十国春秋卷一百八 北漢五 列傳 李惲
要約
李惲は汴州陽武の人で、字を孟深という。乾祐初年に進士となり嵐州に客遊していたところ世祖の即位とともに州の従事に登用され、まもなく知制誥・翰林学士に抜擢された。睿宗父子に歴仕して推誠佐命保祚功臣・特進守尚書左僕射兼中書侍郎平章事・上柱国・隴西郡開国公・食邑三千戸にまで累進した。郷里に残した母の安否を知らぬまま憂え悲しみ、政務そっちのけで碁と酒に耽り、僧と対局中に英武帝が近侍に命じて碁盤を取り上げて焼かせても、平然とおもむろに帝のもとへ詣でて謝るのみで、翌日には別に新しい碁盤を作らせて以前どおり打つという飄々とした人柄であった。
宋の太宗の太原陥落で降伏し殿中監に任じられ、ここで初めて長らく音信のなかった母の死を知って表を上げ喪に服すことを願い出たが許されず、広州の知事として出され、続いて司農卿に遷り許州・孟州の二州の知事を務め、足の病を理由に解任を求めて忠武軍行軍司馬を授けられ、端拱元年に七十三歳で没した。若い頃は滑稽を好み名理を談ずるのを善くしたが、宰相となってからは重厚さを事とし、かつて同年に進士登第した宋の宰相王溥・李昉と、北漢が亡びたのちに再会して旧誼を語り合い、情好をますます固くしたことが世の論者に美談とされた。子の存誠は宋に仕えて駕部員外郎、存信は左侍禁閤門祗候となり、惲の文詞は駢麗な文体で同輩から重んじられた。
文中には英武帝の代に完成した天龍寺千仏楼の落成に際し惲が撰した碑銘の全文が引かれる。国都近くに連なる山々の奇岩・霊泉・薜蘿の景勝から説き起こし、かつて北斉・後魏がこの地に国を興したことになぞらえ、坤の方角にある彌勒閣に安置された古い石像や、その東にある清らかな池での雨乞いの祭りの由来を述べる。続いて、睿宗が幼くして出閣し官府の務めに親しみ諸王とともに寺院に詣でた逸話、政変を平定して即位した経緯、そして壬申の歳に大殿の後ろに重楼五間を築かせ、賢劫の千仏になぞらえて千体の鉄仏を鋳造させた経緯を、監修に当たった范超らの功績とともに叙し、完成した楼閣の壮麗さや遼主から徽号・鴻名を加えられた慶事などを、対句を連ねた駢麗な漢文の美文で詳しく讃えている。
現代語訳全文
出自と歴仕
- 李惲、字は孟深、汴州陽武の人。乾祐初年に進士に及第し、嵐州に客遊した。ちょうど世祖が即位すると、州の従事に署せられ、知制誥・翰林学士に抜擢された。睿宗の父子(睿宗とその先代)に歴仕し、累進して推誠佐命保祚功臣・特進守尚書左僕射兼中書侍郎平章事・上柱国・隴西郡開国公・食邑三千戸に至った。
政務への向き合い方
- 時に母は郷里にあり、惲はその存亡を知らず、常々これを憂え悲しみ、碁を打つことと酒に沈むことばかりに務めた。政事は多く廃れたので、英武帝はしきりにこれを咎めたが、惲はまったく気にかけなかった。
- あるとき、僧と碁を打っていると、帝は近侍に命じて惲の前に直行させ、碁盤を取り上げて焼かせた。惲は平然として、おもむろに帝のもとへ詣でて謝った。英武帝はこれによって厳しく責めたが、翌日には別に新しい碁盤を作らせ、以前どおり碁を打った。
- 宋の太宗が太原を陥落させると惲は降伏し、殿中監に任じられた。ここで初めて母の死を知り、表を上げて母の喪に服することを求めたが許されず、広州の知事として出された。司農卿に遷り、続けて許州・孟州の二州の知事を務め、足の病を理由に解任を求め、忠武軍行軍司馬を授けられた。
- 端拱元年に卒した。年七十三であった。惲は性質が躁がしく物事に通じ、名理を談ずるのを善くした。若い頃は滑稽を好んだが、宰相となってからはたいそう重厚さを事とした。初め王溥・李昉と同年に進士に登第し、国が亡びてから再会すると旧誼を語り合い、情好はますます固くなった。論者はこれを美とした。
- 子の存誠は宋に仕えて駕部員外郎、存信は宋の左侍禁閤門祗候となった。また惲の文詞は駢麗(対句を重んじた華麗な文体)で、同輩から推重された。
天龍寺千仏楼碑銘(引用)
- 英武帝の時、天龍寺の千仏楼が完成すると、惲に碑銘を撰するよう詔があり、翰林の劉守清・王延譽に命じてその文を石に刻ませた。一時、これを嘆じないものはなかった。その辞に曰く――
