王得中
- 王得中は上党の人である。世祖の時、官は枢密直学士。詔を奉じて遼の穆宗舒嚕の即位を賀し、まもなく太原に還った。
- 乾祐七年、世祖が周軍と戦った際、王延嗣は司天監李義に世祖に「今こそ戦うべき時です」と言わせた。得中は馬前に叩頭して諫めて「南風が甚だ急であり、北軍(我が方)の利ではありません。どうしてこれが我を助けるものでしょうか」と言ったが、世祖は怒って「老措大(頑固な老書生)め、いたずらに我が軍を沮喪させるでない」と言った。まもなく軍は果たして敗れた。
- 世祖はそこで得中を遣わして遼の将楊衮を送り帰し、あわせて師を乞わせた。遼の穆宗は得中に帰って報告させ、兵を発して晋陽を救うことを許した。たまたま代州の将桑珪が防禦使鄭処謙を殺し、得中は道すがらその地を経たので、珪は得中を械(拘束)して周に送った。周の世宗は帯と馬を賜い、契丹の兵がいつ到着するかを問うた。得中は「臣は楊衮を送るよう命を受けただけで、他に知るところはありません」と言った。ある者が得中に「契丹は公に発兵を許したのに、公は事実を告げず、契丹の兵が旦夕に至れば、公は危うくならないか」と言うと、得中は嘆息して「私は劉氏の禄を食んできたが、老母が包囲の中にいる。もし事実を告げれば、周人は必ず兵を発して険を拠って拒むだろう。そうなれば家(母)も国も両方とも滅ぶ。私一人が生き残ったところで何の益があろうか。身を殺して家国を全うするに越したことはない、得るところは多いのだ」と言った。数日して、契丹は符彦卿を忻口で破った。周の世宗は得中が欺いたことを責め、これを殺した。