郭忠恕――篆籀と画に長けた奇士
- 郭忠恕は字を恕先といい、洛陽の人。幼くして聡明で、七歳で童子科に及第した。文学に富み、とりわけ篆籀に巧みであった。ある人が龍門で鳥跡篆を得て見せたところ、忠恕は一目見ただけで、かねて習っていたかのように諳んじた。
- 乾祐の初め、湘陰公の贇が徐州に鎮したとき、辟召されて推官となった。
- 隠帝が北岡で弑され、侍中の郭威が宰相の馮道に命じて贇を迎えさせた。宋州に至ったとき、威はすでに三軍に推戴されていた。
- 忠恕は事が変わったのを知り、顔色を正して道を責めた。「令公は幾代にもわたる大臣で、誠信は天下に知られ、四方の論者は賢愚を問わずみな長者と称しております。それが一朝にして空手形を切る男に成り下がり、これまでの功をすべて捨てるとは。令公の心は安らかでいられますか」。道は答えられなかった。
- 忠恕はそこで贇に、道を殺して河東へ奔るよう勧めたが、贇はためらって決せず、ついに禍に遭った。
- 忠恕は山野に身を隠した。周の初めに周易博士として召され、宋に帰してから監察御史の符昭文と朝堂で激しく言い争い、乾州司戸に貶された。任期が満ちると官を去り、二度と仕えなかった。
- 岐・雍・陜・洛の間を気ままに放浪し、人に会えば貴賤を問わずいきなり「猫」と口にした。よい山水に行き当たれば十日も立ち去らず、あるいは穀を絶って食わず、真夏に日中で肌を晒しても汗ばまず、厳寒には氷を鑿って浴し、そばの氷が解けるほどであった。
- 絵をよくし、とりわけ家屋の木造建築を描くのに巧みであったが、王公が絹を用意して絵を求めると必ず衣を払って立ち去った。
- ある日、街路で馬を下り、人夫を茶店に呼び入れてともに茶を飲もうとした。人夫が固辞すると、忠恕は「私が日ごろ接している公卿士大夫も、みな君と同じ類の者だ。何を怪しむことがあろう」と言った。
- 太宗はかねてその名を聞いていて、特に召し出して都へ帰らせ、内侍省の竇神興の宿舎に置いた。忠恕は長く美しい鬚をたくわえていたが、突然すべて剃り落とした。神興が驚いて理由を問うと、忠恕は「ちょっと顰みに倣ってみただけだ」と答えた。神興は大いに怒って太宗に申し上げ、行いが慎みを欠くとして國子監主簿に任じ、太學の宿舎に移した。
- 忠恕はいよいよ放縦に酒を飲み、時政をほしいままに論じ、誹謗の言もかなりあった。上聞に達し、杖刑のうえ登州へ流された。齊州の臨邑に至ったとき、護送の吏に「私は逝く」と言い、地を掘って顔がちょうど入るほどの穴を作り、うつ伏せにのぞき込んで死んだ。官道の傍らに仮に葬られた。
- 数か月後、旧友がその遺体を掘り出して改葬しようとしたところ、衣と夜具だけが残っていた。識者は「これは尸解である」と言った。『佩觹集』三巻が世に行われている。
史論
- 論に言う。忠恕は大節をもって馮道を責め、義は顔色に現れ、言葉の気迫は昂っていた。仕える主に忠であったと言えよう。
- 結局は転々と荒野に隠れ、周と宋の間に沈浮し、志を神仙に託し、狂を装って世を侮った。その心の用い方もまた苦しいものであった。
- 諸書は忠恕が徐州にいた頃、同僚の記室の董裔と合わずに辞去したと載せるが、事実の記録ではない。私はその大略を録した。おおむね『五代史補』に拠るものである。
趙𢎞――父の義と自身の降伏
- 趙𢎞は薊州漁陽の人。父の玉はかつて滄州に寄寓して節度判官の吕兖に身を寄せていた。劉守光が滄州を破ると兖の親族を捕らえてことごとく殺した。兖の子の琦は十四歳であったが、玉はこれを背負って逃げ、太原に至って姓名を変え、物乞いをして衣食を得て琦を養った。
