張元徽
- 張元徽は武安の人である。世祖が太原を鎮したとき、元徽は裨将であった。(世祖の)即位に及んで馬歩軍都指揮使に改められ、まもなく武寧節度使に遷った。世祖はかつて元徽らに「朕は高祖の事業と贇の冤(無実の罪)とを思い、義として郭公に屈するわけにはいかない。ただ公らとともに力を尽くし家国の讐を復すことを期すのみである。一方に帝を称するに至ったのは、どうしてやむを得ないことでなかろうか。顧みれば我はどんな天子であろうか、汝らはどんな節度使であろうか」と語った。
- ほどなく周の太祖が崩じ、世祖は大挙して周を伐ち、元徽を前鋒都指揮使に署し、契丹の兵とともに団柏より潞州に趣いた。周の将穆令均と太平駅で遭遇し、わざと勝てないふりをして誘い、そこで伏兵を発して令均を斬り、虜獲は数え切れなかった。
- しばらくして世祖は兵を巴公原に陣し、元徽の軍はその東に、楊衮の軍はその西にあった。元徽は千騎を率いて周の右軍を撃つと、周の将樊愛能・何徽は兵を率いて先に逃げ、右軍は潰えて甲を解いてことごとく降った。世祖の軍中は万歳を呼んだ。
- この戦役では、愛能・徽は弓を引きながら南に逃げ、周の世宗は自ら矢石を犯し、わずかに免れることができた。元徽の陣を陥れた功が最も多かった。世祖は自ら褒賞し奨慰すること加えるところがあり、さらに勝ちに乗じて進軍するよう促した。
- 元徽はもとより驍勇であり、かつしばしば勝っていたので気がますます驕り、直ちに前進して陣を略したところ、馬が倒れて周兵に殺された。元徽は国の大将であったが、この時に至って将士は皆気を奪われ、軍はついに振るわなくなった。