十六国春秋前趙錄七 劉曜(下)

前趙の皇帝劉曜の治世後期と前趙の滅亡を記す。石勒との洛陽争奪が続き、中山王劉岳が金墉城で敗れて捕らえられると曜は憤りのあまり病に倒れた。のち高候で石虎を破り金墉を水攻めにするなど一時は優勢に立ったが、連勝に驕って酒色に耽り、洛陽西の決戦で石勒に大敗、氷上に落馬して石堪に捕らえられた。襄国へ送られた曜は太子熙に社稷を託す書を書かされた後、石勒に殺された。太子熙・南陽王𦙍らは上邽へ逃れたが石虎に討たれ、劉淵の挙兵から三世を経て前趙は滅亡した。

年表(7件)
  • 光初九年楊難敵が仇池の城を奪還し、鎮南大将軍田崧を殺害する
  • 光初九年石虎が金墉を陥として劉岳らを襄国へ送り、曜は喪服のまま七日哭泣して病に倒れる
  • 光初九年秋、劉均の推薦で参軍台産を抜擢し、博士祭酒・諫議大夫・太史令に任じる
  • 光初十年夏、皇后劉氏が没し(諡は献烈皇后)、その叔父劉昶を要職に取り立てる
  • 光初十一年(327年)亡き皇后の遺言により劉皚の娘を新たな皇后に立てる
  • 光初十一年(327年)夢を凶兆と解いた太史令任義の言に恐れ、神祠を修めて大赦・減税を行う
  • 晋成帝
  • 咸和四年(329年)太子熙・南陽王𦙍以下三千余人が処刑され、在位十三年の曜の敗北をもって前趙が滅亡

光初九年の外征

  • 光初九年、曜は劉氏を皇后に立てる。魏興・南陽方面へ出兵する一方、石勒配下の石他が雁門から上郡を急襲し牛馬羊百万余を奪い去ったため、曜は激怒して自ら渭城まで進軍、中山王劉岳に追撃させた。岳は石他を黄河のほとりで撃破し、石他以下多数を斬って凱旋した。
  • 仇池では楊難敵が漢中から戻って城を奪還し、鎮南大将軍田崧を殺害した。

洛陽をめぐる石勒との攻防と中山王岳の敗死

  • 夏、石勒配下の石生が洛陽に駐屯して河南を侵し、晋の李矩・郭黙の軍もしばしば敗れて食糧難に陥り曜に降伏を申し出た。曜は中山王劉岳に大軍を委ねて石生を洛陽に攻めさせ、当初は連勝して金墉城を包囲するに至った。
  • しかし石勒が石虎に歩騎四万を与えて救援に向かわせると、岳の軍は洛陽西方の戦いで敗れて金墉に籠り、糧食も尽きて馬を殺して食べる有様となった。曜自ら救援に出たが、夜中に軍中で理由なく大混乱が起こり、澠池、さらに長安へと退却を重ねた。
  • 石虎はついに金墉を陥落させ、岳と将佐八十余人、氐羌三千余人を捕らえてことごとく襄国へ送り、兵士九千人を生き埋めにした。曜はこの敗報に喪服のまま七日間哭泣し、憤りのあまり病に倒れたという。

台産の直言

  • 秋、諸々の怪異が相次ぐ中、曜は公卿に博識・直言の士を推挙させ、司空劉均の推薦で参軍台産が抜擢された。台産は災異と政治の欠陥を涙ながらに率直に説いたため曜は深く感じ入り、博士祭酒・諫議大夫・太史令に任じた。以後、台産の予言はことごとく的中したと伝わる。

光初十年前後の内政

  • 光初十年、病が癒えた曜は大赦を行い、汝南王咸を太尉、光禄大夫綏を大司徒、卜泰を大司空とするなど人事を刷新した。夏、皇后劉氏が没し(諡は献烈皇后)、その叔父劉昶を要職に取り立てた。
  • 光初十一年(327年)、曜は亡き皇后の遺言により劉皚の娘を新たな皇后に立てた。公卿の子弟を選んで武装親衛の「親御郎」としたが、尚書郝述らの諫言を怒って毒殺するという苛烈な一面も見せた。

太史令任義の凶兆解釈

  • 光初十一年(327年)、曜は夢に金色の顔・赤い唇の三人の人物を見る。太史令任義は「東は震(始まりの位)、金は兌(衰えの位)、唇を動かさぬは事の終わり、拝礼して退くは屈伏、足跡を踏むは国境を出るなの意である。秦(前趙の地)に大軍が起こり、主を喪い師を敗り、趙の地は遠からず、近くて七百日以内に応験があろう」と進言した。曜は大いに恐れ、諸々の神祠を修め大赦・減税を行った。

涼州・仇池方面の攻防

  • その後、長安は春から旱魃が続く中、曜は仇池の楊難敵を攻めたが克てず。涼州の張駿は曜が石勒に敗れたと聞いて臣従を解き、韓璞らと結んで秦州を侵したが、曜配下の南陽王劉𦙍がこれを撃破し河南の地を平定した。

高候の戦いと石勒軍の再侵攻

  • 石勒配下の石虎が河東に侵攻したが、曜は自ら精鋭を率いて迎撃し高候で大破、石虎配下の将軍石瞻を討ち取り莫大な戦利品を得た。曜はさらに石生を金墉に攻め、千金堤を決壊させて水攻めにし滎陽・野王を降した。

洛陽の決戦と劉曜の敗北・捕縛

  • 冬、石勒自ら大軍を率いて洛陽西に布陣。曜は連勝に驕って軍を顧みず酒色に耽り、諫言する者を妖言として斬るなど油断していた。石勒本隊来襲の報に接して驚愕し、洛陽西に十余里にわたり十余万の大軍を布陣させたが、酒に酔ったまま出陣した曜は乗馬が理由なく倒れ、乗り換えてなお深酒したまま西陽門で崩れた陣を石堪につけ込まれ、大敗を喫した。曜自身も氷上に落馬して十数か所の傷を負い、石堪に捕らえられた。石勒は五万余級を斬るという大勝を収めつつ、目的は曜一人であったとして追撃を止めさせた。
  • 捕らえられた曜は石勒との旧約を語り合うが、石勒は「これも天命だ」と述べて曜を幽閉。まもなく護送中に重傷のまま襄国に移され、故人の孫機との酒宴の逸話(自らの過去の裏切りを悔いる言葉)を残しつつ、太子劉熙らに社稷を託す手紙を書かされた後、石勒によって殺害された。

太子劉熙の敗走と前趙の滅亡

  • 翌年正月、太子熙は曜捕縛の報に驚き、大司馬南陽王𦙍・太尉汝南王咸らと上邽への撤退を協議。尚書胡勲の抗戦の進言を𦙍が容れず処刑するなど混乱が広がり、百官は上邽へ奔った。関中は大いに乱れ、蒋英・辛恕らが長安に拠って石勒に帰順を求めた。
  • 秋、南陽王𦙍が上邽から長安を目指すが、石虎の援軍に義渠で敗れ、さらに上邽も陥落。太子熙・南陽王𦙍以下、諸王・卿校・公侯三千余人がことごとく処刑され、関東の流民や秦雍の大族九千余人が襄国へ強制移住させられ、王公・五郡の屠各五千余人が洛陽で生き埋めにされた。
  • 曜は在位十三年で敗れた。劉淵の挙兵(晋恵帝永興元年、乙丑)から三世を経て、晋成帝咸和四年(329年、己丑)、前趙はついに滅亡した。