- 琦は後唐の同光の初めに藩郡の從事となった。当時、燕・趙の義士は、玉が吕氏の遺児を存えさせたとしてこぞって称えた。
- 明宗のとき琦は職方員外郎・知雜となり、清泰年間には給事中・端明殿學士となったが、玉はすでに没していた。
- 𢎞は洛陽に入って進士を志し、琦が主司の馬裔孫に推薦して甲科に及第した。徐・兖・陳・許の四鎮の從事を歴任し、髙祖のとき河東掌書記となった。
- 𢎞は機転がきき冗談が巧みで、世祖はこれを大いに愛した。世祖が帝を称すると累進して翰林承旨・兵部尚書に至り、天會四年(960年)に中書侍郎・同平章事を授かり、門下侍郎兼樞密使に転じ、司徒を加えられた。
- まもなく郭無為と対立し、汾州の知事として出され、ついで嵐州へ移された。
- 宋の太祖が晉陽を侵したとき、別動隊を遣わして嵐州の地を掠め、幾重にも包囲した。𢎞は追いつめられて降伏を請い、行營で罪を待った。太祖は許して、襲衣・玉帯・金の鞍と轡付きの馬・器幣をきわめて手厚く賜わり、その属官にもそれぞれ品を賜わった。𢎞の名が宣祖の偏諱に触れるため、文度の名を賜わった。
- 軍が還ると檢校太傅・安國軍節度使を授かり、一年余りで華州に改められた。宣制を経ずに告敕だけで、宣制と同じ扱いとされた。さらに耀州へ転じ、通算三鎮を歴任した。
- 宋の開寳七年(974年)に没し、享年六十七。英武帝の廣運元年にあたる。
- 𢎞は詩をよくし、人はしばしば誦した。『觀光集』若干巻がある。また音律に通じ、かつて同州節度使の宋(闕)と酒宴を催したとき、楽官に「採蓮」を吹かせて盞を送らせたが、いずれも他の楽人が知らぬ曲であった。さらに笛を取り寄せてみずから吹いたところ、音色は清らかに冴え、聴く者は驚き感服した。
- 𢎞が降ったとき、その母は太原にいた。世人は節に殉じられなかったことを咎めた。子の昌圖は宋に仕えて内殿崇班・閤門祗候に至った。
李惲――囲碁と酒に耽った宰相
- 李惲は字を孟深といい、汴州陽武の人。乾祐の初めに進士に及第し、嵐州に客遊していたとき世祖が即位し、州の從事に署された。知制誥・翰林學士に抜擢された。
- 睿宗父子に仕え、累進して推誠佐命保祚功臣・特進・守尚書左僕射兼中書侍郎平章事・上柱國・隴西郡開國公・食邑三千戸に至った。
- 当時、母は郷里にあり、惲はその生死を知らず、日頃から憂え悲しんで、囲碁と深酒に明け暮れ、政務は多く滞った。英武帝はこれをしばしば咎めたが、惲は意に介さなかった。
- のちに僧と碁を打っていたとき、帝は近侍に惲の前まで行かせ、碁盤を取り上げて焼かせた。惲は平然としてゆっくり参上して謝し、英武帝は切に叱責した。ところが翌日には新しい盤を作らせ、もとどおり碁を打った。
- 宋の太宗が太原を陥れると惲は降り、殿中監に任じられた。そこで初めて母の死を知り、上表して追服を求めたが許されず、廣州の知事として出た。司農卿に遷り、続いて許州・孟州の二州を知り、足の疾患を理由に解任を求め、忠武軍行軍司馬を授かった。端拱元年(988年)に没し、享年七十三。
- 惲は性が短気で闊達、名理を論ずるのを好んだ。若い頃は滑稽を好んだが、宰相となるとかなり慎重に事を運んだ。
- 初め王溥・李昉と同年に及第しており、国が滅んで再会すると旧交を語り合い、情誼はいよいよ固くなった。論者はこれを美談とした。子の存誠は宋に仕えて駕部員外郎、存信は宋の左侍禁・閤門祗候となった。
