十六国春秋後趙錄三 石勒(下)

劉曜が使者王修を処刑したことで前趙と決裂し、独自に趙王を称して後趙を建てた石勒の後半生を記す。襄国に学校を置き、豐貨銭の鋳造や律令の編纂を進めるなど制度を整え、鮮卑段部・曹嶷・徐龕らを平定して華北を統一していった。仏図澄の託宣を信じて自ら出陣し、洛陽の決戦で劉曜を生け捕りにして前趙を滅ぼした。のち大趙天王を称し、ついで皇帝に即位して鄴に遷都、周辺諸国の朝貢を受けて最盛期を迎えたが、石虎の権勢が伸びる中で崩御した。

年表(7件)
  • 趙王
  • 元年(319年)劉曜から太宰・趙王に進爵されるが、使者王修が処刑されたことで前趙と決裂
  • 元年(319年)群臣百二十九人の上表を受けて趙王位に即き、社稷・宗廟を立て張賓を大執法とする
  • 二年(320年)段匹磾も降伏するが、晋への忠誠を捨てず後に文鴦・邵続らと共に殺害される
  • 九年(327年)劉曜の金墉城包囲に対し自ら出陣し、洛水西で大破して劉曜を生け捕りにする
  • 太和二年(329年)蒲洪・姚弋仲らが降り、氐羌十五万落が司冀二州へ移住させられる
  • 建平元年(330年)九月、皇帝に即位して建平と改元し、襄国から鄴へ遷都する
  • 建平四年(333年)夏、灃水の離宮で病を得て鄴に戻り、薄葬を遺言し石虎に後事を託して崩御(在位十五年、享年六十)

前趙との決裂と趙王号の獲得

  • 趙王元年(319年)、勒は前趙(劉曜)から太宰・趙王への進爵を受けたが、使者王修の従者曹平樂の讒言により劉曜が疑心を抱き、王修を処刑する事件が発生。勒は激怒し「自分たち兄弟が劉氏に仕えてきたのは臣下としての節度を超えていた、基業は全て自分が築いたものだ」と非難する布告を発し、以後独自に趙王・趙帝を名乗る道を選んだ。
  • この頃、鮮卑段部の匹磾が上谷へ逃れようとした際、魏の平文帝(代王、諱は鬱律)が兵を挙げてこれを撃った。勒はまた魏に和平を求めたが、平文帝は使者を斬って拒絶した。

内政・制度の整備

  • 学校(宣文・宣教・崇儒・崇訓等の小学)を襄国に設置し、豪族子弟を教育。度量衡「豐貨銭」の鋳造、律令の編纂(辛亥制度五千文)などを進めた。喪中の婚姻や兄嫂を娶ることを胡人の旧俗に従い禁じるなど、風俗の統制にも意を用いた。

趙王即位(319年)

  • 群臣百二十九人の上表を受け、五度・四度と形だけ辞退した末に趙王位に即いた(晋の太興二年、319年)。社稷・宗廟を立て、経学・律学・史学の祭酒を置き、胡人を「国人」と呼んで礼遇する一方、律による統制を強化。張賓を大執法、石虎を単于元輔・都督禁衛諸軍事とするなど人事を固めた。功臣への論功行賞では、葛陂の役での功労者を特に厚く遇するよう命じた。

段部鮮卑の滅亡と邵続の最期

  • 趙王二年(320年)、鮮卑段部の内紛(末杯対匹磾)に乗じて石虎に邵続を攻めさせ、これを捕縛。邵続は勒の詰問に対し「周文王は東夷に生まれ、禹は西羌に出た、帝王の興りは天命次第だ」と気概ある弁明をして勒を感心させ、その後は自ら畑を耕して質素に暮らしたという。
  • 続いて段匹磾も次第に追い詰められ、弟の文鴦が奮戦の末に捕らえられるなどして降伏。勒・虎とはかつて義兄弟の誓いを結んだ間柄であったため厚遇されたが、匹磾は最後まで晋への忠誠を捨てず晋の朝服を身につけ続け、後に謀反の疑いで文鴦・邵続らと共に殺害された。

