十六国春秋後趙錄一 石勒(上)

上党武郷の羯人で匈奴別部の末裔とされる石勒(字は世龍、初名は㔨)。并州の飢饉と混乱の中で流浪し、奴隷として売られた身から身を起こした。牧場で知り合った汲桑と十八騎で群盗を結成し、汲桑の敗死後は劉淵に帰順して山東の征討を委ねられた。張賓を謀主に迎えて「君子営」を組織し、寧平城で王衍・司馬越の軍を殲滅、王彌を謀殺してその軍を併合するなど華北で急速に勢力を伸ばした。南進を断念して襄国を都と定めたことが、のちの後趙建国の礎となった。

年表(6件)
  • 永嘉年間劉聰・劉曜・王彌らと転戦し、劉淵の即位後に持節平東大将軍に任じられる
  • 永嘉三年鉅鹿・常山・冀州の郡県を攻略し、君子営を組織して張賓を謀主に迎える
  • 永嘉四年東海王司馬越の死後、王衍の軍を寧平城で包囲殲滅し諸王公・士庶十余万人を殺害
  • 永嘉五年張賓の反対を押し切って長江・漢水方面へ南進するも、疫病と朱伺の防戦に阻まれ退く
  • 永嘉六年葛陂に拠って建康攻略を図るが大雨と疫病に阻まれ、張賓の献策により北へ転じる
  • 永嘉六年張賓の勧めに従い襄国を都と定め、劉聰から冀州牧・上党郡公に任じられる

出自と幼少期の異相

  • 石勒、字は世龍、初名は㔨。上党武郷の羯人で、匈奴別部の末裔とされる。生誕時、赤い光が満ち白気が天から降りたという瑞兆があった。十四歳で商いのため洛陽に赴いた際、王衍がその胆力を見抜き「この胡人の子は天下の患いとなろう」と評して捕らえようとしたが、既に立ち去っていた。
  • 成長すると壮健で騎射を好み、粗暴な父に代わって部落を統率し人望を集めた。居所の草木が騎馬の形をなす、家に生えた人参の花葉が人の姿になるといった奇瑞や、田を耕していて「石氏昌」と刻んだ刀を得た逸話が伝わる。郭敬・甯駆ら数人が彼の非凡さを見込んで厚遇した。

流浪と奴隷生活

  • 并州の飢饉・混乱の中、故郷を離れて流浪。捕縛され売られかけたが甯駆に匿われて難を逃れた。郭敬に助けられた後、東瀛公司馬騰配下に捕らえられ、冀州へ移送される流民の一人として軍賞に充てられた。護送中は族兄の郭陽・その子時の助けで飢えをしのぎ、最終的に平原の師懽のもとへ奴隷として売られた。
  • ある老人から「貴人の相がある、甲戌の年に王彭祖を討つことになろう」と予言された逸話、鹿の群れに助けられ「中州の主となるべし」と告げられた逸話が伝わる。

群盗としての挙兵

  • 牧場で汲桑と知り合い、王陽・變安ら八騎、後に郭敖・劉徴らを加えた十八騎で群盗を結成。永嘉の混乱(成都王司馬穎の敗走、劉淵の漢王称号など)に乗じて公孫藩の反乱に加わり、この頃から石を姓、勒を名として名乗るようになった。

汲桑軍の挙兵と鄴の陥落

  • 公孫藩の死後、汲桑は成都王頴の仇討ちを掲げて再挙兵し、勒を前鋒として重用した。鄴を攻めて東瀛公騰を敗死させ、鄴の宮殿を焼き払うなど大きな勢力となったが、晋の茍晞・丁紹らの反撃で敗北し、汲桑は樂陵で討たれた。勒は単身逃れて胡族の張㔨督のもとに身を寄せた。

劉淵への帰順

  • 張㔨督らを説いて共に劉淵に帰順させ、輔漢将軍平晋王に任じられた。烏丸の張伏利度の部衆も計略を用いて吸収し、淵から山東征討諸軍事都督に任じられるなど勢力を拡大した。

