十六国春秋後趙錄七 石虎(下)

後趙の君主石虎の建武十二年(346年)から死去までを記す。華林苑・長城・芳林園の造営に数十万を徴発し、帝王陵墓の盗掘や苛酷な遊猟で民を苦しめ、諫言する臣を次々に退けた。太子石宣が弟の秦公石韜を暗殺すると、宣を凄惨な刑で焼き殺し、幼い石世を太子に立てた。349年に南郊で皇帝に即位して太寧と改元したが、東宮の旧兵による梁犢の乱が起こり、姚弋仲らがこれを鎮めた。同年、金華殿で薨じ、在位十五年であった。

年表(20件)
  • 建武十二年346年讒言により尚書朱軌を投獄し、諌めた蒲洪を憚って長安・洛陽の造営を停止する
  • 346年私語を禁じ奴が主人を告発することを奨励する法を定め、密告が横行する
  • 346年麻秋・張伏都が金城を攻めるが、張重華の遣わした謝艾に敗れて退く
  • 建武十三年347年三公九卿を率いて鄴城南の桑梓苑で親耕の儀礼を行い、襄国で石勒の墓に謁する
  • 347年麻秋が涼州で謝艾に追撃されて大敗し、単騎で大夏へ逃れる
  • 347年歴代帝王・先賢の陵墓を暴かせ、秦始皇陵から銅柱を取って器を鋳させる
  • 347年暴雨と大雪で凍死者数千人を出し、天災を鎮めるとして尚書令宋軌を誅する
  • 347年趙攬・申鍾・石璞の切言を退けて造営を急がせ、暴風雨で数万人の死者を出す
  • 347年太子石宣に十八万の兵を率いた遊猟を行わせ、士卒一万余人が凍死・餓死する
  • 建武十四年348年秦公韜を太子に代えて立てようか迷い、韜はますます驕る
  • 348年石宣の放った刺客が秦公韜を仏寺の精舍で斬り殺す
  • 348年東宮の属官・宦官を車裂きにし、衛士十余万人を涼州への謫戍に処する
  • 348年張豺の策動もある中、幼い石世を皇太子に立て、その母劉昭儀を皇后とする
  • 348年十二月、棘子の予言を残して仏図澄が没する
  • 太寧元年349年病癒えたとして南郊で皇帝に即位し、大赦して太寧と改元する
  • 349年謫戍された高力の梁犢が挙兵して秦雍を席巻し、李農らの討伐軍が新安・洛陽で大敗する
  • 349年姚弋仲・蒲洪らが滎陽で梁犢を大破して斬り、弋仲は平西郡公に進封される
  • 349年晋の褚裒配下の王龕が沛郡を落とし、馬昻の挙兵は楽平王苞に討滅される
  • 349年病篤くなり燕王斌・張豺らに輔政させるが、劉后と張豺が偽詔で斌を殺す
  • 349年金華殿で薨じ、のち顕原陵に葬られ武皇帝と諡された(在位十五年)

尚書朱軌の投獄と蒲洪の諌言(建武十二年)

  • 建武十二年(346年)夏五月、尚書朱軌は中黄門厳生と不仲であったところ、大雨で道路が陥没し通行困難となった際、厳生は朱軌が道路を修めず朝政を誹謗していると讒言した。虎は激怒して朱軌を投獄した。
  • 冠軍将軍蒲洪はこれを諌め、「聖王は質素な宮殿と粗末な食で天下を治めたが、亡国の君は瓊台象箸で身を飾りながら忽ち滅んだ。陛下はすでに襄国・鄴の宮殿がありながら長安・洛陽にも宮殿を修め、狩猟車千乗・数千里の狩場で禽獣を養い、十余万の人妻・娘を奪って後宮を満たしている。これが聖帝明王のなすことか。道路が修まらぬのは陛下自身の徳政が乱れ陰陽が災いを為した結果であり、鬼兵百万をもってしても泥濘は除けない、まして人力をやである。朱軌を赦し苑囿を廃し宮女を出すべきだ」と切言した。虎は不快に思いながらもその剛直さを憚って処罰せず、長安・洛陽の造営を一時停止した。
  • しかしこれを機に私的な議論や私語を禁ずる法令・奴が主人を、吏が君を告発することを奨励する法が定められ、密告が日々横行し、公卿以下は互いに顔色を窺うのみで親しい交際も絶えた。

涼州方面への出兵と天変(建武十二年)

