十六国春秋後趙錄四 石𢎞

石勒の第二子、石𢎞(字は大雅、?–335年)。孝行に篤く儒者を好む文人肌の人物で、杜嘏に経書を、続咸に律を学び、勒の即位後に皇太子に立てられた。徐光・程遐は石虎の野心を警戒して早く除くよう繰り返し進言したが、勒はこれを容れなかった。勒の死後、石虎に擁立される形で即位したものの実権はなく、丞相・魏王となった虎に政務を総攬された傀儡であった。在位二年で海陽王に廃され、崇訓宮に幽閉ののち殺害された。後趙の実権はこれをもって石虎に移った。

年表(4件)

人物と立太子

  • 石𢎞、字は大雅。石勒の第二子で、幼くして孝行に篤く、杜嘏に経書を、続咸に律を学んだ。勒は「今は太平の世ではない、文事だけでは教育できない」として劉徴・任潘に兵書を、王陽に武術を学ばせた。世子・領中領軍・衛将軍を経て鄴の鎮守を任され、勒の即位後は皇太子に立てられた。文人肌で儒者を好み親しんだ。

石虎への警戒を巡る進言と勒の拒絶

  • 中書令徐光は勒に「中山王(石虎)は雄暴で権謀に長け、太子は温厚に過ぎる、早くから虎の権力を削ぎ太子に政務を委ねるべきだ」と進言。左僕射程遐も「虎は残忍で野心が強く、子らも皆兵権を握っている、早く除くべきだ」と重ねて訴えたが、勒はいずれも「虎は佐命の功臣であり魯衛のごとき腹心だ」として聞き入れなかった。
  • 徐光は別の機会に、天下統一(呉・蜀の残存)を気に病む勒に対し「憂うべきは四肢(呉蜀)ではなく腹心(石虎)の患いだ、虎は既に皇太子を軽んじる素振りを見せている」と重ねて警告したが、勒はやはり黙して従わなかった。

石勒の死と石虎の実権掌握

  • 勒の死後、石虎は太子𢎞を擁立する体で実権を握り、程遐・徐光を廷尉に下して処刑、子の石邃に禁軍を掌握させた。𢎞は恐れをなして虎に譲位を申し出たが、虎は表向きこれを固辞し続けた末、晋の咸和八年(333年)に𢎞を即位させ延熙と改元、程遐・徐光を誅殺した。
  • 𢎞は虎を丞相・魏王・大単于に任じ九錫を加え、魏郡等十三郡を封国として政務を総攬させた。虎は皇太子の宮殿(崇訓宮)を含む宮中の要職・財宝・宮人までも自らの配下で固め、勒の遺臣たちも次々に虎の府僚に取り込まれていった。

皇后劉氏の陰謀と粛清

  • 皇后劉氏は彭城王石堪と密謀し、堪が兖州の廩丘に拠って南陽王恢を盟主に立て、皇太后の詔と称して虎討伐を企てたが、計画は露見。虎は堪を炙り殺し、恢を襄国へ召還したうえで劉氏を廃し、まもなく殺害した。𢎞の生母程氏が皇太后に立てられた。

関中・洛陽での反乱鎮圧

  • 河東王石生(関中鎮守)と石朗(洛陽鎮守)が丞相虎討伐の兵を挙げたが、虎は子の石邃に襄国を守らせ、大軍を率いて洛陽の石朗を攻め捕らえて処刑。続いて長安の石生も追い詰め、最終的に長安を陥落させて秦州の華人・戎人十余万戸を関東へ強制移住させた。
  • 氐族の蒲洪、羌族の姚弋仲がそれぞれ帰順し、虎はこれを龍驤将軍・奮武将軍に任じて関中の民・氐羌を東方へ移住させる政策を進めた。郭権は上邽に拠って晋に帰順したが、延熙二年(334年)には晋の郭権討伐軍(郭権を鎮西将軍・秦州刺史に任じたことに対する反乱鎮圧)も虎配下の将によって制圧され、関中はほぼ平定された。

石𢎞の廃位

  • 虎の権勢がいよいよ強まる中、𢎞は自ら璽綬を持って魏王府(虎の府)に赴き禅譲を申し出たが、虎は「帝王の大業は天下が議すべきこと」と表向き拒んだ。しかし程氏太后には「先帝の血筋はもはや絶えたようなものだ」と漏らしたと伝わる。
  • 尚書らが禅譲を上奏すると、虎は「𢎞は喪中に無礼が多く天下に君臨するに堪えない、廃するのみで禅譲などありえない」と述べ、𢎞を海陽王に廃した。𢎞は落ち着いた態度でこれを受け入れ、群臣は涙したという。虎自身は「皇帝」の号を憚り「居攝趙天王」と称するにとどめた(晋の咸康元年、335年)。𢎞・皇太后程氏・秦王宏・南陽王恢は崇訓宮に幽閉された後、まもなく密かに殺害された。𢎞在位二年、享年二十二であった。

姚弋仲の抗議

  • この一連の簒奪に対し、西羌大都督姚弋仲だけは病と称して祝賀に参じず、召し出されると「大王は当代随一の英雄と思っていたのに、なぜ幼君の後事を託されながらこれを奪い取ったのか」と面と向かって虎を責めた。虎は「海陽(𢎞)は年少で家事を処理できないと思ったまでだ」と釈明し、内心穏やかではなかったものの弋仲を罰することはなかった。