衛融
- 衛融は字を明遠、青州博興の人である。晋(後晋)の天福の初め進士に及第し、南楽主簿に調(任)せられ、斉・澶二州の従事、忠武軍掌書記を歴任した。高祖の時、太原観察支使となった。世祖が皇帝を称すると翰林学士を授けられ、契丹に詣でて冊礼を謝し、あわせて兵を請うた。
- 天会元年、中書侍郎・同平章事に遷った。(天会)四年、睿宗は盧賛を遣わして李筠の軍を監させたが、賛は筠と折り合いが悪く、融に詔して潞州に至りこれを和解させた。たまたま筠が敗れ、融は宋人に捕えられた。宋の太祖は融を責めて「お前はどうして劉鈞に兵を挙げさせ李筠の謀反を助けたのか」と言った。融は「犬が吠えるのはその主のためではないでしょうか。臣は一家四十口が劉氏の豊かな衣食を受けてきましたので、これに背くに忍びません。陛下がたとえ臣を殺さずとも、臣は陛下のために用いられることはなく、終には間道を通って河東に走るでしょう」と言った。太祖は怒って鉄撾(鉄の棒)でその首を撃たせ、血が顔を覆ったが、融は大声で「大丈夫の死は、あるいは泰山より重く、あるいは鴻毛より軽い。臣は今こそ死に場所を得た」と叫んだ。太祖は左右を顧みて「これは忠臣である」と言い、これを釈放し、良薬をもってその傷に貼らせ、襲衣・金帯・鞍勒の名馬を賜った。
- ほどなく融を放って国に帰そうとし、書を睿宗に移して融と周光遜らとを交換することを約した。光遜らはもと李筠が捕虜として献じてきた者たちである。睿宗が久しく返答しなかったので、宋はそこで融を太府卿に任じ、汴京に邸宅を賜った。乾徳の改元、郊祀に際し、融は郊禋大礼賦を献じ、司農卿に改められた。出でて陳・舒・黄の三州の知事となった。開宝六年に卒し、享年六十九。子の偁・儔、孫の斉はみな進士に及第した。