十六国春秋前趙錄二 劉聰上
匈奴出身の劉淵の第四子、劉聰(字は玄明、一名は載)。学問と武芸に通じ、洛陽に遊学して樂廣・張華らに評価された。父の死後に兄劉和を討って皇帝位に即き、漢(前趙)の第三代として洛陽を陥落させ晋の懐帝を捕らえた(永嘉の乱)。一方で後宮に溺れて政務を左右貴嬪に委ね、諫言者を殺そうとするなど乱行も多く、皇太弟劉乂との確執を抱えた。配下では劉曜・石勒が台頭し、王弥誅殺をきっかけに石勒の自立の素地がつくられた。
年表(16件)
- 光興元年(310年)十一月、即位の順を越えたことを憂え、嫡兄の劉恭を密かに殺害する
- 光興元年(310年)十二月、単太后が没し、生母張氏が皇太后となる
- 嘉平元年(311年)大赦して嘉平と改元し、懐帝を特進左光禄大夫・平阿公とする
- 嘉平元年(311年)冬十月、劉曜を車騎大将軍・雍州牧・中山王として長安に鎮させる
- 嘉平元年(311年)十一月、王弥が石勒に殺され、聰は石勒に并州刺史などを加えてなだめる
- 嘉平元年(311年)十二月、晋の閻鼎らが秦王業を皇太子に立てて雍城に入る
- 嘉平二年(312年)劉殷の娘英・娥を左右貴嬪とし、以後六劉が後宮を占めて政務を決裁するようになる
- 嘉平二年(312年)二月、懐帝に儀同三司・会稽郡公の待遇を与え、小劉貴人を妻として与える
- 嘉平二年(312年)三月、靳冲・卜珝の晋陽攻めが拓跋猗盧の援軍に敗れ、靳冲は斬られる
- 嘉平二年(312年)夏四月、諸子八人を王に封じ、遊猟を諫めた王彰を殺そうとして群臣に諫止される
- 嘉平二年(312年)五月、長安包囲に敗れて退いた劉曜を龍驤大将軍行大司馬に降格する
- 嘉平二年(312年)十二月、張貴人徽光を皇后に立て、その父張寔を左光禄大夫とする
- 嘉平三年(313年)二月、懐帝を鴆殺し、庾珉・王雋ら旧晋の臣五十余人を誅殺する
- 嘉平三年(313年)三月、太后張氏と皇后張徽光が相次いで没し、左貴嬪劉娥を皇后に立てる
- 嘉平三年(313年)冬十一月、劉曜が麹允の反撃に連敗し、喬智明を失って平陽へ退く
- 嘉平三年(313年)十二月、劉曜が魏浚を石梁に包囲して捕らえ殺す
出自と若年期
- 劉聰、字は玄明、一名は載。劉淵の第四子で、母は張氏。
- 張氏が身重の際、太陽が懐に入る夢を見て聰を身籠ったとされ、十五か月を経て出生。生まれた夜には日光(一本には白光)のごとき異象があり、体つきは尋常でなく、左耳に二尺余りの白毫があったという。
- 幼くして聡明で学を好み、博士朱紀に非凡さを見出された。十四歳で経書・諸子百家・孫呉の兵法に通じ、草書・隷書に巧みで文才にも優れ、詩百余篇・賦頌五十余篇を著したとされる。十五歳で武芸を習い、剛弓を引く膂力と俊敏さで当代随一と評され、太原の王渾もその器量を測りかねたという。弱冠で洛陽に遊学し、樂廣・張華らと交わり高く評価された。
西晋への出仕と劉淵挙兵後の履歴
- 新興太守郭熙(一本には郭頤)に主簿として招かれ、のち驍騎別部司馬・斉王司馬冏配下の国中尉・左部司馬・右部都尉を歴任し、匈奴五部の有力者たちの信望を集めた。
- 太宰河間王司馬顒により赤沙中郎将に任じられたが、父・劉淵が鄴にあって成都王司馬穎に害されることを恐れ、穎のもとへ出奔し積弩将軍として前鋒の軍事を担った。
- 劉淵が北単于となるとその右賢王、大単于位に就くと鹿蠡王、漢の大号を称すると大司馬、のち楚王に爵位を進めた。
劉和誅殺と皇帝即位
- 劉淵の死後、子の劉和が即位したが、西昌王劉銳が馬景を率いて単于台の劉聰を攻めた。聰は甲冑を着けて迎え撃ち、銳らが南宮へなだれ込んだところを反撃して劉和・劉銳らを討ち取った。
