十国春秋卷一百八 北漢五 列傳 李筠
要約
李筠は太原の人で騎射に優れた。後唐の秦王李従栄の変に加わって天津橋で奮戦したのち出奔し、後晋では内殿直から控鶴指揮使に進み、契丹滅亡後に鎮州へ残った契丹将の軍を、味方の白再栄をも斬りかけて奮起させつつ撃退する働きを見せた。後漢の高祖即位後は博州刺史となり、郭威に従って慕容彦超を破って功を立てた。後周成立後は昭義軍節度使に任じられ、世祖(北漢)を援ける契丹軍を破って侍中を加えられ、恭帝の代には太尉に進んだ。
宋の太祖が禅譲を受け入朝を促すと、筠は表向きこれに従いながらも、宴席で周の太祖の画像を掲げて涙するなど内心では旧主への忠義を捨てなかった。ひそかに北漢の睿宗と通じて挙兵を約すが、子で宋の皇城使であった李守節の諫めや太祖の説得も聞き入れず挙兵した。従事の閭丘仲卿は孤軍の不利を説いて虎牢・洛陽を押さえる策を献じたが、筠は自慢の愛将儋珪と駿馬撥汗を頼み、旧知の禁軍が味方すると自負してこれを退け、沢州を奪って睿宗の来援を仰いだものの、その兵力の弱さに内心後悔した。西平王に封じられながらも睿宗に本心を疑われて監軍を付けられ不満を募らせるうち、太祖みずからの親征を受けて沢州で敗れ、城が陥ちると火に投じて死んだ。子の守節は潞州で降伏して赦され、単州団練使に任じられた。
母への孝行や、愛妾劉氏が突囲の策を献じながらも身重であったため落城前に逃され、後に守節がこれを探し当てて子が生まれた悲話も伝わる。末尾の史論は、周臣であった筠がなぜ北漢の伝に列せられるかを論じ、太平駅で臣下の礼をとった以上、旧主への節義を貫いた忠臣としてなお北漢の臣に数えるのが適切だと結ぶ。
現代語訳全文
後唐・後漢での経歴
- 李筠は太原の人。騎射に巧みであった。初め後唐の秦王・李従栄の麾下に属した。従栄の変が起こると、筠は騎兵として従い、天津橋に至って十数人を射殺し、その後馬を棄てて逃げ去った。
- 清泰初年、募に応じて内殿直となり、控鶴指揮使に遷った。開運末年、契丹が晋を滅ぼすと、その将の趙延寿は筠の勇猛の名を聞き、これを幕下に置いた。延寿が捕えられると、契丹の将・耶律轄哩なる者がなお二千騎を統べて鎮州に留まった。筠は諸将と謀り、機を伺ってこれを撃とうとしたが、控鶴左廂都校の白再栄が日和見して室に隠れ、すぐに応じなかった。筠は佩刀を抜いて幕を破り、腕を引いて再栄に迫り、殺傷相半ばする争いとなった。轄哩はついに城を棄てて去った。
- 高祖(劉知遠)が晋陽で即位すると、再栄は鎮州をもって款を送り、留後を授けられ、筠は博州刺史とされた。郭威が大名を鎮すると、筠を先鋒指揮使に表薦し、また北面縁辺巡検とした。郭威が兵を挙げて汴に入るに及び、筠は郭崇威とともに従軍し、慕容彦超を留子陂で破って功があった。
後周での昭義軍節度使
- 郭威が漢の帝位を革めて後周の太祖となると、太祖は開国の功を論じ、筠を昭義軍節度使・検校太傅同平章事に遷した。数年を経て、後周はしばしば世祖(劉崇)と兵を構えたが、筠は奇兵をもって晋陽を援ける契丹の軍を撃ち破り、兼侍中を加えられた。
- 周の恭帝が立つと太尉に進んだ。宋の太祖が禅譲を受けると、使者を遣わして兼中書令を加え、入朝するよう論した。筠はただちに命を拒もうとしたが、左右の者が歴数(天命)の推移する道理を陳べたので、やむを得ず拝命した。
- 使者を迎え入れて階を上らせ、酒宴を設け楽を張ったところ、筠はにわかに周の太祖の画像を取り出して壁に懸け、涙を流して泣いたので、賓客・佐吏はひどく驚き恐れた。宋の使者に「令公は酒に酔って常の性を失っただけです、どうかお気になさいませんように」と告げた。
睿宗との内通と挙兵
- ほどなく牙将の劉継沖らを遣わして睿宗に臣と称し、睿宗は蠟書(密書)をもって共に宋を伐つことを約した。筠は表面上は宋に付き従いながら、内心では実に周に報いようと願っていた。
- この時、筠の子の李守節は宋の皇城使であったが、泣いて諫めても聞き入れられなかった。宋の太祖はまた守節を遣わして旨を諭させ、「帰ってお前の父に伝えよ。私がまだ天子でなかった時はお前の父は思うままに振る舞ってよかったが、私がすでに天子となったからには、お前の父だけが私に臣従できぬというのか」と言わせた。筠の謀はますます急を告げ、ついに兵を挙げた。
