十国春秋卷一百一 荆南二 高保朂

治世と横暴

  • 保朂(『清異録』は保勉に作る)は字を省躬といい、文献王の第十子で、貞懿王の同母弟である。晋の天福の初め、家を起こして漢州刺史を領した。貞懿王が政を嗣ぐと内外の諸軍事を判せしめられた。周の広順元年、検校太傅を加えられ荆南節度副使に充てられた。顕徳の初め、貞懿王の請いにより検校太尉を加えられ行軍司馬に充てられ寧江軍節度使を領した。貞懿王が世を去ると、保朂は軍府の事を権知し、章を奉じてこれを聞こえさせた。宋の太祖はそのまま保朂を荆南節度使に拝した。建隆二年、弟の保寅を遣わして入貢させた。
  • 初め、貞懿王は江陵城の北で江水を決してこれを瀦(た)め、およそ七里余りとし、これを北海といった。行く人を閡(さまた)げていたので、太祖は保寅が汴より帰るときこれによって旨を諭し、決して去らせ、道路を阻むところがないようにさせた。
  • 保朂は若くして病が多く、体貌は臞瘠(やせて痩けた)していたが、頗る事を治める才があった。この時に至って淫佚無度となり、日ごとに倡伎を召して府署に集め、士卒の壮健な者を選んで恣に調謔させ、姫妾とともに簾を垂れて共に観てこれを娯楽とした。また台榭を営造することを好み、土木の工事を窮め尽くした。ある估客が嶺外より来て龍眼の枝を得たが、約四十囲もの大きさで実は千枚に及び、これを保朂に献じた。保朂は琅玕の檻子を作らせてこれを置き、名づけて海珠叢といった。その玩物はこの類が多かった。国政は治まらず、軍民は皆怨んだ。従事の孫光憲が切に諫めたが聴かなかった。

死去

  • まもなく寝疾し、梁延嗣を顧みて「兄弟の中で誰が後事を任せられるか」と言った。延嗣は「先王の子で繼冲がすでに成長しています」と言った。保朂はこれに頷き、そのまま繼冲に内外の兵馬を判せしめた。建隆三年十一月、保朂は卒した。享年三十九。宋帝は訃を聞き朝を廃すること二日、侍中を贈り、御厨使李光睿を遣わして賻祭させた。
  • 初め、保朂が保抱(幼少)のとき、文献王はひとりこれを鍾愛し、あるいは盛んに怒っていても、これを見れば必ず釈然として笑った。荆の人はこれを「万事休」と目していた。保朂が立つに及んで藩政は離れ弱まり、卒すること裁(わずか)数月であったのは、これもまた予兆であった。