張豺の専権と司空李農の逃亡
- 石世、字は大業。虎の末子で、劉曜の幼女安定公主が生んだ子である。石宣らが誅された後、張豺の勧めにより太子に立てられ、虎が死ぬとただちに即位した。母の劉氏を皇太后として臨朝称制させ、張豺を丞相に進めたが、豺は辞退し、彭城王遵・義陽王鑒を左右丞相として人心を慰めることを求め、劉氏はこれに従った。
- 豺は太尉張挙と謀り司空李農を誅そうとしたが、挙は日頃農と親しく、密かにこの謀を告げた。農は恐れて騎兵百余りを率い広宗へ奔り、乞活の数万家を糾合して上白の砦に拠った。劉氏は張挙に宿衛の精鋭を率いさせこれを包囲させ、豺は張離を鎮軍大将軍・監中外諸軍事・司隷校尉として自らの副とした。鄴中では群盗が相次いで蜂起した。
彭城王遵の挙兵
- 彭城王遵はもと関右を鎮めていたが、この喪報を聞いて河内に駐屯した。折しも冠軍大将軍姚弋仲・車騎大将軍蒲洪・安西将軍劉寧・征虜将軍石閔・武衛将軍王鸞・寧西将軍王午・立義将軍段勤・石栄・王鉄らが梁犢討伐を終えて凱旋する途中、李城で遵に遇い、口を揃えて「殿下は年長で賢く、先帝も殿下を嗣子にと考えておられたが、晩年惑わされ張豺に誤られた。今は女主が臨朝し奸臣が政を専らにし、両軍睨み合いのまま京師の守りは手薄です。殿下が張豺の罪を天下に示し兵を進めれば、誰が城門を開いて迎えぬ者がありましょうか」と勧めた。遵はこれに従った。
- 五月、遵は李城から挙兵して鄴へ向かい、洛州刺史劉国らも洛陽の兵を率いて合流した。檄が鄴に届くと張豺は大いに恐れ、上白を囲む軍を急ぎ召還した。丙戌、遵は蕩陰に至り九万の兵を集め、石閔を前鋒都督とした。豺が迎撃しようとしたが、古参の羯族の兵士たちは「天子の子が喪に馳せ参じたのだ、張豺のために城を守るわけにはいかぬ」と城壁を越えて出迎え、豺が斬っても止められず、張離もまた龍騰の兵二千を率いて関門を破り遵を迎え入れた。
- 劉氏は恐れて張豺を召し、涙ながらに「先帝の柩もまだ埋葬されぬのにこの禍難、幼い皇嗣を将軍に託した、どうすればよいか。遵に重い官職を与えれば収まるだろうか」と問うたが、豺はなすすべなく、ただ「はい、はい」と答えるのみであった。劉氏は遵を丞相・大司馬・大都督・督中外諸軍・録尚書事とし、黄鉞・九錫を加え十郡を増封して阿衡(伊尹のような後見役)の任を委ねた。
張豺の誅殺と石世の廃殺
- 己丑、遵は安陽亭に至り、恐れて出迎えた張豺を捕らえさせた。庚寅、遵は甲を貫き兵を従えて鳳陽門から入り太武前殿に登って哀哭し、東閣に退いてから豺を平楽市で斬り三族を滅ぼした。劉氏の名で「嗣子は幼く、先帝の私恩による授任であり皇業の重責には堪えられない、遵に嗣位させる」との令を発し、遵は三度辞退したが群臣の勧めでついに受け、太武前殿で即位し死刑以下を大赦、上白の包囲を解いた。
- 辛卯、世を譙王に封じて邑万戸を与え臣下ではない礼をもって遇したが、太后劉氏を廃して太妃とし、まもなく両者とも殺された。世の在位はわずか三十三日であった。