十六国春秋前趙錄一 劉淵

出自と匈奴五部の来歴

  • 劉淵、字は元海。新興郡の匈奴の出身。夏后氏の末裔とされる淳維を遠祖とし、冒頓単于の代に前漢と和親して以来、子孫は漢の帝室の姓「劉」を名乗るようになったという。
  • 後漢末、南匈奴は単于羌渠の子・於扶羅が自立し、董卓の乱に乗じて河内方面に駐屯。於扶羅の弟・呼厨泉の代に、単于の子孫は五部に分割統治され、劉豹(劉淵の父)が左部帥となった。五部はいずれも晋陽・汾水流域に居住し、漢人の司馬による監督下に置かれた。
  • 劉豹の妻・呼延氏が魚にまつわる瑞兆の夢を見て身ごもり、劉淵が生まれたという言い伝えがある。

人物・学問

  • 幼くして母を喪い深く哀しみ、周囲から高く評価された。上党の崔遊に師事し、経書・史書・兵法書を広く学んだ。文武両道に秀でていたとされる。
  • 体格は雄偉で、体の特徴に関する伝承も残る。上党の人相見たちに「尋常でない人物」と評された。
  • 西晋の咸熙年間、洛陽に人質(侍子)として滞在し、王渾・王済父子らに厚遇された。武帝に「容儀・才幹は古の名臣にも劣らない」と評価される一方、孔恂・楊珧(楊駿の弟)らは、異民族の血統である劉淵に軍権を与えることへの強い警戒を武帝に進言した。上党の李熹も劉淵の武才を高く評価したが、孔恂は「劉淵に涼州を平定させれば、涼州の乱以上に深刻な事態になる」と反対し、登用は見送られた。
  • 王弥が洛陽から東へ帰る際、劉淵は「王渾や李熹に推挙されればされるほど、かえって讒言を招き自分の身にとって害になるだけだ」と涙ながらに漏らしており、斉王司馬攸も武帝に劉淵の危険性を進言したが、王渾の弁護によって不問に付された。
  • 父・豹の死後、左部帥を継ぎ、のち匈奴北部都尉となる。刑罰・法度に明るく、私財を惜しまず人望を集め、遠方の名士たちも彼のもとに集ったという。

西晋末の動乱と大単于推戴

  • 恵帝の代、八王の乱により各地で反乱が相次ぐ中、成都王司馬穎が劉淵を軍事に登用。恵帝と穎の抗争(蕩陰の戦い)で穎が敗れた際、劉淵は「殿下のために匈奴五部をまとめ国難に赴きたい」と穎に進言し、五部・鮮卑・烏丸の勢力差を説いて穎を説得、単于の号を得た。
  • 一方、劉淵の従祖・劉宣ら匈奴の長老たちは、匈奴が漢に臣従して百年余りが過ぎたことを嘆き、「左賢王(劉淵)は非凡の器量を持つ。司馬氏の骨肉相食む今こそ、呼韓邪単于の事業を再興する好機である」と一族で挙兵を決意し、離石で劉淵を大単于に推戴した。
  • 劉淵は鄴にいたが、密使を送って挙兵を知らせ、鮮卑・烏丸に攻められて窮地にあった穎からの離脱を図り、離石に入って大単于の号を正式に受けた。二十日ほどで五万の衆を集め、離石を都とした。

漢王即位と国家体制の整備

  • 元熭元年(304年)冬十月、群臣に推されて漢王を称し、「晋がなお存続する以上、当面は帝号を控えて漢王とする」とした。前漢・後漢の歴代皇帝を継承する形式を取り、蜀漢の劉禅を孝懐皇帝と追尊するなど、漢室の後継者たることを標榜。
  • 丞相・太尉・大鴻臚などの官職を設け、匈奴の重臣と漢人官僚を併用する体制を敷いた。族子の劉曜を建武将軍とするなど、一族も要職に配した。

対晋軍事行動の展開

  • 東瀛公司馬騰らとの戦いで一進一退を繰り返しつつ、太原・西河方面の郡県を次々に攻略。晋の并州刺史劉琨とも数度交戦し、劉琨配下から匈奴系の民が大量に劉淵側へ帰順するなど、勢力を拡大した。
  • 侍中劉殷・光禄大夫王育の進言を受け、涼北の一地方勢力に留まらず「一挙に長安・洛陽を制圧すべき」との方針を採用。
  • 東莱の王弥(青徐で挙兵していた群盗の首領)が来降し、鎮東大将軍に任じられるなど、各地の反晋勢力を糾合。石勒らも次々に帰順した。

皇帝即位と遷都

  • 永鳳元年(308年、晋の永嘉二年)、群臣の勧進により皇帝に即位、国号は引き続き漢とした。
  • 太史令の進言(洛陽攻略の好機を説くもの、また平陽が古の陶唐の都であることを理由に遷都を勧めるもの)を容れ、蒲子から平陽へ遷都した。

洛陽攻略の攻防

  • 楚王劉聡・征東大将軍王弥らを繰り返し洛陽へ進撃させ、晋の太傅司馬越の軍と一進一退の攻防を演じた。緒戦では晋軍を破るも、弘農太守垣延の偽装投降による夜襲を受けて大敗するなど、戦況は一進一退であった。
  • 汾水から出た玉璽(「有新保之」の銘)を瑞祥として大赦・改元(河瑞)を行うなど、政権の正統性を演出した。
  • 河瑞二年(310年)、病篤くなり皇太子劉和に後事を託し、同年に没した(在位七年)。永光陵に葬られ、諡は光文皇帝、廟号は高祖。