- 惲は文詞が駢麗で同輩に推された。英武帝のとき天龍寺の千佛樓が完成すると、詔によって惲が碑銘を撰し、翰林の劉守清・王延譽に命じて石に刻ませた。当時、絶賛せぬ者はなかった。
楊夢申
- 楊夢申は(闕)の人。天會年間に累進して右諫議大夫となった。
- 夢申は文章をよくし、とりわけ碑記に長じた。十七年、勅を奉じて定王・繼顒の神道碑文を撰した。文は推敲を加えずとも典雅で法度にかない、朝士の多くが称賛した。
王保衡
- 王保衡は英武帝に仕えて中書舍人となり、翰林院に直した。
- 保衡は博学で文名があり、著書の『晉陽見聞要録』若干巻が世に行われている。
王景絶
- 王景絶は太原の人。若くして燕の地に客遊した。家は代々の儒者であるから武芸で身を立てるべきではないと思い定め、南下して嵩山・洛陽に遊び、譚用之を友として文章を磨き合い、次第に文名を得た。
- 天會年間、帰郷して国境まで来たとき、睿宗が太原に拠っているのを見て嘆いた。「天下はまさに定まろうとしている。わずか一方の地をもって天下の兵に抗するとは、危うい国だ」。そこで上黨に留まり、潞州の帥が幕府に招いた。
- 景絶はこれ以後、二度と官吏として働かず、しばしば四方の書を買い求めては書写した。晩年には数千巻を集めた。
- 国が滅ぶと宋に入り、端拱年間(988-989年)に汴京で没した。
郭無為――帰順を図って誅された執政
- 郭無為は字を無不為といい、青州千乘の人である。額は角ばり口は鳥のように尖り、学を好んで見聞が広く、談論に巧みであった。かつて褐衣をまとって道士となり武当山に住んだ。
- 乾祐の初め、郭威が河中の李守貞を討ったとき、無為は軍門に赴いて謁見した。威は当世の急務を尋ねて大いに感心し、幕下に留め置こうとしたが、ある者が「公は大臣として重兵を握り外に居られる。縦横の弁士を招くのは、微を防ぎ遠きを慮る道ではありません」と言ったため、受け入れなかった。無為は衣を払って去り、太原の抱腹山に隠れた。
- 睿宗が即位すると、内樞密使の段常がその才を薦め、召されて諫議大夫となり、まもなく吏部侍郎・參議中書事に遷った。趙𢎞と並んで政を執ったが、志向が合わなかった。𢎞が汾州の知事として出され、常もまた罪を得て死ぬと、無為は左僕射・同平章事兼樞密使となり、機務は一切を委ねられた。
- 睿宗はかつて病床で無為に皇子の繼恩のことを語り、「繼恩は純粋な孝行者だが、世を済う才ではない。家事を切り盛りできまい」と言ったが、無為は黙って答えなかった。
- 少主の繼恩が立つと、無為が自分を助けなかったことを恨んで追放しようとしたが、実行できなかった。一月余りののち、侯霸榮が閣に入って少主を弑した。無為はさらに人を屋根に登らせて中へ入らせ、霸榮を殺した。それゆえ霸榮の乱は実は無為の意を受けたもので、ただちに殺して口を封じたのだと、人はみな考えた。
- 英武帝が位を継ぐと、宋の太祖は李繼勲らに出兵させ、あわせて無為に詔を賜わって安國軍節度使を約した。無為は詔を捧げ持って顔色を変え、帰順を勧めたが、国人も諸臣もみな堅守して宋に抗しようとした。
- まもなく宋の太祖はみずから陣中にあって兵を督し晉陽を攻め、長い包囲が完成した。英武帝が群臣を招いて宴を開き、契丹の使者も同席していたとき、無為は天を仰いで慟哭し、佩刀を抜いて自害しようとして左右に押しとどめられた。英武帝は自ら階を降りてその手を執り、上座に導いた。無為は「なぜ孤城をもって百万の師に抗するのか」と言った。太原の人心を動揺させようとしたのだが、太原の人の守る意志はいよいよ固くなった。
