十国春秋卷一百八 北漢五 列傳 趙𢎞
要約
趙𢎞は薊州漁陽の人で、父の趙玉はかつて滄州で主家の呂兗一族が劉守光に殺された際、当時十四歳であった遺児呂琦を背負って逃げ、太原で姓名を変え乞食をしながら育て上げた恩義で燕・趙の義士に称賛された。趙𢎞は洛陽で進士に及第し、成人した呂琦の推薦で甲科に選ばれ、徐・兗・陳・許の四鎮の従事を経て高祖劉知遠のもとで河東掌書記となり、機知と諧謔を好んだことから世祖に厚く愛された。
北漢建国後は翰林承旨・兵部尚書を経て天会四年、中書侍郎同平章事、さらに門下侍郎兼枢密使・司徒まで進んだが、郭無為と意見が合わず外に出されて汾州、次いで嵐州の知事に左遷された。宋の太祖が晋陽に侵攻した際、別働隊に嵐州を包囲されて降伏を請い、太祖は厚く遇して衣帯・鞍馬・器幣を賜り、宣祖趙弘殷の諱を避けて「文度」の名を賜った。
以後は安国軍節度使・華州・耀州など宋の地方官を歴任し、開宝七年、六十七歳で没した。詩文と音律に長け『観光集』を著し、自ら笛を吹くと音は清らかに澄み渡り聴く者を驚嘆させたという。降伏の際、母は太原にいたが、節に殉じなかったことを世に責められた。子の昌図は宋に仕え内殿崇班に至った。
現代語訳全文
出自と後晋・後漢での仕官
- 趙𢎞は薊州漁陽の人。父の趙玉はかつて滄州に寓居し、節度判官の呂兗に身を寄せていた。劉守光が滄州を攻め破ると、呂兗の親族はことごとく殺されたが、呂兗の子・呂琦は当時十四歳で、趙玉はこれを背負って逃げ、太原に至って姓名を変え、乞食をしながら衣食を得て琦を養った。
- 琦は後唐の同光初年に藩郡の従事となった。当時、燕・趙の義士たちは、趙玉が呂氏の遺孤を守り通したことを讃え、口を揃えて称賛した。明宗の代に琦は職方員外郎・知雑となり、清泰年間には給事中・端明殿学士となった。その頃にはすでに趙玉は世を去っていた。
- 趙𢎞は洛陽に入って進士に挙げられ、琦が主司の馬裔孫に推薦して甲科に選ばれた。徐・兗・陳・許の四鎮の従事を歴任し、高祖(劉知遠)の時に河東掌書記となった。趙𢎞は機知に富み、戯れを好んだので、世祖(劉崇)はこれを厚く愛した。
北漢での高官歴任
- 世祖が皇帝を称するに及び、累進して翰林承旨・兵部尚書となった。天会四年、中書侍郎同平章事を授けられ、門下侍郎兼枢密使に転じ、司徒を加えられた。
- しばらくして郭無為と意見が合わず、外に出されて汾州の知事となり、さらに嵐州に移された。
- 宋の太祖が晋陽に侵攻し、別働隊を遣わして嵐州の地を攻略し、幾重にも包囲した。趙𢎞は窮地に陥り、降伏を請うて行営に罪を待った。太祖は命じてこれを釈放し、襲衣・玉帯・金鞍・勒馬・器幣を賜ることきわめて厚く、その属官にもそれぞれに応じて品物を賜った。
- 趙𢎞の名が宣祖(趙弘殷)の偏諱に触れるため、「文度」の名を賜った。師が引き上げると、検校太傅・安国軍節度使を授けられ、一年余りで華州に改められた(このときは宣制せず、告勅をもって宣制の例に同じくした)。再び耀州に調せられ、あわせて三鎮を歴任した。
- 宋の開宝七年に卒した。時に年六十七、すなわち英武帝の広運元年に当たる。
- 趙𢎞は詩作に巧みで、人々に多く諷誦され、『観光集』若干巻がある。また音律にも優れ、常に同州節度使の宋□(底本欠字)と酒宴を共にし、楽官に「採蓮」を吹かせて盃を送らせるなど、他の楽工の知らぬ曲を演奏させた。あるとき自ら笛を取って吹くと、その音は清らかに澄み渡り、聴く者は驚嘆し敬服した。
- 趙𢎞が降伏した際、その母は太原にあったが、世人は彼が節に殉じなかったことを罪とした。子の昌図は宋に仕え、内殿崇班・閤門祗候に至った。