- 群臣は聰の即位を勧めたが、聰は皇后単氏の子である北海王劉乂に位を譲ろうとし、乂と公卿が涙ながらに固辞したため、聰はようやくこれを容れ、「乂の歳が長じるのを待って大業を返す」と約したという。
光興改元と建国体制の整備(310年)
- 光興元年(310年)秋、聰は光極前殿で皇帝を称し、大赦・改元。嫡母単氏を皇太后、生母張氏を帝太后と尊んだ。
- 劉乂を皇太弟・大単于・大司徒とし、妻呼延氏を皇后に立てた。子の粲を河内王に、易を河間王、翼を彭城王、悝を高平王に封じ、蒲洪を平遠将軍、石勒を并州刺史・汲郡公とするなど体制を整えた。
- 冬十月、河内王粲・征東大将軍王弥・龍驤将軍劉曜らが四万の兵で洛陽近郊に侵攻し、梁・陳・汝・潁の間で百余の塁壁を陥落させた。朔方に拠っていた匈奴の劉虎が鮮卑の一部を率いて帰順し、宗室として楼煩公に封じられた。
- 十一月、即位の順を越えたことを憂えた聰は、嫡兄の劉恭を密かに殺害した。司空劉景を大司馬左僕射、劉殷を大司徒右僕射、王育を大司空とした。
単氏の死と劉乂との確執
- 十二月、単太后が没し、生母張氏が皇太后となった。単太后は劉乂の実母で若く美しく、聰と密通していたが、乂がこれを繰り返し口にしたため恥辱と憤りのうちに没したという。
- 聰は後にその経緯を知り、乂への寵愛は次第に薄れたが、単氏を偲ぶ情から乂を廃することはしなかった。皇后呼延氏がしきりに乂を廃するよう説き、両者の間で謀略が動き始めた。
- 乂の叔父単冲は「疎遠な者が親しい者を離間するものではないが、主上は久しく河内王(粲)に心を寄せている、殿下は身を避けられよ」と涙ながらに諫めたが、乂は「天下は高祖の天下、兄弟継承もあり得ぬことではない」と聰を信じて動じなかった。
晋軍との緒戦(延津・瓶塁)
- この頃、聰配下の安北大将軍趙固は晋の車騎将軍王申始と延津で対峙したが、深い霧に視界を阻まれ趙固軍は大敗した。王申始はその勢いに乗じて瓶塁の劉曜・王弥を攻めて大破し、千余人を捕らえ斬った。
洛陽陥落(永嘉の乱、311年)
- 嘉平元年(311年)四月、趙固・平北将軍王桑が晋の裴盾を攻め殺した。
- 五月、衛尉呼延晏が二万七千の兵を率いて洛陽へ進撃、王弥・始安王劉曜・石勒も合流を命じられた。晏は前後十二度晋軍を破って三万余を討ち取り、平昌門・東陽門・宣陽門などを次々陥落させた。
- 六月、晏は一時洛陽外へ退いたが王公以下二百余人を捕虜とし、晋の懐帝が黄河東へ逃れようと用意した船団を焼き払った。城内は飢餓のあまり人が人を食う惨状となり、司空荀藩兄弟、太子左率温畿らは相次いで脱出した。
- 王弥・呼延晏が宣陽門を破って南宮に入り太極前殿で略奪、懐帝は脱出を図るも捕らえられた。劉曜は西明門から入城し武庫に駐屯。晋の太子詮、呉王晏、竟陵王楙ら三万余人が洛水北岸で殺され京観(死体の塚)が築かれた。歴代皇帝陵は暴かれ、宗廟宮府は焼き尽くされ、後宮の妃嬪は辱められた。劉曜は恵帝の羊皇后を娶った。懐帝・侍中庾珉らと伝国璽は平陽へ移送された。
- 丁未、聰は大赦・改元して嘉平とし、懐帝を特進左光禄大夫・平阿公とし、庾珉・王雋らを光禄大夫とした。
洛陽陥落後の関中平定
- 秋七月、晋の司馬模配下の趙染が待遇への不満から寝返り、聰の平西将軍となった。
- 八月、趙染・劉雅が二万騎で長安の司馬模を攻め、河内王粲・始安王曜が後続。潼関で模軍を破って呂毅を敗死させ、涼州の北宮純も帰順した。糧秣尽きた模は軍諮祭酒韋輔の勧めで降伏し、趙染に辱められた末に粲のもとへ送られた。