  • 六月、将軍王擢は張重華の武衛を襲い護軍曹権を捕らえ、七千余戸を雍州へ移した。涼州刺史麻秋・征西将軍張伏都が金城を攻め太守張冲を降したが、重華の遣わした謝艾に敗れて退いた。
  • この年、虎は永安宮で昼寝し、群羊が東北から魚を負って来る夢を見た。目覚めて仏図澄に問うと、澄は「不祥の兆しであり、鮮卑がやがて中原を得るであろう」と答えた。

桑梓苑での親耕・親蚕の儀礼(建武十三年)

  • 建武十三年(347年)春正月、虎は三公九卿を率いて鄴城南の桑梓苑で親耕の儀礼を行った。三月三日と養蚕始めの日には皇后・夫人を率いて採桑し、皇后杜氏は近郊で先蚕を祀り、虎は襄国に赴いて石勒の墓に謁した。

涼州出兵の再開と苦戦(建武十三年)

  • 夏四月、麻秋らに張重華討伐を再開させ、石寧を征西将軍として二万余の兵で後詰とした。涼の将宋秦らは二万戸を率いて投降し、河湟の氐羌十余万落も張氏と通じていたため麻秋は進撃をためらった。涼の別将張瑁が間道から麻秋軍の後方を断ち、麻秋は退却、涼の謝艾に追撃され将軍杜勲・魚汲が戦死、兵三千余人を失って単騎で大夏に逃れた。
  • 同じころ劉寧・王擢が始興・武街を攻めたが、重華の将牛旋・楊康らに沙阜で敗れ金城へ退いた。秋七月、虎は再び張伏都・劉渾に歩騎二万を率いさせ麻秋らと合流し黄河を渡らせたが、重華は再び謝艾を派遣して迎え撃たせ、八月、秋は敗れて金城へ退いた。九月には地震で地が七丈も裂け、鄴城には広さ十余里にわたり血の雨が降った。

帝王陵墓の盗掘(建武十三年)

  • 虎は貪欲で礼を欠き、十州の地を有しながら金帛や外国からの珍宝を集めてなお足りぬとし、歴代帝王・先賢の陵墓を暴いて財宝を奪わせた。邯鄲城西の石子㟠にあった趙簡子の墓を掘らせたが、炭・厚い木板の層の下に清冷な泉水が湧き出て牛皮の袋で汲み上げても尽きず、ついに発掘を断念した。また秦始皇陵を掘らせ銅柱を取って器を鋳造させた。

華林苑・長城の造営と民の犠牲(建武十三年)

  • 沙門呉進が「胡の運は衰え晋が再興する、晋人を苦役に服させてその気を鎮めるべきだ」と進言したため、虎は尚書張郡に近郡の男女十六万人・車十万乗を発して鄴北に華林苑と長城を築かせた。さらに呉進の言に乗じて五月には五百里以内の男女六十万人を発して芳林園を重修させ、八月には暴雨と大雪(雪深三尺)に見舞われ、寒さで数千人の凍死者を出した。太史がこれを時ならぬ土木の咎と奏したため、虎は尚書令宋軌を誅して天災を鎮めようとした。
  • また華林苑の千金堤には向かい合う銅龍二体を作って水を吐かせ天泉池に注ぎ御溝に通じさせ、名果奇花を植えた。蝦蟇車という特殊な移植法で四方一丈・深さ一丈の土ごと根を掘り運んで植えると必ず活着したという。西王母棗・羊角棗・勾鼻桃・安石榴など珍しい果樹の記事も伝わる。

諫言と苛烈な報復(建武十三年)

  • 趙攬・申鍾・石璞らは天文の錯乱と民の疲弊を上疏し、拝謁の際にも面と向かって切言した。虎は激怒し「苑の垣が朝にでき上がるなら夕べに死んでも悔いはない」と言い放ち、張郡を促して夜も灯火を灯して工事を急がせ、三観四門(うち三門は漳水に通じ全て鉄扉)を築かせたが、暴風雨により数万人の死者を出した。
  • 揚州から献上された黄鵠の雛が玄武池で亀に化けたという奇談や、郡国から前後して麒麟十六頭・白鹿七頭が献上されこれを芝蓋の車に繋いで大朝会に列した話、北城を穿って芳林園に水を引いた際に城が崩れ百余人が圧死した話なども伝わる。当時、鄴で妖しい馬が中央門から顕陽門へ抜け東宮の方向へ走り去って忽然と消えるという怪異があり、仏図澄はこれを聞いて「災いが及ぶだろう」と嘆いた。