- のちに無為は策の尽きるところとなり、ひそかに宋と通じ、兵を率いて夜に包囲を襲うと称してみずから抜け出そうとしたが、曇天の雨に遭って取りやめた。後に宦官の衛徳貴がその事を暴き、英武帝は人を遣わして縊り殺し、国人に謝した。
侯霸榮――少主を弑した供奉官
- 侯霸榮は邢州龍岡の人。力が強く弓に巧みで、走れば駆ける馬にも追いついた。かつて幷州・汾州の間で盗賊をしていた。
- 睿宗は指揮使として用い、樂平を守らせた。天會の初め、部下を率いて宋に降り、宋の太祖は内殿直に補した。まもなく再び逃げ帰り、睿宗はその罪を赦してまた供奉官に署した。
- 少主が位を継ぐと、霸榮は少主の首を取って宋に献じようと謀り、無防備なのに乗じて白昼に刃を抜いて押し入り、内側から戸を閉ざした。少主は屏風を巡って逃げたが、霸榮は刃で胸を刺して弑した。
- 一説に、郭無為が実際に指図したのだという。無為はただちに兵卒を梯子で登らせて中へ入らせ、霸榮を殺した。
范超――降ろうとして誤って殺される
- 范超は家系が分からない。天會年間、内旨を奉じて孝和帝の后を殺し、英武帝の寵を得た。累進して宣徽北院使・永清軍節度使・檢校太保となった。
- 十六年、千佛樓の監修にあたり、像を鋳て容儀を整えた。帝はまたその手腕を称えた。
- 廣運のとき、宋軍が太原を包囲すると、超は囲みを破って降伏を請うたが、攻城側は超が出撃してきたものと誤り、捕らえて殺した。英武帝はそこで超の妻子を斬り、その首を城外へ投げ出した。
李筠――周の旧将、太平驛での臣礼
- 李筠は太原の人。騎射に巧みであった。初め後唐の秦王・從榮の麾下に属し、從榮の変が起こると、從榮に従って天津橋まで行き、十数人を射殺したが、やがて馬を捨てて逃げ去った。
- 清泰の初め、募に応じて内殿直となり、控鶴指揮使に遷った。
- 開運の末、契丹が晉を滅ぼすと、その将の趙延壽は筠の勇悍の名を聞いて幕下に置いた。延壽が捕らえられた後、契丹の将の耶律轄哩が二千騎を統べて鎭州に留まっていた。筠は諸将と隙を窺って撃つことを謀ったが、控鶴左廂都校の白再榮は日和見して室内に隠れ、すぐには応じなかった。筠は佩刀を抜いて幕を破り、腕を引いて再榮に出撃を迫った。殺傷は互角となり、轄哩はついに城を棄てて去った。
- 髙祖が晉陽で立つと、再榮は鎭州を挙げて帰服し、留後を授かった。筠は博州刺史となった。
- 郭威が大名に鎮すると、筠を先鋒指揮使として上表し、さらに北面緣邊巡檢とした。威が挙兵して汴に入ると、筠は郭崇威とともに従い、慕容彦超を留子陂で破って功があった。
- 威が漢の位を革めて周の太祖となり、開国の功を論じて筠を昭義軍節度使・檢校太傅・同平章事に遷した。
- 数年後、周がたびたび世祖と兵を交えたとき、筠は奇兵をもって晉陽を援けに来た契丹を撃破し、兼侍中を加えられた。周の恭帝が立つと太尉に進んだ。
李筠――挙兵と敗死
- 宋の太祖が禅譲を受けると、使者を遣わして兼中書令を加え、入朝を諭した。筠はただちに命に抗そうとしたが、左右が王朝交替の理を説いたため、やむを得ず拝礼した。
- しかし使者を招いて階に上らせ、酒宴を張り楽を奏でさせると、にわかに周の太祖の画像を取り寄せて壁に掛け、涙をとめどなく流した。賓客も僚佐も驚き慌て、宋の使者に「令公は酒に酔って常軌を失っておられる。どうか怪しまれませぬよう」と告げた。
