十国春秋卷一百七 北漢四 列傳 白從暉
白從暉
- 白従暉は吐谷渾の人である。周の大同節度使承福、遼の雲州観察使可久は皆その宗姓(同族)である。従暉は若くして勇敢で謀略に富んだ。開運の初め、晋(後晋)に仕えて冀州刺史となり、契丹の兵を衡水のほとりで破って初めて名を知られた。
- 乾祐四年、世祖が自立して天子となると、孝和帝に周の晋州を攻めるよう命じ、従暉と李存瓌を副招討使とした。しかしついに成功はなかった。しばらくして義成節度使を授けられた。潞州の役では、従暉は行軍都部署となり、前鋒都指揮の張元徽とともに団柏より軍を渡らせたが、まもなく高平の大戦で元徽がすでに敗死し、従暉もほどなくまた病で卒した。
史論
論曰:神武(世祖)父子は晋陽に号を建て強敵に抗拒し、文武の輔佐は蔚然として雲蒸のごとく盛んであった。驤の謀画、珙の奇偉(優れて非凡なさま)、華の物事を料ることの多く的中すること、光美の朝儀に習熟すること、存瓌の数朝を歴任し雍容都雅(ゆったりとして上品)であることは、皆彬彬(文質備わる)として一時の選(優れた人材)であった。また元徽の驍雄、従暉の果毅もまた名将の材があった。しかし、あるいは醉飽(酒宴)に身を殞(おと)し、あるいは敵を軽んじて生を捐(す)てたのは、惜しむべきことである。少尹(李驤)の忠言に至っては違反されて誅戮を受け、無辜(無実の罪)が横に及び良臣を自ら棄てるに至った。河東がかろうじて存続できたのは、まさに幸いであったのだ。