太子宣の遊猟と暴虐(建武十三年秋)

  • 秋九月、虎は太子宣に山川への祈福と称して遊猟を行わせた。宣は天子の旌旗を掲げ十六軍・十八万の兵を率いて出陣し、虎は後宮の陵霄観からこれを望んで「わが家の父子はこの通り、天が崩れ地が陥没でもせぬ限り何を憂えようか、ただ子や孫を抱いて楽しむのみだ」と笑った。
  • 宣は終夜馳せ巡り、各方面百里四方に行宮を配して禽獣を追い集めさせ、日暮れには文武百官が跪いて行宮を幾重にも守り、烽火が昼のように輝く中、精鋭の騎兵に射させて楽しんだ。寵姫の顕徳美人は軺車に乗ってこれを見物し、獲物が尽きるまで帰ろうとしなかった。獲物が逃げれば守備の者は爵位があれば馬を奪われ徒歩で追わされ、爵位がなければ鞭打ち百に処された。厳しい制で士卒の凍死者・餓死者は一万余人に上り、通過した三州十五郡の物資は根こそぎ徴発された。虎はさらに秦公韜にも并州から秦雍への同様の遊猟を命じた。
  • 宣は韜が政務を執り自分に取って代わる意図があるとしばしば非難しており、この行にあたって嫉妬は一層深まった。宣に寵愛されながら韜には疎まれていた宦官趙生がひそかに宣に韜の排除を勧め、暗殺の計画が動き出した。

秦公韜の暗殺(建武十三年)

  • 冬十月、麻秋は再び張重華の将張瑁を河陝で破り首三千余級を斬った。枹罕護軍李逵は七千の兵を率いて投降し、河以南の氐羌がみな帰服した。
  • 建武十四年(348年)夏四月、虎は秦公韜を寵愛し太子宣に代えて立てようか迷い、宣が意に逆らったときには「韜を立てなかったことが悔やまれる」と漏らしたため韜はますます驕った。五月、熒惑(火星)が婁宿に入り填星を犯す天変があり、占者は「趙に兵乱と喪が起こる兆し」とした。
  • 六月、韜は太尉府に宣光殿という梁の長さ九丈の建物を起こしたが、宣はこれを見て激怒し工匠を斬り梁を切らせた。韜はさらに怒って十丈の梁に増築させ、宣は寵臣の力士楊杯・牟皮・牟成・趙生らに「韜を殺せば西宮に入って韜の封国をお前たちに分け与える」と持ちかけ、一同はこれを承諾した。
  • 秋七月、宣は韜を殺す前に寺へ赴き仏図澄と塔上に同座したところ鈴が独りでに鳴り、澄は「鈴の音が『胡子洛度』と言っている」と告げた。宣が顔色を変えて問うと、澄は「老胡(自分)が道を修めながら山居せず重い茵や美服を纏うのは堕落(洛度)ではないか、という意味だ」とごまかした。後から来た韜を澄がしげしげと見つめ、韜が怪しんで問うと澄は「血の臭いが気になっただけだ」と答えた。
  • 虎は龍が西南から天から地に落ちる夢を見て翌朝澄に問うと、澄は「脇の下に賊がいる、十日を出でずして起こる、浮屠より西・この殿より東に血が流れるだろう、決して東へ行かれるな」と告げた。杜后が「和尚は耄碌したか、どこに賊がいるものか」と笑うと、澄は「六情(感覚)が受けるものはみな賊である、耄碌というより、若い者が惑わされねばよいのだが」とはぐらかし、以後は寓言のみで明言しなくなった。
  • 八月社日、東南に黄黒の雲が現れ布のように天を貫き、日没後には七道に分かれ魚鱗のような白雲が間に見え子時に消えるという天変があった。天文に通じていた韜はこれを見て「この変は尋常でない、京師に刺客が起こるだろう」と側近に語り、その夜、僚属と東明観で酒宴を開いた際、韜は「人の世は無常、別れは易く再会は難しい、各々一杯を飲み干せ、後会がいつになるかわからぬ」と涙を流し、左右も皆すすり泣いた。韜はそのまま仏寺に宿泊した。
  • 宣が遣わした楊杯・牟皮・牟成・趙生ら十余人が夜、獼猴梯を伝って忍び入り、韜を精舍で斬り殺して刀箭を残し去った。翌朝宣がこれを虎に奏すると、虎は驚愕して気を失い、蘇生後に喪に臨もうとしたが、司空李農が「下手人が誰かわからぬ以上、身内(蕭牆の内)にいるかもしれず、軽々しく出御すべきでない」と諌め、虎は仏図澄の前もっての戒めを思い出してやめた。

