十六国春秋前趙錄五 劉曜(上)
劉淵の一族の子で、幼くして父を失い淵に養われた劉曜(字は永明)。身長九尺三寸の偉丈夫で、読書を好み「神射」と称される武勇も備えた。若い頃は洛陽で罪を得て朝鮮まで落ち延び、菅涔山に隠棲するなど流離の日々を送った。淵・聰の代を通じて要職を歴任し、靳準の乱に際して重臣に推戴されて皇帝に即位、長安に遷都して国号を漢から「趙」に改めた(前趙)。即位後は陳倉・草壁方面の反乱を平定し、游子遠の献策で巴氐の大乱を鎮めるなど関中の支配を固めた。
年表(3件)
- 光初元年(318年)靳準が配下に殺され靳明が六璽を奉じて降るが、曜は靳明を誅して靳氏一族を皆殺しにする
- 光初二年(319年)単于を太祖とすべしとの議を容れ、国号を漢から「趙」に改める
- 光初三年(320年)游子遠が虚除権渠父子を破って降し、その功により大司徒に抜擢される
出自と若年期の逸話
- 劉曜、字は永明。劉淵の一族の子で、幼くして父を失い淵に養われた。八歳の時、淵と西山で狩りをした際に雷雨に遭ったが少しも動じず、淵に「わが家の千里の駒だ」と評されたという。
- 成人すると身長九尺三寸、手を垂れれば膝を過ぎるほどの体格で、眉は白く目には赤い光があったと伝わる。読書を好み博覧強記、草書・隷書に巧みで文章にも優れ、一寸の厚さの鉄を射抜く腕前から「神射」と称されるほどの武勇の持ち主でもあった。自らを楽毅・蕭何・曹参になぞらえたが世人はこれを認めず、ただ劉聰だけは「永明(曜)は魏の武帝に比すべき器量の持ち主だ」と評価していたという。
洛陽での逃亡生活と菅涔山の瑞兆
- 若い頃、洛陽で罪を得て劉綏のもとへ逃れ、匿われて朝鮮まで落ち延びた。困窮のうちに姓名を変え県の下級役人として身を潜めたが、朝鮮令崔岳に見出されて厚遇を受けた。同じく困窮を共にした曹恂は、それでも曜に君臣の礼を尽くし、曜はこれに深く感謝したという。
- 恩赦の後、自らの人並み外れた容貌ゆえに世に容れられないことを恐れて菅涔山に隠棲していたところ、ある夜二人の童子が現れて「菅涔王の使い」と称し剣を献上した。曜がこれを佩びると、剣は四季ごとに五色に変化したと伝わる。
靳準の乱と皇帝即位(318年)
- 淵・聰の代を通じて要職を歴任し、劉粲の代には相国・都督中外諸軍事として長安を守っていた。光初元年(318年)冬、靳準の乱に際して長安から東進し、呼延晏・朱紀・范隆ら重臣に推戴されて皇帝に即位(靳氏一族のみを除く大赦)、光初と改元した。先祖を追尊して皇帝号を贈るなかで、父の諡号にあたる部分は原文が欠けている。
- 石勒に大司馬・大将軍の号と趙公の爵位を与えて平陽の靳準討伐にあたらせる一方、自らも汾陰に軍を進めて呼応した。靳準は当初石勒への投降を持ちかけたが、曜は使者卜泰を通じて靳準本人への恩赦を約束した。しかし父兄殺害の負い目から靳準は決断できず、結局配下の喬泰・王騰らに殺害され、尚書令靳明が擁立されて伝国の六璽を曜のもとへ奉じて降伏した。
- これに怒った石勒が靳明を攻めたため、明は曜に救援を求めたが間に合わず、平陽の民一万五千人を率いて曜のもとへ落ち延びた。曜は靳明を誅殺し、靳氏一族を皆殺しにした(靳康の娘が助命を拒んで自ら死を望んだという逸話が伝わる)。
遷都と国号「趙」への改称(319年)
- 光初二年(319年)、長安に遷都して宮殿を造営。羊氏(もと西晋恵帝の皇后)を皇后に、子の熙を皇太子に、他の諸子を郡王に封じた。
- 宗廟の始祖祭祀をめぐる議論の末、「前漢以来の慣習を改め単于を太祖とすべき」との提案を容れ、国号を漢から「趙」(水徳が晋の金徳を承ける、の意)に改めた。
陳倉・草壁方面の平定
- 黄石の屠各路松多が新平・扶風で挙兵して晋の南陽王司馬保に帰属するなど各地で反乱が相次いだ。曜は自ら出陣して陳倉を攻め、楊曼・王連を撃破(王連は戦死、楊曼は敗走)、草壁・陰密・安定を次々に平定し、司馬保は桑城へ逃れた。
内乱の鎮圧と游子遠の諫言
- 光初三年(320年)、洛陽方面では晋の李矩・郭黙に押されて石勒方に降る将も現れ、洛陽の民は李矩の下へ帰属していった。
- 長安では解虎・尹車らの謀反が発覚して誅殺されたが、連座した巴の酋長ら数千人を曜が皆殺しにしようとしたため、光禄大夫游子遠が諫めて容れられず投獄された。これに反発した巴氐三十余万が叛乱を起こして句渠知を推戴し、三輔一帯は大混乱に陥った。朝臣たちの必死の諫言でようやく游子遠は赦免され、その献策(力攻めではなく大赦によって反乱者を懐柔する策)を容れた曜は方針を転換して反乱鎮圧に成功した。
- その後、游子遠はわずかな兵で氐羌の大虚除権渠とその子伊余らを撃破し(伊余を生け捕り)、権渠も降伏した。西方の反乱鎮定の功により游子遠は大司徒に抜擢された。
恩人たちの追贈と文教政策
- 曜は若き日に世話になった崔岳・曹恂・王忠・劉綏らに官職を追贈し、その子孫にも領地を与えて厚遇した。
- 太学・小学を設けて年少者を選んで学ばせるなど、文教政策にも意を用いた。
宮殿造営をめぐる諫言
- 建徳殿・酆明観・西宮・凌烟台、さらに銅の棺槨に黄金の装飾を施す壮大な寿陵の造営を命じたが、侍中喬豫・和苞が「これは亡国の兆しであり、漢文帝の質素な霸陵にこそ倣うべきだ」と諫言。曜はこれを喜んで容れ、宮殿造営を中止して寿陵も霸陵に倣った質素なものに改めさせた。