十六国春秋後趙錄八 石鑒

石遵誅殺後の即位と閔・農への攻撃

  • 石鑒、字は大朗。遵の兄で虎の第三子、初め義陽王に封じられていた。遵を殺して自ら即位し、年号を青龍と改め死刑以下を大赦、武興公閔を大将軍・武徳王、司空李農を大司馬とし共に録尚書事とし、張挙を太尉、郎闓を司空、秦州刺史劉群を尚書左僕射、侍中盧諶を中書監とした。
  • 鑒は楽平王苞・中書令李松・殿中将軍張才らに命じ、夜に琨華殿で閔・農を攻めさせたが成功せず、禁中は混乱した。鑒は閔が変を起こすことを恐れ、何も知らぬふりをして夜に松・才を西中華門で斬り、あわせて苞も誅殺した。

各地の離反と孫伏都の反乱

  • 新興王祗(虎の子)はこの頃襄国を鎮めていたが、姚弋仲・蒲洪らと通じて連兵し、檄を回して共に閔を誅そうとした。鑒は汝陰王琨を大都督とし太尉張挙・侍中呼延盛とともに歩騎七万を率いさせ祗らの討伐に向かわせた。中領軍石成・侍中石啓・前河東太守石暉も閔・農の誅殺を謀ったが、閔・農はこれを察知して殺した。
  • 龍驤将軍孫伏都・劉銖らは羯族の兵士三千人を胡天に伏せて閔・農誅殺を図った。鑒が中台にいたとき、伏都は三十余人を率いて台に上り鑒を擁して事に及ぼうとしたが、鑒は伏都が閣道を壊すのを見てその理由を問うた。伏都は「閔・農らがすでに東掖門近くにいます、衛士を率いて討とうと思い、まず先にお知らせに参りました」と答え、鑒は「卿は功臣だ、大いに力を尽くせ、朕は台上から見ている、案ずるな、報いがないことはない」と応じた。伏都・銖らは閔・農を攻めたが勝てず鳳陽門に屯した。
  • 閔・農は数千の兵で金明門を毀って入城し、鑒は閔・農に殺されることを恐れて自ら招き入れ「孫伏都が反した、速やかに討て」と告げた。閔・農は伏都らを攻め斬った(伏都は膂力に優れ書札にも巧みな人物であったという)。鳳陽門から琨華殿に至るまで死体が枕を並べ、流血は渠をなした。城内外の胡人で兵仗を取る者は斬るとの布告が出され、関を破りあるいは城を越えて脱出しようとする胡人は数えきれぬほどであった。

冉閔による胡羯の大虐殺

  • 閔は尚書王朗・少府王鬱に数千の兵を率いさせ鑒を御龍観に軟禁し、食を送って給した。城中には「近頃の孫劉の反逆は支党が誅されただけで良民は無関係である、今後は官(閔)と同心の者は留まり、同心せぬ者は自由に去ってよい、城門の禁も解く」との令を出した。これにより百里以内の趙人(漢人)は皆城内に入り、胡・羯の者たちは城を去ろうとして門に押し合うほどであった。
  • 閔は胡人が己に従わぬことを知ると、内外に「趙人で胡の首一つを斬り鳳陽門に送った者には、文官は三階級進め、武官は牙門に取り立てる」との令を発し、一日のうちに胡人の首数万が斬られた。閔自ら趙人を率いて胡・羯を誅し、貴賤男女老幼を問わず殺したため胡人の死者は二十余万人に上り、鼻の高い髭の多い者は無実であっても濫りに殺され、屍は城外で野犬や豺狼に食われるままとなった。四方に駐屯する胡人の将帥にも書を発し、趙人の手で誅殺させた。
  • 太宰趙鹿・太尉張挙・中軍将軍張春・光禄大夫石岳・撫軍将軍石寧・武衛将軍張季および諸公侯卿校・龍騰ら一万余人は襄国へ出奔した。汝陰王琨は冀州に拠り、撫軍将軍張沈は滏口に、張賀度は石瀆に、建義将軍段勤(末杯の子)は黎陽に、寧南将軍楊群は桑壁に、劉国は陽城に、段龕(蘭の子)は陳留に、姚弋仲は混橋に、蒲洪は枋頭にそれぞれ拠り、各数万の兵を擁して閔には従わなかった。

石鑒の廃殺と後趙の滅亡

  • 王朗・麻秋は長安から洛陽へ赴いたが、麻秋は閔の書を受けて王朗配下の胡人千余人を誅殺、朗は襄国へ逃げ、秋は蒲洪のもとへ奔った。姚弋仲の子で曜武将軍益・武衛将軍若は禁兵数千を率い関を破って灄頭へ逃れ、弋仲は混橋で閔軍を討った。汝陰王琨・張挙・王朗が七万の兵を率いて鄴を討伐すると、閔は千余騎で城北に迎え撃ち、両刃の矛を執って馳せ撃ち、向かうところ皆撃破して首三千級を斬り、琨らは大敗して冀州へ逃げ帰った。
  • 閔と李農が騎兵三万を率いて石瀆の張賀度を討伐する隙に、鑒は密かに宦者に書を持たせ張沈らを召し、虚を衝いて鄴を襲わせようとした。しかし宦者はこれを閔・農に告げ、閔・農は急ぎ引き返して鑒を廃し殺害、虎の孫二十八人も誅して石氏の血統をことごとく絶やした。鑒の在位は百三日であった。
  • 虎の末子石混は永和八年(352年)、妻妾数人を伴い晋の都建康へ逃れたが、廷尉に付されまもなく建康の市で斬られた。虎の十三人の子のうち五人は冉閔に殺され、八人は互いに殺し合い、混もここに至って死んだ。
  • かつて讖に「石を滅ぼす者は陵(冉閔のことか)」という予言があったといい、まもなく石閔は蘭陵公に改封され、虎はこれを忌んで蘭陵を武興郡と改めさせたが、ついに閔によって滅ぼされることとなった。石勒は晋の成帝咸和三年、戊子の歳に僭立してより、二主四子、凡そ二十三年を経て、晋の穆帝永和六年、庚戌の歳に滅んだ。