石宣の逮捕と凄惨な処刑(建武十四年)

  • 虎は軍を厳しくして太武殿で哀を発した。宣は白木の車に乗り千人を従えて韜の喪に赴いたが、哭かず「あはは」と笑い、衾を挙げさせて死体を眺めて大笑いして去った。大将軍記室参軍鄭靖・尹武らを捕らえて罪を着せようとした。虎は宣が韜を殺したのではと疑ったが召し出せば応じないと恐れ、母の杜氏が病篤いと偽って呼び寄せ、疑われているとは思わなかった宣が参内すると、そのまま留め置いた。
  • 建興の人史科がその陰謀を知り告発した。楊杯の家に宿った夜、杯が五人と外から帰り「大事はすでに定まった、ただ大家(陛下)の長寿を願うのみ、われらの富貴を何を憂えよう」と語り合うのを史科は暗闇で聞いていたが杯には気づかれなかった。科はその後逃げ出し、杯らが探しても見つからず、杯は「宿の客がこの話を聞いていれば口を封じねばならぬ、逃げられたなら一大事だ」と言ったが、科は塀を越えて難を逃れた。
  • 虎は楊杯・牟皮・趙生らを捕らえさせたが杯と皮は逃亡し、趙生だけが捕らえられ全てを自白した。虎は悲しみと怒りの余り、宣を席庫に幽閉して顎に鉄環を通して鎖につなぎ、木の槽に羹飯を入れて豚犬のように食わせ、韜を殺した刀箭を舐めさせるという凄惨な仕打ちをし、宮殿中に宣の哀号の声が響いた。
  • 仏図澄は「宣も韜も陛下の子である、韜のために宣を誅すればさらなる禍を重ねることになる。陛下がもし怒りを抑え慈悲を施せばなお六十余年の福祚があろうが、必ず誅するというなら宣は彗星となって鄴宮を下から掃き清めることになろう」と諌めたが虎は聞き入れなかった。
  • 鄴の北に薪を積み上げ標を立ててその先に轆轤を通した縄を仕掛け、梯を立てかけて宣をその場所へ送った。韜に寵愛されていた宦官郝稚・劉覇に宣の髪を引き抜かせ舌を抜かせて梯に登らせ、郝稚が顎に縄を通し轆轤で吊り上げ、劉覇が手足を斬り眼をえぐり腹を裂くという、韜が受けた傷と同じ仕打ちを四方から火を放って焼いた。虎は中台を築き昭儀以下数千人にこれを見物させ、火が消えると灰を集めて諸門の交わる道に分けて撒かせ、宣の妻子二十九人も殺した。宣の末子はまだ数歳で虎が可愛がっていたが、子が「私の罪ではない」と言い虎が赦そうとしても大臣が許さず、抱いている虎の懐から引き離して殺した。子は虎の衣を引っ張って泣き叫び、帯が切れるまで離さず、これを見た人々は皆涙を流したという。
  • 虎はこれをきっかけに病を発し、宣の母杜氏を庶人に落とし、宣配下の四率以下三百人・宦官五十人を車裂き・節解の刑に処して漳水に投げ捨て、東宮は豚牛を飼う場所とし、東宮の衛士十余万人はすべて涼州への謫戍とされた。散騎常侍趙攬はかつて虎に「宮中に変事が起こるだろう」と告げていたが、宣の一件を知りながら告げなかったとして誅殺された。宣に寵愛されていた貴嬪柳氏(尚書柳耆の娘)も、二人の兄が宣に寵愛されていた縁で殺されたが、虎はその美貌を惜しみ、後に柳耆の幼い娘を芳林園に納めた。

太子擁立を巡る議論(建武十四年秋)

