十国春秋卷一百一 荆南二 貞懿王高保融

要約

貞懿王高保融は文献王の第三子で、字を徳長という。唐の長興の初め蔭により太子舎人に補せられ、晋の天福年間には検校司空として内外の諸軍を判し、荆南節度副使・峡州刺史を歴任した。文献王の薨去にともない軍府の事を権知し、後漢から検校太尉・江陵尹などを授けられた。漢の使者郭允明が節度使さながらの威儀を示し、密かに人を遣わして城池の高下を歩測させ攻取の計を疑わせて国人を動揺させたときは、允明に重く賂って穏便に済ませた。蜀から逃れてきた施州刺史田行皋については、蜀に二心を抱く者は自分にも忠を尽くさぬと述べて捕らえて蜀に送り返している。

周が興ると太祖に朝貢して中書令を兼ね渤海郡王に封ぜられ、良馬を求める周主の問いに、乗り心地が穏やかで扱いやすい馬こそ良馬だと答えた逸話が伝わる。周の淮南征伐に際しては水軍や牋を送って協力し、荆南は歴代しばしば朝貢を絶えさせていたのに対し、顕徳年間は歳ごとに欠かさず貢を修め、弟の保紳を入朝させて誠意を示した。

建隆元年、宋が周に代わると懼れていっそう頻繁に入貢したが、同年八月に疾のため四十一歳で薨じた。人柄は迂闊で緩慢とされ、政務の実権は多く弟の保朂に委ねられていた。

現代語訳全文

即位の経緯

  • 貞懿王保融(『馬令南唐書』は保庸に作る)は字を徳長といい、文献王の第三子である。位を得た経緯は知られていない。唐の長興の初め、蔭によって太子舎人に補せられ緋を賜った。晋の天福中、制して検校司空に授けられ内外の諸軍を判した。まもなく荆南節度副使に遷り、開運の末、峡州刺史を領し、たびたび加えられて検校太傅に至った。文献王が薨じると、保融は軍府の事を権知した。これは漢の乾祐改元の十一月のことである。十二月丁丑、漢は制して起復検校太尉同平章事江陵尹荆南節度荆帰峡観察使を授けた。この年、先王を江陵の龍山に葬った。漢主は翰林茶酒使郭允明を遣わして衣幣を賜い来させた。允明の車服・導従は節度使のようであった。そして密かに人をして城池の高下を歩測させ、あたかも攻取の計を為すかのようにして我が国人を動揺させた。皆恐れたので、保融は允明に重く賂ってこれを遣った。二年冬十月丙戌、漢は三叛の平定によって保融に検校太師兼侍中を加えた。三年冬、蜀の施州刺史田行皋が来奔した。保融は「彼は蜀に対して二心を抱いているのだから、どうして我に尽忠しようか」と言い、これを執えて蜀に帰した。周の広順元年春正月、太祖(郭威)が皇帝に即位し、保融は表して登極を賀し、白金千両・法錦二十疋を貢した。周は保融に中書令を兼ねさせ渤海郡王に封じた。正衙で使いに礼部尚書王易・副使刑部郎中景範に命じて冊を発せしめ、なお礼服・冠剣を賜った。

周への通好

  • 広順二年春二月庚寅、太白(金星)が天を経(すぎ)た。この年、周主は内臣李廷玉に命じて王に馬を賜い、かつ好むところはどのような馬かと問うた。王は「良馬は千万あっても、ただ一頭、乗り心地が坦穏で控馭に労を要しないものに及ぶものはなく、これはほぼ選りすぐりに近いものです。すでに蹄で噛みつくこともなく、銜枚(口輪)を借りずとも両軍が列陣するとき万騎が一つの如くにまとまります。もし選りすぐられていない馬であれば気が狡(あら)く憤りやすく、鎧を身に着けて馬と力を争わねばならず、制御する暇もなく、どうして左に旋り右に抽んでて轡を捨て兵を揮うことができましょうか」と言った。
  • 広順三年夏六月、使いを遣わして周に白龍脳香及び法錦五十疋・鹿胎袴段六錙・襜面等各百事を貢した。

顯德年間の外交

  • 顕徳元年春正月丙子朔、周は大赦して改元した。王を南平王に進封した。壬辰、周主威(郭威)は滋徳殿で殂した。丙申、晋王栄(柴栄)が嗣位した。この時、王は江陵の大堰を修め改名して北海といった。周は王に守中書令を加えた。
  • 顕徳二年(記事なし)。
  • 顕徳三年春正月、周主は詔を下して淮南を征した。王は指揮使魏璘に兵三千を率いて夏口に出させ応とし、また客将劉扶を遣わして牋を唐に奉じてその内附を勧めた。二月丁亥、周に御衣・金帯・九錬純鋼手刀・弓箭諸物を貢した。
  • 顕徳四年春二月、周主は南征した。三月丁未、周師は唐の寿州を克した。冬十二月丁丑、周師は唐の泰州を取った。
  • 顕徳五年春正月丁亥、周師は唐の海州を取った。壬辰、また唐の静海軍を陥した。丁未、また唐の楚州を克した。王は魏璘に戦艦百艘を率いさせて東下し、周の唐討伐に会して鄂州に至らせた。二月甲寅、周師は唐の雄州を抜いた。夏五月、唐主李景は周に臣を称した。周主は王が唐国に与えた牋を得て大いに喜び、絹万疋を賜った。六月、王は使いを遣わして蜀主に中朝に称藩するよう勧めたが、蜀主は前年濮州刺史胡立が帰って周に書を致したが返答がなかったことをもって応えた。冬十月、王は再び蜀主に書を遺わして中朝に称臣するよう勧めた。庚子、王は周師が蜀を伐つと聞き、水軍をもって三峡に趨くことを請い、周主は詔を下してこれを褒めた。荆南は後唐以来、数歳に一度京師に貢していたが、その中間二度絶ったことがあった。顕徳の時に至っては歳ごとに職貢を修めないことはなかった。王はまた器械金帛は皆土地の常産であって誠節を効すには不十分であるとして、その弟保紳を入朝させた。周主はますますこれを嘉した。初め、武信王が梁を鎮していたとき、兵五千を牙兵とし、衣食は皆梁より給されていた。天成・長興の間に及んで歳ごとに塩一万三千石を給されていたが、その後給されなくなった。この時に至り、周が淮南を平らげ、そこで泰州にこれを給させた。
  • 顕徳六年夏六月癸巳、周主栄は殂し、梁王宗訓が立った。王に守太保を加えた。この年、王は長子繼冲を荆南節度副使に授けることを奏した。

薨去

  • 建隆元年春正月、宋は周の禅を受けた。王はますます懼れ、一年に三度宋に入貢した。宋帝の恩礼は加えられ、王に守太傅を加えた。秋八月、王は疾によって薨じ、享年四十一。また龍山郷に葬られ、今に至るまで高氏三王の墓があるという。訃報が聞こえると、宋帝は朝を廃すること三日、儀鸞使李継超を遣わして賻物を賜い、兵部尚書李濤・兵部郎中率汀に節を持たせて太尉を贈らせた。諡して貞懿といった。王は迂闊で緩慢であり才能がなく、当時の政事は悉く弟の保朂に委ねていた。