- 九月、粲は司馬模とその子范陽王黎を殺害し、模の妃劉氏を別将張本の妻として与えた。聰はこれに激怒し、「たとえそうでも、お前は降人を誅した報いを免れまい。天道は必ず報いる」と粲を戒めた。折しも関西は飢饉に見舞われ、生存者は百人に一・二人という惨状であった。
- 冬十月、始安王劉曜を車騎大将軍・開府儀同三司・雍州牧・中山王として長安に鎮させた。王弥は大将軍・斉公、石勒は幽州牧に任じられた。安定太守賈疋ら氐羌の諸勢力は人質を送って服したが、雍州刺史麹特・新平太守竺恢・馮翊太守索綝は降伏を拒んだ。
王弥の誅殺と石勒の台頭
- 十一月、王弥は石勒に殺され、石勒はその軍勢を併合したうえで王弥が謀反を企てていたと聰に報告した。聰は「専断で公輔の重臣を殺すとは無上の野心の表れだ」と激怒したが、石勒に二心を抱かれることも恐れ、王弥の旧部衆を石勒に配し、鎮東大将軍・并幽二州諸軍事都督・并州刺史を加えてなだめた。
賈疋らの反攻と長安争奪
- 安夷護軍麹允・頻陽令梁肅は南山から安定へ向かう途上で賈疋の人質を奪い返し、賈疋を平西将軍に推して晋室再興の兵を挙げ、五万の兵で長安の劉曜を攻めた。扶風太守梁綜・麹特・竺恢らも十万の兵で合流した。
- 劉曜は劉雅・趙染を差し向けたが賈疋に大敗し、長安の精鋭を投入した黄丘の戦いでも劉曜自身が流れ矢を受けて敗走した。賈疋は追撃して甘泉(一本には甘渠)に至り、渭橋から梁州刺史彭蕩仲を襲い殺したが、後に蕩仲の子天護に夜襲され澗谷に落ちて殺された。聰は天護を梁州刺史とした。
- 杜の民、王禿・紀持と麹特らは新豊で河内王粲を攻め、粲は平陽へ退いた。劉曜は池陽を陥として一万余人を長安へ連行した。十二月、晋の閻鼎らが秦王業を皇太子に立て雍城に入り、関西の胡・晋の勢力が呼応した。
嘉平二年の後宮・婚姻政策(312年)
- 正月、皇后呼延氏が没し、諡は武元とされた。
- 甲戌、王育・任顗の娘を左右昭儀、王彰・范隆・馬景の娘を貴人、朱紀の娘を貴妃とし、いずれも金印紫綬を与えた。
- 聰は太保劉殷の娘を娶ろうとし、皇太弟劉乂は同姓婚を理由に固く諫めたが、太宰劉延年・太傅劉景らは「劉殷は劉康公の後裔で陛下とは系統が異なる」と取り成した。聰はこれを喜び、兼大鴻臚李弘(一本には李恒)に命じて劉殷の娘、英・娥を左右貴嬪(昭儀より上位)とし、さらに殷の孫娘四人も貴人とした。
- 聰は李弘から「魏の司空王基のような大儒も、同姓でも系統が異なるとして子に太原王沈の娘を娶らせた例がある」と説かれて大いに喜び、黄金六十斤を賜って一族への説得を託した。以後、劉氏出身の六人の寵妃(六劉)が後宮を圧し、聰は自ら政務にあまり関わらず、中黄門を通じて奏上された案件は左右貴嬪が決裁するようになった。
懐帝との対話
- 二月、聰は捕虜となっていた懐帝に儀同三司・会稽郡公の待遇を与え、庾珉らにも順に位を加えた。宴席で聰は懐帝と洛陽時代の旧交(詩文の贈答、射芸の勝負、弓・銀硯の贈物)を懐かしみ、懐帝は「これは人為ではなく天意、大漢が天命を受ける(一本には応天受命)ためにこそ、陛下のために道が開かれたのでしょう」と応じた。聰は喜び、名族の孫である小劉貴人を懐帝の妻として与え、劉氏を会稽国夫人とした。
太原方面の攻防と靳冲誅殺
- 三月、鎮北将軍靳冲・平北将軍卜珝が太原を攻め、晋陽を包囲したが、魏の穆帝(拓跋猗盧)の援軍に敗れた。卜珝の兵が先に敗走したため靳冲はその罪を珝に着せて斬ったが、聰は「珝を処断する権限は冲にはない」と怒り、御史中丞浩衍を遣わして冲を斬らせた。
- 聰は舅の子・張寔の娘二人(徽光・麗光)も太后張氏の意向で貴人とした。