  • 九月、虎は太子の擁立を議論させた。太尉張挙は「燕公斌・彭城公遵はいずれも武芸文徳を備えている、陛下は御高齢ゆえこの二人のいずれかを立てるべき」と進言し虎も同意したが、戎昭将軍張豺は「燕公は母の身分が低くまた過去に過ちがあり、彭城公も母の一件で以前太子の地位を廃されたことがある、いま再び立てれば含むところなしとは言えまい」と異を唱えた。
  • かつて虎が上邽を破った際、張豺は劉曜の幼女で年十二の安定公主を得て虎に献じ、虎はこれを寵愛し子の世が生まれ斉公に封じられていた。豺は虎が高齢で病がちなことから世を後継に立てて劉氏を太后とし自ら輔政の実権を握ろうと目論み、虎に「陛下がこれまで二度儲君を立てながらその母がいずれも卑賤の出であったため禍乱が相次いだ、母が貴く子が孝行な者を立てるべきだ」と説いた。虎は「太子の在り処はもう決めている」と応じ、群臣を東堂に集めて「純灰三斛で腸を洗い流したいほどだ、なぜ悪しき子ばかり生まれるのか、二十を過ぎた子は皆父を殺そうとする、今世はやっと十歳、その二十歳になる頃には私はもう老いている」と述べ、張挙・李農と共に世を太子に立てる方針を決め、公卿に上疏させた。大司農曹莫だけは署名を拒み、張豺の詰問に「天下の重器を幼い者に立てるべきでない、それゆえ署名できない」と頓首して答えた。虎は「莫は忠臣だが朕の意を理解していない、張挙・李農はすでにわかっている、諭させよ」と述べ、世を皇太子に立て昭儀を皇后とした。太常条攸・光禄勲杜嘏を召し「太子の輔導を頼む、改めて託す」と告げ、攸を太傅、嘏を少傅とした。

仏図澄の予言と死(建武十四年冬)

  • 冬十月、虎は苻健を遣わして竟陵を侵させた。十一月、群臣を太武前殿で饗した際、仏図澄が殿上で衣をかかげて歩きながら「殿よ殿よ、棘子(いばら)が林をなし人の衣を壊すだろう」と口ずさんだ。虎が石を掘らせて見させたところ棘(いばら)が生えていたという(冉閔の幼名は棘奴といい、澄の言葉はこれに掛けたものである)。
  • 十二月辛巳、大雨が降り続いたため虎が仏図澄に問うと、澄は「これは私のためのものであろう」と答え、戊子の日に澄は没した。この年、皇帝石氏の銘を刻んだ刀一口が作られた。

石虎の即位改元と梁犢の乱(太寧元年)

  • 太寧元年(349年)春正月、虎は病が癒えたとして晋の永和五年、南郊で皇帝に即位し境内を大赦、改元して太寧とし、百官を一階級進め諸子を王に進爵させ、尚書張良を右僕射とした。
  • もと東宮に属した高力ら一万余人は涼州への謫戍に処されていたが、雍城に至った時点でも赦の対象から外されており、雍州刺史張茂に命じてこれを護送させたところ、茂は彼らの馬を全て取り上げ徒歩で鹿車を推させて糧食を運ばせた。高力の統率者定陽の梁犢らは民心の怨みに乗じて挙兵し東帰することを謀り、ひそかに胡人頡独鹿を通じて戍卒に知らせたところ皆勇んで呼応した。
  • 犢は自ら晋の征東大将軍を称して下辨を攻略し、張茂を大都督・大司馬として軺車に乗せて脅し従わせた。安西将軍劉寧が安定から撃ったが犢に敗れ、秦雍の城戍はことごとく攻略され二千石の長史も斬られて長駆東進した。高力らは皆力強く弓に優れ一人で十人に当たり、武具がなくとも民の斧などを用いて神業のように戦い、向かうところ皆潰走し、戍守の者もみな従ったため、長安に至る頃には衆すでに十万に達した。楽平王苞は長安を守っていたが精鋭を尽くして防いだものの一戦で敗れ、犢はついに東に潼関を出て洛陽へ進んだ。
  • 虎は李農を大都督・行大将軍事とし、衛軍将軍張賀度・征西将軍張良・征虜将軍石閔らに歩騎十万を率いさせて討伐させたが、新安の戦いで農らは大敗、洛陽の戦いでも敗れて成皋に退いて壁を築いた。犢はさらに東進して滎陽・陳留の諸郡を掠めた。

