。遵はこれを疑わなかったが、善悪を書き分けて評定することで閔の威を挫こうとし、衆はみな怨み怒った。中書令孟凖・左衛将軍王鸞は遵に閔の兵権を徐々に奪うよう勧め、閔はますます恨みを深め、凖らは誅殺を勧めるに至った。
- 十一月丙辰、遵は義陽王鑒・楽平王苞・汝陰王琨・淮南王昭を鄭太后の前に召し「閔の不臣の兆候がいよいよ明らかだ、誅すべきか」と問うた。鑒らは「しかるべきです」と答えたが、太后は「李城からの帰還兵に棘奴(閔の幼名)がいなければ今日はなかった、少々驕慢だからといってすぐに殺してよいものか」と述べた。鑒は退出すると宦者楊環を遣わして急ぎ閔に知らせた。閔はそこで司空李農・右衛将軍王基を脅して密かに遵の廃立を謀り、将軍蘇彦・周成に甲士三千を率いさせ、南台の如意観で遵を捕らえさせた。遵はちょうど婦人と碁を打っていたが、成らに「反逆者は誰か」と問うと、成は「義陽王鑒を立てるべきです」と答え、遵は「私でさえこの有様だ、お前たちが鑒を立てても何日もつものか」と言い残して殺された。あわせて鄭太后・張皇后・太子衍・上光禄大夫張斐・中書令孟凖・左衛将軍王鸞らも琨華殿で誅殺された。遵の在位は百八十三日であった。