- まもなく牙將の劉繼沖らを遣わして睿宗に臣を称し、睿宗は蠟書で宋討伐を約した。筠は表向き宋に従いながら、内心は思いを遂げて周に報いようとしていたのである。
- 当時、筠の子の守節は宋の皇城使であり、泣いて諫めたが聴かれなかった。宋の太祖はさらに守節を遣わして旨を伝えた。「帰って父に言え。私が天子でなかったときは好きにすればよかった。だが私が天子となった今、臣たることができぬのか」。筠の企ては一層急となり、ついに挙兵した。
- 從事の閭丘仲卿が策を献じた。「大梁の兵甲は精鋭で、正面から争うのは難しい。我らは孤軍で事を起こすのだから形勢はきわめて危うい。河東の援けを頼んでも結局は力になりません。西へ太行を下って懷州・孟州に直行し、虎牢を塞ぎ洛邑に拠って東に向かい天下を争うのが上策です」。
- 筠は言った。「私は周朝の宿将で、世宗とは兄弟の義があった。禁衛はみな旧知の者ばかりだ。必ず矛を逆さにして私に帰服しよう。まして儋珪の槍と撥汗の馬がある。天下に何の憂いがあろうか」。儋珪は筠の愛将で、力が強く槍の名手であった。撥汗は筠の駿馬で、日に七百里を走った。それゆえ筠は誇ったのである。
- ほどなく人を遣わして澤州刺史の張福を殺し、その城に拠った。睿宗が兵を率いて援けに来ると、筠は太平驛で臣の礼をもって謁見した。
- そのとき睿宗の兵衛は寡弱で、筠は内心深く悔いたが、事はもはや途中でやめられなかった。睿宗は筠を西平王に封じ、召して語った。筠はみずから郭氏の大恩を受けたのだから死を惜しむわけにはいかぬと述べ、周が漢と代々の仇であることに思い至らなかった。睿宗は黙り込み、これによって内心疑いを抱き、宣徽使の盧贊にその軍を監させた。筠はますます不満で心が晴れず、子の守節を残して上黨を守らせ、みずから兵を率いて南へ向かった。
- 宋の太祖は石守信らを遣わして討たせ、「筠を太行から下らせるな。急ぎ進軍してその隘路を扼せば、必ず破れる」と命じた。
- 太祖はそこで親征した。山道は石が多くて通れなかったので、太祖はまず馬上に数個の石を負い、群臣も大軍もみなこれに倣った。その日のうちに均されて大道となった。
- 守信らと合流して筠の軍を澤州の南で破り、監軍の贊を殺した。筠は走って澤州に戻り籠もったが、太祖がみずから督戦してその城を抜き、筠は火に飛び込んで死んだ。
- 続いて潞州に進軍すると守節が降った。罪を許され、襲衣・金帯・銀の鞍と轡付きの馬を賜わった。この日、宋の太祖は従官と宴し、守節も列席した。ついで單州團練使に任じられた。天會四年六月のことである。
- 筠は初めの名を榮といったが、周の世宗の諱を避けて改めた。
- 性は粗暴であったが母には篤く孝であった。怒って人を殺そうとするたび、母が屏風の後ろから筠を呼んだ。筠が駆けつけると母は「人を殺そうとしていると聞いた。助けてやれぬか。我らのために福を積むのだ」と言い、筠はただちに赦した。
- 筠には愛妾の劉氏があり、ともに死のうとしたが、筠は懐妊していることを理由に手を振って去らせた。
史論
- 論に言う。筠はもと周の臣である。それを漢の伝に繋けたのはなぜか。太平驛の一件で、筠はすでに臣の礼をもって孝和帝に仕えた。心中には□(底本欠字)とする思いがあったにせよ、頭を垂れて身を委ねた以上、劉氏の臣でないとは言えない。
- まして旧主のために身を捨て、志を他に移さなかった。まことに誰もが臣として得たいと願う者ではないか。
- そうであれば、これを漢の伝に繋けて、誰が不当と言えようか。