諸子の分封と遊猟をめぐる王彰の諫言
- 夏四月、聰は子の敷・驥・鸞・鴻・勱・権・操・持をそれぞれ渤海王・済南王・燕王・楚王・斉王・秦王・魏王・趙王に封じた。魚蟹の供給を怠った左都水使者襄陵王攄、宮殿造営が期日に間に合わなかった将作大匠靳陵はともに処刑された。
- 聰が節度なく遊猟にふけり夜通し汾水で漁を見物することに、中軍大将軍王彰は「大難がまだ収まらず晋の残存勢力もある中、軽々しく出歩くのは危険であり、先帝創業の労苦を思うべきだ」と強く諫めたが、聰は激怒して処刑を命じた。彰の娘(上夫人)の哀願で処刑は詔獄への幽閉に減じられたが、太后張氏が抗議の断食をし、皇太弟劉乂と(聰の子)劉粲が棺を担いで諫めるに至った。
- 太宰劉延年・太保劉殷ら百余人の群臣も冠を脱いで諫め、聰はついに酔余の過ちを認めて彰を赦し、驃騎将軍・定襄郡公に昇進させた。
長安方面の攻防(司徒傅祗の死)
- 雍州刺史麹特らは数か月にわたり長安を包囲し、中山王劉曜は連戦連敗のすえ八万余の男女を連行して平陽へ退いた。五月、聰は曜を龍驤大将軍行大司馬に降格した。
- 河内王粲は三渚で司徒傅祗を攻め、右将軍劉参は懐城で郭黙を攻めた。傅祗は病没して城は陥落し、粲はその子傅暢・孫傅純粋と二万余戸を平陽へ移した。聰は傅祗を太保に追贈し、忠節を評価して傅暢に「先の主に対する忠義は認めるが、天命に逆らい辺境を乱した罪は罪だ」と説き、傅暢は感謝の言葉もなく恩義を受け入れた。
立后をめぐる混乱と勢力拡大
- 六月、聰は貴嬪劉英を皇后に立てようとしたが、太后張氏は貴人張徽光を望み、聰はやむなくこれに従った。まもなく劉英は病没し、太保劉殷も没した。
- 河間王易・彭城王翼を禁軍の長に、高平王悝を征南将軍として離石に、済南王驥を征西将軍として新築の西平城に、魏王操を征東将軍として蒲子に配した。
- 兵糧欠乏に苦しんだ安北大将軍趙固・平北大将軍王桑は河北を掠奪しつつ聰への帰順を求めたが、迎えの途上で長史牟穆らが劉演へ寝返り、桑も配下に殺されてその兵は劉演へ流れた。趙固は荊州刺史・河南太守として洛陽に鎮した。
劉琨と拓跋猗盧の連合、并州攻防
- 晋の平北将軍劉琨は諸州に檄を発して聰討伐を図った。琨配下で寵臣の徐潤を除くよう進言していた護軍令狐盛は、逆に潤の讒言により琨に殺され、その子令狐泥は聰へ出奔して内情を明かした。聰は河内王粲・中山王曜らに令狐泥を道案内として并州を攻めさせ、上党太守龔醇も降った。
- 雁門の烏丸が再び反乱すると琨は東へ出兵したが、将の郝詵・張喬は武灌で敗死し、太原太守高喬・并州別駕郝聿は晋陽を粲に明け渡した。琨は晋陽奪回に失敗して常山へ逃れ、令狐泥は琨の父母を殺害した。
- 劉琨はかねて拓跋猗盧(当時「代王」と称した)と義兄弟の誓いを結んでおり、危急を訴えて援軍を求めた。猗盧は長子賔六須(一本には賔六修)や普根らに数万を率いさせ、自らも二十万の兵で続き狼猛(一本には盆城)まで進んだ。汾水東岸の戦いで劉曜は大敗し、流れ矢に当たり七創を負って落馬、討虜将軍傅虎が自らの馬を与えて曜を逃し、自身は戦死した。曜は晋陽を掠奪して蒙山を越え敗走した。
- 十一月、猗盧の追撃により藍谷で粲の軍も大敗し、征虜将軍邢延ら三千余が討たれ、死屍は数百里に及んだ。猗盧は寿陽山で盛大な狩猟を行ったのち、なおも進撃を望む劉琨に「今回は兵馬が疲弊しているのでまた後日にしよう、劉聰はまだ滅ぼせぬ」と告げ、牛馬羊各千余頭と車百乗を贈って帰還し、箕澹・段繁らに晋陽の守備を託した。
- 十二月、聰は張貴人徽光を皇后に立て、その父張寔を左光禄大夫とした。