姚弋仲・蒲洪の梁犢討伐

  • 虎は大いに恐れ、燕王斌を大都督・督中外諸軍事として精騎一万を率いさせ、冠軍大将軍姚弋仲・車騎将軍蒲洪らを統率させて討伐に向かわせた。
  • 弋仲は軽騎八千余りを率いて鄴に至り虎への謁見を求めたが、虎は病臥中で会おうとせず、領軍省に通されて虎自らの食事を賜った。弋仲は怒り「国家に賊がいて我を召して撃たせるというなら、面と向かって方略を授け賊を破ってから食事を賜るべきだ、食を食わせるために私を呼んだのか、食を求めて来たわけではない。主上が私に会わないなら、その存命すら私にはわからぬではないか」と言い立て、引き返そうとした。
  • 虎は無理を押して弋仲に会い、弋仲は虎を責めて「我が子(死んだ我が子?)が死んだのを愁えているのか、なぜ病むのか。子が幼い時に善き師を選ばず教えたために謀反に至ったのであり、謀反したなら誅すればよいだけのこと、何を愁うことがあろう。それよりお前は長患いで、立てた幼子について、もし治らねば天下は必ず乱れよう、案ずべきはそちらであって賊のことではない。犢らは窮して故郷に帰りたいだけの烏合の衆で、通り過ぎたところで暴れているに過ぎず、老羌(自分)が一撃で片付けよう」と述べた。弋仲は性格が率直で身分の上下を問わず「汝」と呼びかける人物であり、虎もこれを咎めなかった。
  • その場で弋仲に持節征西大将軍を授け鎧馬を賜ると、弋仲は「老羌が賊を破れるか見ておれ」と言い、鎧を着て中庭で馬に跨り、そのまま挨拶もせず南へ馬を馳せて出発、斌らと合流して滎陽で犢を大破し、その首を斬って残党を全て滅ぼした。虎は弋仲に剣を帯びたまま殿に上り小走りせず参内することを許し平西郡公に進封、蒲洪も侍中・車騎大将軍・開府儀同三司・都督秦雍州諸軍事・雍州刺史に進め略陽郡公に封じた。

天変と晋軍の侵攻(太寧元年)

  • 二月、晋の征北大将軍褚裒の部将王龕が来攻し沛郡を落として将軍支重を捕らえた。始平の人馬昻が洛氏葛谷で挙兵し将軍を自称したが、楽平王苞がこれを討滅し三千余家を誅した。
  • 熒惑(火星)が積尸・昴宿を犯し、さらに北へ河鼓を犯す天変が続いた。洛陽城西北の石牛が夜に突然鳴き声を上げ三十里先まで聞こえたため、人を遣わしてその両耳と尾を打ち落とし四脚に鉄釘を打った。

石虎の危篤と後継を巡る策謀

  • 夏四月乙卯、虎の病が篤くなり、彭城王遵を大将軍として関右を鎮めさせ、燕王斌を丞相・録尚書事、張豺を鎮衛大将軍・領軍将軍・吏部尚書とし、共に遺詔を受けて輔政させることとした。劉后は斌の輔政が太子に不利になることを恐れ張豺と謀ってこれを排除しようとし、斌に忠孝の心なしとする詔を偽って作らせ免官・帰宅させ、さらに豺の弟張雄に命じて偽詔をもって斌を殺させた。
  • 乙丑、彭城王遵が幽州から鄴に至り、朝堂で拝命し禁兵三万を配されて赴任した。この日、虎の病は少し癒えており、遵の来着を尋ねたが左右は「すでに行ってしまいました」と答え、虎は「会えなかったのが残念だ」と述べた。
  • 虎が西閣に臨むと龍騰の中郎三百余人が前に並んで拝し、虎が「何を求めるのか」と問うと、皆「聖体が優れないので燕王を宮中に入れ禁兵を統べさせ宿衛に当たらせるべきです」と答え、あるいは皇太子とすべきとまで言う者もあった。虎は斌がすでに廃されたことを知らず「燕王は宮中にいないのか」と怒り呼ばせたが、左右は「王は酒による病で入れません」と答えた。虎は「早く輦を持って迎えに行かせよ、璽綬を授けよう」と命じたが、結局誰も行かず、まもなく虎は昏眩状態に陥った。
  • 戊辰、劉后は詔を偽って張豺を太保・都督中外諸軍・録尚書事とし、霍光が漢を輔けた故事に倣い兵千騎百を加えさせた。侍中徐統は「禍が起ころうとしている」と嘆き、これに関わることを避けて毒を仰いで自死した。

石虎の死

  • 己巳、虎は金華殿で薨じた。のちに遵が僭立するに及び、顕原陵に葬られ偽って武皇帝と諡し廟号を太祖とした。虎は晋の咸康元年に僭位してより晋の永和五年に死ぬまで、在位十五年であった。