十六国春秋後趙錄二 石勒(中)

襄国に拠った石勒が華北の覇権を固めていく時期を記す。石虎に鄴の三台を陥れさせ、山東の郡県を次々に勢力下に入れた。張賓の献策により、幽州牧王浚には偽って帝位を勧めて油断させ、劉琨にも偽りの書状を送って欺いたうえで薊城を急襲し、王浚を捕らえて処刑した。遼西鮮卑段部の内紛には末杯への離間工作で臨み、劉琨と叚匹磾の連合を瓦解させた。劉聰の死後の靳準の乱に乗じて平陽を攻囲し、平陽以東の地をことごとく手中に収めた。

年表(7件)
  • 建興元年(313年)劉聰から侍中・征東大将軍に任じられ、母王氏・妻劉氏にも称号が与えられる
  • 建興二年(314年)張賓の策で王浚に帝位を勧める芝居を打ち、劉琨にも偽書を送って薊城へ急行する
  • 建興二年(314年)この功により劉聰から大都督・驃騎大将軍・東単于の号を受ける(大半は辞退)
  • 建興四年(316年)一度帰順した邵続が再び離反し、鮮卑段部の援軍もあって勒は大敗を喫する
  • 太興元年(318年)叚匹磾が劉琨とその子姪四人を絞殺し、劉琨配下の将佐が相次いで勒に降る
  • 東晋建武元年(317年)石虎が祖逖の守る譙城を攻めて敗退し、晋の元帝が勒討伐の檄を発する
  • 太興元年(318年)靳準の乱に乗じて平陽を攻囲し、靳明を退けて平陽以東の地をすべて収める

鄴・三台の平定

  • 建興元年(313年)夏、石虎に鄴の三台を攻めさせて陥落させ、劉演は廩丘へ敗走。劉演配下の流民の多くが勒に降った。烏丸の薄盛や渤海太守劉既なども相次いで帰順し、山東の郡県は次々と勒の勢力下に入った。劉聰は勒を侍中・征東大将軍に、母王氏・妻劉氏にも高い称号を与えた。

幽州の内情悪化と王浚の慢心

  • 幽州牧王浚は自らの父の字にちなむ讖文を根拠に皇帝を称する野心を抱き、諫言した渤海太守劉亮・北海太守王摶・司空掾高柔らを次々殺害。隠者霍原も讖言について答えなかったことを理由に殺された。苛烈な部下(棗嵩・朱碩ら)の悪政により民心は離反し、幽州には王浚を揶揄する童謡が流行した。
  • 鮮卑の叚疾陸眷が離反すると、浚は魏穆帝(拓跋猗盧)に賄賂を贈って共同討伐を図り、猗盧は子の六修に兵を率いさせたが、逆に疾陸眷に敗れるなど、頼みの鮮卑・烏丸勢力も次第に浚から離れていった。

偽りの臣従と幽州急襲の策

  • 張賓は「王浚は鮮卑・烏丸の力に頼るのみで内実は乱れている、羊祜と陸抗の故事のように偽って誠意を示し油断させるべきだ」と献策。勒は王子春・董肇らを使者に立て、へりくだった書状で王浚に帝位を勧める芝居を打ち、麈尾を贈られると壁に掲げて朝夕拝礼するふりをするなど徹底して欺いた。王浚配下の司馬游統が密かに勒へ内通した際も、その使者を斬って浚へ送り誠意を演出した。
  • 建興二年(314年)、張賓は「今こそ好機」と進言した。勒は兵を募り、幽州攻めを悟られぬよう劉琨へ「罪を悔い王浚討伐に尽くしたい」との偽りの書状を送った。かねて王浚を疎んじていた劉琨は大いに喜び、諸方に「代公(拓跋猗盧)と共に勒討伐を図っている、六修(猗盧の子)を南に送り平陽の偽帝を除き投降する羯(勒)を迎え入れる」との檄文を発した。こうして劉琨の油断を誘った勒は、軽騎を率いて幽州の薊城へ急行した。

王浚の捕縛と処刑

  • 薊城に到達すると門番を欺いて城内に入り、牛羊の群れで街路を塞いで伏兵を封じたうえで略奪を開始。動揺した王浚を捕らえ、その悪政(賦役の過酷さ、忠良の殺害、五十万斛の蓄穀を放出せず民を飢えさせたこと)を数え上げて叱責した。浚配下の精兵一万を生き埋めにし、宮殿を焼き払い、王浚自身は襄国へ護送の後に処刑された(屈することなく罵り抜いて死んだと伝わる)。
  • この功により劉聰から大都督・驃騎大将軍・東単于などの称号を受けた(大部分は辞退し二郡のみ受領)。

劉琨方との攻防と鮮卑諸部の動揺

  • その後も劉演・邵続ら晋方の勢力との一進一退の攻防が続いた。建興四年(316年)、邵続は一時勒に帰順するも、渤海太守劉𦙍の説得(「東晋の琅邪王のもとへ帰順すべきだ」)を容れて再び離反、勒は激怒してその子を殺害し猛攻を加えたが、鮮卑段部の援軍もあって勒は大敗を喫した。

遼西鮮卑の内紛と劉琨の最期

  • 太興元年(318年)、遼西公叚疾陸眷の死後、鮮卑段部で内紛が勃発し、末杯が叔父の截附真を殺害するなど混乱した。劉琨は叚匹磾と結んで勒を討とうとしたが、勒は末杯に賄賂を贈って離間させ、この連合軍を瓦解させた。
  • 劉琨の子群が末杯に捕らえられたのを機に、匹磾は劉琨を内通の疑いで拘束。腹心の讒言もあって疑心を強めた匹磾は、王敦からの密使を受けてついに劉琨とその子姪四人を絞殺した。劉琨配下の将佐は相次いで勒に降った。

東晋・祖逖との攻防

  • 東晋建武元年(317年)、石虎が祖逖の守る譙城を攻めたが敗退。晋の元帝は勒討伐の檄を発し、石虎の首に懸賞をかけた。この頃、河朔一帯で大規模な蝗害が発生し、人々は「胡蝗」と呼んで恐れた。

平陽陥落と前趙勢力の駆逐

  • 劉聰の死後、子の劉粲が靳準に弑逆される内乱が起こると、勒は張敬・自ら率いる精鋭を派遣して靳準討伐に乗り出した。劉曜も長安から出兵して勒に大司馬・大将軍・九錫などを加えたが、勒は独自に平陽城を攻囲。靳準配下の周置ら雑戸五千や巴・羌・羯の諸部十余万落が相次いで勒に降った。
  • 靳準が殺害され靳明が擁立されると、卜泰を通じて降伏の意を示したが、勒は劉曜との駆け引きの中で卜泰を一時抑留し、曜に「城内に帰順の意志なし」と誤解させて曜の出兵の勢いを削ぐ策を取った。最終的に靳明は平陽の民一万五千を率いて前趙(劉曜)のもとへ落ち延び、勒は平陽の宮殿を焼き払いつつも永光・宣光の二陵を修復し、劉粲以下前趙の遺体百余体を丁重に葬った。こうして平陽以東の地はすべて勒の手に帰し、離石県に永石郡、別に武郷郡を新設した。