嘉平三年 懐帝毒殺と辛勉の節義(313年)
- 正月、聰は光極殿での大宴に懐帝を青衣(下僕の服)で侍らせ酌をさせた。侍中光禄大夫庾珉・王雋らは悲憤のあまり慟哭し、聰はこれを憎んだ。折しも珉らが劉琨と内通しているとの密告があった。
- 二月丁未、聰は懐帝を鴆殺し、庾珉・王雋ら旧晋の臣五十余人を誅殺、大赦を行った。かつて懐帝に嫁がせた会稽国劉夫人は再び貴人とされた。
- 懐帝に随従していた侍中辛勉は、聰から光禄大夫への任官を固辞していたが、聰が毒酒を送って試したところ、辛勉は「二君に仕えた恥を晴らすため死を選ぶ」と毒酒を仰ごうとし、使者は「主上はただ試したのだ」と押し止めた。聰はその節義に深く感銘し、平陽西山に邸宅を与え月々酒米を届けさせたが、辛勉はこれも辞退した。
太后・皇后の死と劉娥立后、陳元達の諫言
- 三月、太后張氏が没し(諡は光献)、悲しみのあまり皇后張徽光も相次いで没した(諡は孝武)。定襄忠穆公王彰も没した。
- 聰は左貴嬪劉娥を皇后に立て、後宮に鷖儀楼を新造しようとした。廷尉陳元達は、先帝劉淵の質素な暮らしぶりや、漢の文帝が露台建設を惜しんだ故事を引き、「大難がいまだ収まらぬ中、晋の残存勢力・李雄・王浚・劉琨・石勒・曹嶷ら憂うべき敵が多いのに、後宮造営を優先するのは本末転倒」と厳しく諫めた。
- 聰は激怒して「鼠のような小僧が政を妨げるか」と元達とその妻子の処刑を命じたが、元達は逍遥園の李中堂で鎖で自らを木に繋ぎ、「私の言は社稷のためだ、死してもなお天に、先帝に訴える」と叫んで動かなかった。任顗・朱紀・范隆・河間王易ら群臣が血を流して叩頭し諫め、皇后劉娥も密かに使者を送って処刑を止めさせ、自ら上書して切諫した(詳細は劉后伝にある)。聰は怒りを解いて元達に謝罪し、逍遥園を納賢園、李中堂を愧賢堂と改名した。
愍帝即位と長安再攻防
- 夏四月、晋の愍帝が長安で即位した。聰は中山王劉曜・喬智明・李景年らに長安を攻めさせ、平西将軍趙染も加わった。晋の安夷護軍始平太守(一本には大都督)麹允は黄白城に拠って抵抗し、晋は索琳を征東大将軍として援軍に送った。
- 六月、劉琨は拓跋猗盧と陘北で会し聰討伐を謀った。七月、琨は藍谷に進み、猗盧は普根を北屈に配した。聰は粲・易らを派して迎撃させ、蘭陽らも西平防衛を助けたため、琨らは撤退した。
- 九月、趙染は「麹允が主力を外に出しているため長安は手薄」と献策し、劉曜の許可を得て五千の精騎で長安を急襲。渭陽で晋軍を破り、龍尾ら諸営を焼いて千余人を殺掠したが、麹鑒の救援軍が来ると退却、劉曜と合流して零武で麹鑒軍を撃破した。
- しかし連勝に驕った劉曜は備えを怠り、冬十一月、麹允の反撃を受けて連敗、冠軍大将軍喬智明を失い、粟邑を経て平陽へ退いた。
河南方面の攻防(魏浚・郭黙・一泉塢)
- 十二月、劉曜は河南で人望を集めていた魏浚を妬み、石梁に包囲した。兗州刺史劉演・河内太守(一本には河州)郭黙が救援に向かったが、曜の伏兵に大敗して騎兵をことごとく奪われ、魏浚も夜逃げの末に捕らえられ殺された。浚の一族の甥・魏該は金墉城の守備にあたっていたため難を免れ、残兵は該のもとに集った。
- 杜預の子・杜尹は弘農太守として一泉塢(『水経注』には一合塢)に拠り劉曜の兵にしばしば略奪されていたため、魏該と共に対抗しようとした。しかし該の将馬瞻は油断を突いて夜襲し杜尹を殺し、塢の人々は該に服従した。該は李矩・郭黙・河北尹任愔と連携して劉曜に抗したが、やがて食糧が尽き、南への撤退を望むも配下がこれに従わず、単騎で南陽へ逃れた。馬瞻は残兵を率いて劉曜に降った。