十六国春秋前趙錄一 劉和(字𤣥泰)
要約
劉和、字は𤣥泰は劉淵の后呼延氏の生んだ子で聡の第四弟。身の丈八尺の美丈夫で経学にも通じたが、皇太子となってからは猜忌深く下に恩を施さぬ性格であった。淵が崩じて跡を継ぐと、宗正呼延攸・侍中劉乗・衛尉西昌王銳の三人が「先帝は楚王聡ら三王に強兵を委ねており、陛下は名ばかりの主で禍難は測り知れない」と讒言し、和を唆して兄弟の粛清を図らせた。
領武衛将軍安昌王盛は「先帝はなお殯宮にあり、四王に叛意はない。骨肉相食めば大業も成らない」と諫めたが、銳・攸は怒ってこれを斬った。安邑王欽も脅されて同調し、一味は聡を単于台に、裕を司徒府に、隆をそれぞれ攻めさせたが、聡は備えを固めて迎え撃ち、裕も安国・欽の異心を疑って先に殺した。結局、裕・隆は討ち取られたものの、聡は西明門を破って反撃に転じ、和を光極殿の西室で殺害、首謀者の銳・攸・劉乗も捕らえて処刑した。聡の攻撃に際し、尚書田密・武衛将軍西陽王璿は北海王乂を攻めるよう命じられていたが、途中で翻意して乂を伴い聡のもとへ奔り、聡の勝利を後押しした。劉和の在位はわずか半月ほどで終わり、以後は聡が漢の実権を握ることとなった。
年表
劉淵の子で、淵の后呼延氏の生んだ子、聡の異母弟にあたる。父の死により即位したが、側近の讒言に乗じて兄弟の粛清を図り、かえって返り討ちに遭って即位からほどなく殺害された。
現代語訳全文
即位と猜忌
- 劉和、字は𤣥泰。淵の后呼延氏の生んだ子で、聡の第四弟である。身の丈八尺、雄毅な美姿儀で、学を好みよく成った。毛詩・左氏春秋・鄭氏易を習った。
- 儲貳となるに及び、内には猜忌が多く、下を馭するに恩が無かった。淵が死ぬと偽位を嗣いだ。
- 宗正呼延攸(翼の子である)は、淵が彼を無才行として終身昇官させなかったことを恨んでいた。侍中劉乗は元来聡と仲が良くなかった。衛尉西昌王銳は顧命に参与できなかったことを恨んでいた。三人は互いに謀り、和に説いて言った、「先帝は軽重の勢いをお考えにならず、三王に強兵を内に総べさせ、大司馬には十万の勁卒を近郊に屯させました。陛下は今、寄主となっているに過ぎず、禍難は測り知れません。早く手を打たれますよう」。
- 和は攸の甥にあたり、そこで深くこれに同調した。辛巳の夜、領武衛将軍安昌王盛・安邑王欽及び領左衛将軍馬景らを召してこれを告げた。
- 盛は言った、「先帝はなお殯宮にあり、四王にはいまだ逆節はございません。今、忽然と一朝にして骨肉相食むようなことをすれば、私は陛下がその残飯すら食べられなくなることを恐れます。しかも四海はいまだ定まらず、大業はようやく端緒についたばかり。願わくは陛下、上は先帝の鴻基を成すことを志とし、讒夫の言に耳を塞いで兄弟を疑うことをおやめください。詩に『豈無他人、不如我同父』とあります。陛下がすでに諸弟を信じられぬなら、他人の誰を信じられましょうか」。
- 銳と攸はこれを怒って言った、「今日の議論に二つはあり得ぬ。領軍のその言は何事か」。そこで左右に命じてこれを刃にかけた。盛が殺されると、欽は懼れて言った、「陛下がご命令になるならば、私どもは死をもってこれを奉じるに、成らぬことはございません」。互いに東堂で盟った。
- 壬午、銳は馬景を率いて楚王聡を単于台に攻めた。攸は右衛将軍永安王安国を率いて斉王裕を司徒府に攻めた。侍中乗は武衛将軍安邑王欽を率いて魯王隆を攻めた。尚書田密・武衛将軍西陽王璿らに北海王乂を攻めさせたが、密・璿らは乂を挟んで関を断ち聡のもとに奔った。聡は甲を貫いてこれを待った。
- 銳はすでに聡の備えがあることを知り、馳せ帰って攸・乗らと合流し、隆を攻めた。裕はまた安国・欽に異志があることを懼れ、これを殺した。この日、裕を斬った。癸未、隆を斬った。甲申、聡は西明門を攻めこれを克した。銳らは南宮に奔り入ったが、前鋒がこれを追った。
- 乙酉、和を光極西室に殺した。銳・攸・乗を収めて首を通衢に梟した。