- 「帝宅の西五里ばかりの所に、群山の奥深い谷が延々と巡り連なり、北は乾(北西)・坎(北)の方角から、南は申(西南西)・酉(西)の方角にまで至る。蒼い崖と切り立った壁、奇岩と霊泉があり、薜蘿(つる草)が鍾乳洞の穴を覆い隠し、夏には涼しく茂った桂の林が晴れた日差しに映え、冬には緑の澗(たに川)の流れが清らかに澄んで軽やかな音を立てて激しく流れる。蔓草は生い茂るが本来毒を持たず、洞穴は奥深く、輝く林は雲を隔てて陰影を成し、鶏や犬の声が聞こえるかと思えば、嶺を越えて木こりや薪採りの通う小径が見える。
- 気は北斗・北極に通じ、崆峒山の帯びる武勇の郷であり、地は参墟(星宿の分野)に区切られる冀州の野に、楽しみ深く思索する風俗がある。まして刑政の秩序が乱れず、覇王の器がここに存する。都邑はすなわち天下の繁栄そのものであり、士馬を養うことはすなわち域中の精鋭を養うことである。
- かつて北斉はここに国を興し、後魏もここに基を興したが、いまだ安らかに治まる神威には至らなかったとはいえ、みな帝王の位を保った。あるときは重ねた城郭での宴楽に飽き、景勝の地を選んでそれぞれ避暑の宮を営み、鑾(帝の車)の駕を憩わせたのは、なお秦の阿房宮、晋の虒祁宮、楚の章華台、漢の未央宮の如きものである。
- それらの壮大な建築は今なお所々に残っているが、年月が経つにつれ多くは改築された。おおむね、都会の豪右・富民が旧に因り新たに図って制を増し加えたことによる。ここにおいて金人(仏像)の塔廟や老子の宮観が、巌石の上に星の如く並んでいる。
- 麗しいかな、坤(南西)の方角にある一舎(三十里)ほどの地に、木々鬱蒼と茂り、奇峰がそびえ立つ。その上に平らな敷地があり、東西わずか五十歩、北は石壁に倚る。
- 彌勒閣があり、内には石像を安置して相対して立ち、その容儀は穏やかで潤いがあり、その彫刻の巧みさは後世が及ばぬほどである。かつて睿宗皇帝がさらに手を加えて飾りを施し、その功用は今なお鮮やかである。その東には池があり、水はきわめて清らかで、深く凝った碧色をたたえ、これを鑑みれば身の毛もよだつほどである。国人はその祠宇を厳かにし、その神位を並べ祀り、角・亢の星が方中(南中)するごとに、雷雨がまだ降らぬうちに雨乞いの祭りを行えば、皆が集まる。
- 嶺を馴れて西へ下ること曲がりくねって三百歩ほどで、高い寺があり、額には「天龍」と掲げられている。『易』の義を考えるに、「龍とは、潜めば用いられず、飛べば上に在る」という。天龍の名は、まことにふさわしいものである。今、英武皇帝は千載の運に応じ、九重の尊位に居られる。これはもとより舞象(十五歳前後の年頃)より学問に励み、齒胄(成人の学)に通じ、庠序(学校)で学に優れていたことによる。□(底本欠字)……咨詢(相談)に叶い、典則に符合して行動する。
- 日に対する弁は言葉に表せぬかのようでありながら、象を称する智を蘊え、果断でありながら誇らない。粛々として輝かしく、煌々として偉大であり、その量り知ることのできぬ深さは測ることができない。徳を立てることは開年(治世の初め)の右に出るものであり、家を承け文武の基を継ぐことは、道をもって艱危を済い、宗社を孝安にするのでなければ、誰がこれに与ることができようか。
- 天会年間、睿宗皇帝は道□(底本欠字)……をもって出閣し、検校司徒・帰義府都督を授けられた。時に年はなお幼く、みずから官の職務に親しみ、辞は寡なく徳は簡を務め、刑は清く、吏はあえて欺かず、府には滞る事がなかった。かつて公務の退勤の暇に、叔父・季父にあたる諸王と車を並べて轍を接し、精藍(寺院)に礼詣した。一年のうちに□(底本欠字)……花鬘(花の飾り)を供え飾る用いをして怠らず、……東序(東の建物)に□(底本欠字)……観音像一堂を安置し、その中の幡は……
- 厳かで清潔でないことなく、日ごとに新たにし、斎戒し祈祷するたびに、つとめて謹み恐れぬことなく、ひそかに真心を発した。その志すところは、鴻祚(大いなる福)を邦家に延ばし、災いの気を区宇(国土)から払い除くことにあった。心のままに愛敬してしばしも忘れず、先帝は大いにこれを嘉し、多くの者がその美を称えた。ここにおいて司徒公府より、特恩をもって検校太保を加え、右金吾衛大将軍・大内都点検を授けられた。その堅実な資質と勤めに服するさまは、内外ともに厳整であり、威を宣べ事に敬んで、行いは聖なる謀にかなった。