冀州平定と洛陽攻略戦への参加

  • 永嘉年間、劉聰・劉曜・王彌らと共に各地を転戦。魏郡・汲郡・頓丘を攻略した際には民への略奪を禁じて人望を集め、劉淵の即位後は持節平東大将軍に任じられた。永嘉三年以降、鉅鹿・常山・冀州の郡県を次々に攻略し、衣冠の士を集めて「君子営」を組織、張賓を謀主に迎えて軍師とした。晋の王浚配下の鮮卑軍に飛龍山で大敗を喫することもあったが、勢力を立て直し続けた。
  • 南安の龎寔ら関中の反乱勢力とも結び、王如・侯脱ら雍州流民の勢力を各個撃破して南陽・襄陽方面を平定した。この過程で乞活の陳午とも魯口で交戦している。

王衍・司馬越軍の壊滅

  • 永嘉四年、東海王司馬越が大軍で洛陽から出撃するも軍中で病没、後を継いだ王衍の軍を寧平城で包囲殲滅し、諸王公・士庶十余万人を殺害した。処刑された宗室には梁懐王禧らが含まれる。王衍を尋問した際、その無責任な弁明(「自分は仕官の意志がなかった」と称し勒に帝位を勧めた)を「天下を破壊したのは君ではないか」と一喝して退けた。司馬越の柩も暴いて焼き払った。

王彌の粛清

  • 洛陽攻略後、共に功を競った王彌との関係が悪化。張賓の進言(「英雄は並び立たず」)を容れ、酒宴に招いた王彌を謀殺してその軍勢を吸収した。この専断に劉聰は激怒したが、結局勒を鎮東大将軍に任じるにとどめた。

仏図澄への帰依

  • この頃、天竺僧仏図澄が郭黒略のもとで軍略の的中を助けていることを知り、召し出して法力を試したところ鉢の中に青蓮華を咲かせる奇瑞を見せられ、深く帰依するようになった。

江夏侵攻

  • 永嘉五年、張賓の反対を押し切り長江・漢水方面へ南進するも疫病で軍が疲弊し、江夏太守楊岠は武昌へ逃れた。明威将軍朱伺の頑強な防戦に遭って撃退された。

新蔡・許昌・汝南の攻略

  • 続いて新蔡を攻めて新蔡王確を殺害、朗陵公何襲ら多くの将が降った。許昌を陥落させて平東将軍王康を殺害し、さらに汝南を攻めて汝南王祐を建康へ敗走させた。

茍晞の檄文と石勒の激怒

  • 晋の茍晞は勒討伐を呼びかける檄文を諸方に発し、勠力帝室(帝室のために力を尽くせ)と諸将を鼓舞した。勒はこれを聞いて激怒し「この賊とは天地の間を共にせぬ」と誓ったという。

寿春をめぐる南進論争

  • 永嘉六年、勒は葛陂に拠って建康(東晋)攻略を図ったが大雨・疫病に阻まれた。晋の琅邪王睿が檄を発して討伐を呼びかける中、配下の孔萇・支雄らは寿春への夜襲を進言したが、張賓は「南進を続けるべきではない、北の鄴・襄国こそ拠るべき地」と説き、勒はこれを容れて北へ転じた。

劉琨からの書簡と拒絶

  • 母王氏と離散していた勒に対し、晋の并州刺史劉琨は母を送り届けると共に、天から与えられた資質を持つ勒に本朝へ効節するよう勧める長文の書簡を送った(内容は使者張儒の口上によるところも大きかった)。勒は「事を成す道は異なる、腐れ儒者の言に惑わされはしない」と一蹴し、名馬・珍宝を贈って使者を返した。

襄国への遷都と後趙建国の礎

  • 鮮于豊の策で汲郡の向冰の軍を破って鄴に迫ったが、晋の劉演が守る三台の攻略は困難と判断し、張賓の勧めに従って山河の要害である襄国を都と定めた。冀州各地の攻略を進め、劉聰から冀幽并営四州諸軍事・冀州牧・上党郡公に任じられた。
  • 広平の游綸・張豺の勢力や、王浚配下の鮮卑遼西公叚疾陸眷の大軍との激しい攻防(末杯の生け捕り、疾陸眷との和睦・盟約)を経て鮮卑諸部を懐柔し、王浚の勢力を大きく削いだ。游綸・張豺も勒に降った。