十六国春秋前趙錄六 劉曜(中)
前趙の皇帝劉曜の治世中期を記す。終南山崩壊と玉版の予言をめぐって群臣が石勒滅亡の吉兆と祝う一方、中書監劉均だけが凶兆と諫めた。氐族の楊難敵を親征して降し、離反した秦州刺史陳安を隴城で討ち取って隴右を平定した。さらに大軍を涼州へ動かして張茂を臣従させ涼王に冊立するなど、西方への支配を広げた。一方で父母の陵墓を壮大に造営して游子遠の倹約の諫めを退けるなど、奢侈と労役の弊も現れた。
年表(7件)
- 光初四年(322年)中書監劉均が玉の出現を凶兆と諫めて弾劾されるが、曜は忠恵の言として擁護する
- 光初五年(323年)朝見を許されなかった秦州刺史陳安が離反し、上邽に拠って自ら涼王を称する
- 光初五年(323年)夏四月、皇后羊氏が没し(諡は献文皇后)、乗馬・服飾・飲酒などの制度を定める
- 光初六年(324年)休屠王石武の来援もあって陳安は劣勢となり、隴城に包囲される
- 光初七年(325年)春、自ら陳安を隴城に囲み、包囲を脱した安を追撃して捕らえ斬る
- 光初七年(325年)二十八万五千の大軍で涼州の張茂を威圧して臣従させ、張茂を涼王に冊立する
- 光初七年(325年)靳準の乱で行方を絶っていた世子劉胤が戻り、永安王に封じられる
終南山崩壊と玉版の予言(322年)
- 光初四年(322年)夏、終南山が崩れ、長安の劉終がその跡地で予言めいた文字(「皇亡皇亡敗趙昌…」)を刻んだ白玉を得た。群臣はこぞって石勒滅亡の吉兆だと祝賀し、曜も喜んで七日間の斎戒の後に太廟でこれを受けた(『水経注』には、龍門の河中で別文の玉璽を得たとする異伝がある)。
- 中書監劉均だけは「山崩れ・玉の出現はむしろ国家動揺の凶兆であり、文中の『趙昌(趙が盛んになる)』は自国ではなく石勒を指す」と論じ、陛下は徳を修めて禍を払うべきだと諫めた。御史はこれを「祥瑞を誣妄する妄言」として弾劾したが、曜は「忠恵の言に何の罪があろうか」と均を擁護した。
氐羌・陳安との対立の始まり(323年)
- 光初五年(323年)、曜は氐族の楊難敵を親征して撃破。難敵は仇池に退いて後に降伏し、益寧など六州の軍事を統べる大将軍に任じられた。
- 秦州刺史陳安が朝見を願い出たが、病を患っていた曜がこれを許さなかったことに怒った安は略奪して去り、以後反旗を翻す。安は曜配下の呼延寔・魯憑を殺害し、さらに軍を送って曜軍を攻めたが、衛軍将軍呼延瑜に撃破された。安は上邽に籠り、西方の氐羌を糾合して自ら涼王を称するに至った。
羊皇后の死と制度整備
- 夏四月、皇后羊氏が没し(諡は献文皇后)、無官者の乗馬禁止、婦人の錦繍着用は俸禄八百石以上に限る、農繁期以外の飲酒・宗廟祭祀以外での牛の屠殺禁止など諸制度を定めた。人が性別を変えるなどの怪異も記録されている。
父母の葬儀と游子遠の倹約諫言
- 曜は父母の墓を粟邑に壮大に造営しようとし、周囲二里・高さ百尺の墳墓を昼夜兼行で築かせた。游子遠は「聖王明君の葬礼は棺・槨・墳墓を最小限にとどめるものであり、莫大な費用と労役で民を苦しめるのは先帝先后の名誉にもならない」と諫めたが、曜は容れず工事を強行し、疫病により多くの死者を出しながらも父の陵(永恒陵)・母の陵(顯平陵)を完成させた。
陳安の討伐(324〜325年)
- 光初六年(324年)、休屠王石武の来援もあり陳安は劣勢に立たされ、隴城に包囲される。翌光初七年(325年)春、曜自ら陳安を隴城に囲み、諸城が次々陥落。陳安は少数の手勢で包囲を脱出しようとするが、追撃を受けて敗走し、最後は谷間に潜んでいたところを捕らえられ斬られた。曜配下の楊伯支・宋亭らはそれぞれ隴城・上邽を献じて降った。
涼州張茂の帰順
- 曜は自ら二十八万五千の大軍を率いて涼州の張茂と対峙。曜は「相手が恐れて自ら帰順するのを待つべきだ」として敢えて渡河を控え、威容を示すにとどめた。案の定、張茂は使者を送って臣従を申し出て、馬・牛・羊・黄金・銀・女伎など莫大な貢物を献上した。曜は大いに喜び、張茂を涼王に冊立した。
世子劉胤の帰還と諸事
- かつて靳準の乱の折に行方不明となっていた曜の世子劉胤が、匿われていた黒匿郁鞠の部から戻り、曜は感激してこれを永安王に封じた。
- この年、未央殿址に鳳凰が飛来し五羽の子を連れていたが悲鳴の末に餓死する怪異があった。石勒配下の石生が河南に侵攻し太守尹平を殺すなど、東方との小競り合いも続いた。