- 帝が位に即くに及び、太師・行太原尹を加えられ、位階・勲位・爵位・食邑はことごとく公台(三公)にふさわしいものとなった。ほどなく侍衛親軍の事を領した。いくばくもなく、にわかな政変が起こり、非常な事態に人々は震え驚いたが、上(睿宗)はひとり雄々しい決断を執り、内難を平定した。時に戊辰の年秋九月、宸極(帝位)を継いで昇り、傾き危うい情勢を立て直した。赫然(あきらかに)大いに□(底本欠字)……祐(たすけ)を終古に保ち、みずから清らかな志を誓い、常に篤く帰依した。
- 良き佳日には必ずみずから足を運び、壬申の歳十二月二十二日に至って、有司に詔して大殿の後ろの正面に重楼五間を造らせた。まことに良い鋳工を遣わして、賢劫(現在の劫、仏教用語)の拘留孫如来より始めて、これに降(従)って千体の鉄仏を鋳造し、その金色の容貌をひな型に取って、先の像と円満で違いのないようにした。このように均しく分けて龕室(仏龕)に安置し、各々上級(上段)に納めた。
- 時に宣徽北院使・永清軍節度使・検校太保の范超に詔して、監修を始めから執らせ、期限どおりに完成させた。基礎は石畳を敷き、柱礎は広く、欄干は高くそびえ、屋根の甍は飛ぶがごとく、丹(朱塗り)の彩りが互いに映えて、輝かしく巍然としている。門扉ははるか雲の彼方を見下ろし、棟木と屋根は地表からにわかに聳え立つ。金の香炉は暁に薫を注ぎ、ただ葡蔔(末利花)の香りのみが聞こえ、玉の磬は朝に鳴り響き、蓮花の漏刻(水時計)を借りるまでもない。
- 議者は言う、「世を超える果を樹て、朽ちぬ功を図ろうとするならば、必ず叡智の謀に依らねばならず、まさに終天(永遠)の禄を享くべきである。どうして、望祭(遥拝の祭)や闕宇(宮殿・寺院)を八年も祈り続けたり、瑶池に馬を駆って聘(訪問)し、いたずらに遊興の楽しみをほしいままにする者に比べられようか」と。
- 上(英武帝)が御する乙亥の歳、天贊皇帝(契丹の皇帝)は天性に篤く義に厚く、礼は彝章(常の典章)にかない、春から夏の初めにかけて、しきりに詔を飛ばして必ず備物(供物)と典冊をもって徽号・鴻名を加えようとする旨を示した。□(底本欠字)……君親の恩に……
- 迎え敬う礼を修めるうちに、夏六月二十日に至って、果たして貴近の使者が降り、玉音(勅書)を昭らかに宣べ、ついで正殿において英武皇帝に授け、あわせて龍衣・御帯・駟馬・雕鞍を頒ち賜い、別に神旗・鼓吹の殊礼異楽を賜った。衆心は悦び、羣后(諸侯)に従って慶事を称え、宝函・金簡には、舜に命じ禹に命じるがごとき文書を掲げた。朽ちぬものを御し、盈ちるを持することは、ことごとく子として臣としての敬いであり、礼の大なるものであって、帝の事業は窮まることがない。
- これより先、英武皇帝は今年、攝提(木星の紀年)の建てる月に、□(底本欠字)……騤騤(馬の勢い盛んなさま)……昇り、寒気は将に退こうとするとき、儀衛を厳整して、みずから公卿を率い、蒼虬(青龍)の車を駕り、赭黄(赤黄色)の衣は熠熠(きらきら)と輝き、雲韶(雅楽の名)が先導する。□(底本欠字)……みずから徳音を奉じ、既に成る……□(底本欠字)……初禅(初めの禅譲、あるいは初めての瞑想)の境に届き、臣は幸いにも天仗(帝の儀仗)に陪した。
- 祝うところは、龍の祐(たすけ)を冀うことであり、にわかにこの詔を承け、勝縁(すぐれた仏縁)を誌し、洪猷(大いなる謀)を紀そうと、ひそかに秘めた思いを致す。□(底本欠字)……華やかな会(法会)が催され、上(帝)は□(底本欠字)……の容(すがた)……星宿劫(仏教の時劫)の中に、あまねく青蓮の相を見る。
- その相を見て歓ぶ心には期するところがある。謹んで銘を作って曰く――
- 覚皇(仏)は次々に興り、大いなる教えは世に垂れる。位には期があり、壊と空とは相継ぐ。大いなるかな賢劫、千仏は光を重ね、六度・万行の軌躅(あと)は相望む。
- 浩劫は遥かに遠くとも、一念にしてこれを摂むべく、逢い難しと謂うなかれ、声塵は相接す。かの陶唐(尭)の土を思えば、参墟(星宿の分野)に列なり、莓莓(青々と茂る)たる沃野に、煌々たる帝居あり。天は亨会(めぐり合わせ)を啓き、神は瑞図を輸(もたら)す。
- 英武の難(艱難)を経て、後にその蘇(よみがえり)を得た。一人(天子)のなす所あり、邦域を撫寧し、民を治めて天に事える。允(まこと)に庶績を釐(おさ)む。金像・玉楼は、これ帝の力によるものであり、億万年にわたり永く皇極を奠める。