東晋・祖逖との和戦

  • 祖逖・その部将桃豹らとの攻防が続く中、祖逖の巧みな用兵(囊に土を詰めて米に見せかける計略等)にしばしば苦しめられた。勒は祖逖の人徳に対して先祖の墓を修復させるなど懐柔策を取り、互市を許すなど事実上の和睦状態を保った。祖逖の死後は弟の祖約が後を継いだが、統率力に劣り次第に勢力を失い、後に石堪・石聰らに寿春を追われて歴陽へ敗走した。

曹嶷・徐龕の平定

  • 青州の曹嶷、太山の徐龕がそれぞれ叛服を繰り返したが、最終的に石虎の攻撃により曹嶷は降伏後処刑され(配下三万は生き埋めにされたと伝わる)、徐龕も捕らえられ処刑された。烈帝(諱は賀傉)の代の魏とも使者を交わした。

洛陽をめぐる前趙との決戦

  • 趙王九年(327年)前後、前趙の劉曜が洛陽の金墉城を包囲する事態となり、勒は程遐らの反対を押し切り、仏図澄の予言(鈴の音や童子の幻視による「必ず曜を生け捕りにできる」との託宣)を信じて自ら大軍を率いて出陣。冬、成皋に集結した六万の歩兵と二万七千の騎兵で洛陽を急襲し、酔って油断していた劉曜軍を洛水西で大破、劉曜自身を生け捕りにした(前趙滅亡の経緯は前趙錄七に既出)。

前趙の残存勢力の掃討

  • 太和二年(329年)、劉曜の太子熙は上邽へ逃れたが、石虎の追撃により捕らえられ処刑された。関中の大族九千余人が襄国へ強制移住させられ、五郡の民各五千人が洛陽で生き埋めにされるなど、前趙の残存勢力は徹底的に一掃された。氐族の蒲洪・羌族の姚弋仲らも降り、氐羌十五万落が司冀二州へ移住させられた。この年、魏の烈帝(諱は翳槐)が弟の昭成帝(諱は什翼犍)を襄国へ人質として送った。

天王・皇帝への即位

  • 建平元年(330年)、群臣の勧進により大趙天王を称し、妻劉氏を王后、世子弘を太子とするなど体制を整えた。同年、かねて疎んじていた祖約を謀略で誘い出し一族もろとも誅殺した。同年九月、ついに皇帝に即位し建平と改元、襄国から鄴に遷都、先祖を追尊し皇后・皇太子を立てるなど帝制を完成させた。涼州の張駿、高句麗・粛慎・宇文部・于闐など周辺諸国も朝貢し、その勢威は最盛期を迎えた。

晩年の統治

  • 建平年間、鄴への宮殿造営を進める一方、廷尉続咸の造営中止の直諫を一時は怒って処刑しかけたが中書令徐光の取りなしで思いとどまり、直言を尊重する姿勢を示した。中山王石虎の権勢が次第に強まる一方、皇太子石弘の後見役である程遐・中常侍厳震らとの間で確執が生じ、石虎は不満を募らせていった。

崩御

  • 建平四年(333年)、寒食の日の大風・雹害や隕石、黒竜の出現など天変地異が相次いだ。夏、灃水の離宮で病を得て鄴に戻り、危篤に陥ると石虎は太子弘・厳震ら周囲を病床から遠ざけ、外地にいた秦王宏・彭城王堪を偽の詔で呼び戻すなど、後継をめぐる工作を進めた。
  • 勒は薄葬(金銀財宝を副葬しないこと、喪に伴う婚姻・祭祀・飲食の禁を課さないこと)を遺言し、中山王虎に「大雅(弘)はまだ幼く、司馬氏の例を鑑として、努々仲睦まじくあるように」と後事を託して崩御した。在位十五年、享年六十。遺骸は密かに山中に葬られ、実際の埋葬地は伏せられたまま、錦の旗を掲げた模擬葬儀を高平陵で行った。諡は明皇帝、廟号は高祖。