- 従事の閭丘仲卿が策を献じて言った。「大梁(開封)の兵甲は精鋭で、争って勝つことは難しい。我々は孤軍で事を起こすのであり、その勢いは甚だ危うい。河東を頼みとしても、結局は力を得られまい。西へ太行山を下り、まっすぐ懐州・孟州に至り、虎牢関を塞ぎ、洛邑(洛陽)に拠って東に向かい天下を争うのが、上策である」。
- 筠は言った。「私は周朝の宿将であり、世宗とは義兄弟のようなもので、禁衛の兵はみな旧知の者ばかりだ。必ずや矛を逆にして私の方に帰順するであろう。まして儋珪の槍と撥汗馬があるからには、天下を何ら憂うることがあろうか」(儋珪は筠の愛将で勇力があり槍を用いるのに巧みであった。撥汗は筠の駿馬で、一日に七百里を駆けたので筠は誇っていた)。
- ほどなく、人を遣わして沢州刺史の張福を殺し、その城を占拠した。睿宗はそこで兵を率いて援けに来た。筠は臣下の礼をもって太平駅に参上した。時に睿宗の兵衛は寡弱であり、筠は内心大いに後悔したが、事はすでに中止できなかった。
睿宗との齟齬と滅亡
- 睿宗はそこで筠を西平王に封じ、召して語り合った。筠はみずから、郭氏(後周)の大恩を受けたゆえ、あえて死を惜しむものではなく、周と漢(北漢)とは代々の讐であることを忘れていない、と述べた。睿宗は黙然として答えず、これにより心中疑うようになり、宣徽使の盧贊に命じてその軍を監督させた。筠はますます不満を抱いて楽しまなかった。
- 子の守節を上党に留めて守らせ、みずから兵を率いて南に向かった。宋の太祖は石守信らを遣わしてこれを討たせ、勅して「筠を太行山を下らせるな。急ぎ軍を進めてその隘路を扼せば、必ずこれを破れる」と命じた。太祖はついにみずから親征したが、山道は石が多く進めなかったので、太祖はまず馬上から数個の石を自ら背負い、群臣・大軍もみなこれにならって石を背負って運んだところ、たちまち平らな大道となった。
- 石守信らと合流して沢州の南で筠の軍を破り、監軍の盧贊を殺した。筠は敗走して沢州に籠城し、太祖は自らこれを督戦してその城を陥落させた。筠は火に投じて死んだ。
- そのまま潞州に進軍すると、守節は降伏し、罪を赦されて襲衣・金帯・銀鞍・勒馬を賜った。この日、宋の太祖は従官と宴し、守節もこれに与った。続いて単州団練使に任じられた。時に天会四年六月のことである。
- 筠は初め名を榮といったが、周の世宗の諱を避けて改名した(『宋史』は言う、筠はやや書を知り、たいそう戯れを好んだ。改名の時、あるいは筠と名づけるように言うと、筠は「李筠李筠、王帛(絹の贈り物)ぞや」と言った、と)。
- 筠は性質は荒々しかったが、母に事えることは甚だ孝であった。怒って人を殺そうとするたびに、母は屏風の後ろから筠を呼んだ。筠が駆けつけると、母は「人を殺そうとしていると聞いたが、赦してやれないか。私たちのために福を増すことになろう」と言い、筠はただちにこれを赦した。
- 筠には愛妾の劉氏がいて、共に死のうとしたが、筠はその身に子があったので追い払って去らせた(『左編』は言う。劉氏は筠に従って沢州に至り、その時城が攻められて危機に瀕したとき、劉氏は筠に「城中に丈夫な馬はどれほどあるか」と尋ねた。筠は「お前がなぜそんなことを問うのか」と言った。劉氏は「孤城は危機に瀕し、陥落は目前です。今、まことに数百の馬を得て、腹心の者と共に囲みを潰いて出て、昭義に拠り河東に援けを求めるほうが、なお座して死を待つよりましでしょう」と言った。筠はこれを是とし、左右の者を召して馬を数えさせると、まだ千匹を下らなかった。この夜、まさに出撃しようとしたところ、ある者が筠に「今、帳前の計議では皆、一心に城門を開けば守り切れないと言っています。もし公を劫かして降伏させれば、悔いても及びません」と言った。筠は逡巡して決断できず、翌日城が陥落した。筠が火に投じようとすると、劉氏も共に死のうとしたが、筠はその身に子があったので追い払って去らせた。守節は後にこれを探し求めて得、果たして子を生んだという)。
史論
- 論じて言う。筠はもとより周の臣であるのに、これを漢(北漢)の伝に繋けたのはなぜか。思うに、太平駅の一件で、筠はすでに臣下の礼をもって孝和(睿宗)に事えたのであり、たとえ心中に□(底本欠字)望を懐いていたとしても、頭を垂れて臣従の証を委ねた以上、劉氏(北漢)の臣でないとは言えない。まして旧主(後周)のために身を捐てて志を変えなかったことは、まことに誰もが得たいと願う臣であろう。それゆえこれを漢の伝に繋けることに、誰が不宜と言おうか。