十国春秋十國春秋卷一百一 荆南二

荆南の後半、文獻王高從誨・貞懿王高保融・侍中高保朂・侍中高繼冲の四代を記す。從誨は呉を離れて中原に復帰し、諸国に臣を称しては賜与を貪って「高頼子」と呼ばれた。保融は周・宋に篤く仕えて貢献を絶やさず、保朂は放埒で藩政を衰えさせた。繼冲は宋の湖南出兵にあたって江陵を明け渡し、五代五十七年の荆南は滅んだ。

年表(25件)
  • 呉太和元年929年父の後を継ぎ、呉を離れて唐に内附し、荆南節度使兼侍中に任じられる
  • 唐長興元年930年呉に絶交され、問罪の兵を差し向けられるが果たされずに終わる
  • 唐長興三年932年唐から渤海王の爵を賜る
  • 唐應順元年934年唐からあらためて南平王に封じられる
  • 唐清泰二年935年梁震が隠退を請うて土洲に退き、政事をすべて孫光憲に委ねる
  • 唐清泰三年936年使者を遣わして呉の徐知誥に帝位に即くよう勧める
  • 晉天福五年940年安從進とひそかに通じる一方、陶穀に戦艦を誇示して晉の歓心を買う
  • 晉天福六年941年叛いた安從進の求援を拒んで晉に告発し、襄州討伐に舟師を出す
  • 晉天福七年942年襄州が陥ちた後、郢州を属郡に求めるが晉に許されない
  • 晉天福八年943年江陵城の西南隅を掘って池とし、渚宮と迎春亭を建てる
  • 晉開運四年947年劉知遠に即位を勧めるが郢州を得られず、襄州・郢州を攻めて敗れ漢と絶つ
  • 漢乾祐元年948年北方の商旅が絶えて領内が窮乏し、漢に謝罪して職貢を再開する
  • 漢乾祐元年948年十一月、薨去。年五十八、のち文獻と諡され尚書令を贈られる
  • 漢乾祐元年948年保融が漢から檢校太尉・同平章事・江陵尹・荆南節度使を授けられる
  • 周廣順元年951年周の太祖の即位を賀し、兼中書令を加えられて渤海郡王に封じられる
  • 周顯德元年954年南平王に進封され、江陵の大堰を修築して「北海」と改名する
  • 周顯德三年956年周の淮南征伐に兵三千を出して呼応し、唐に内附を勧める
  • 周顯德五年958年戦艦百艘を出して周の唐討伐に合流し、蜀にも中朝への臣従を勧める
  • 周顯德六年959年奏請して長子の繼冲を荆南節度副使に任じさせる
  • 宋建隆元年960年宋に一年三度も入貢したのち八月に薨去。年四十一、貞懿と諡される
  • 宋建隆元年960年弟の保朂が軍府の事を代行し、宋の太祖から荆南節度使に任じられる
  • 建隆二年961年弟の高保寅を遣わして宋に入貢させる
  • 建隆三年962年十一月、保朂が卒し、年三十九。繼冲が軍府の事を代行する
  • 乾德元年963年宋軍に江陵を押さえられ、三州十七県・戸十四万三千三百を挙げて降る
  • 開寶六年973年武寧軍節度使として彭門に鎮すること十年近く、卒す。年三十一

文獻王――出自と襲位

  • 文獻王は名を從誨、字を遵聖という。武信王には九人の子があり、從誨はその長子である。
  • 明敏で権謀に富んだ。開平年間に梁に入って供奉官となり、累進して鞍轡庫使となった。休暇を賜って武信王を見舞いに帰ったところ、武信王は留めて馬步軍都指揮使・行軍司馬とし、まもなく忠義節度使・同平章事を加えた。
  • 武信王が薨じると從誨が位を継いだ。呉の睿帝は從誨を荆南節度使兼侍中とした。

呉太和元年(929年)

  • 夏四月丙午、楚の将の王環が石首で我が軍を破った。
  • 從誨は父が唐と絶交したことで、また討伐を受けることを恐れ、僚佐に「唐は近く呉は遠い。近きを捨てて遠きに臣従するのは計ではない」と言い、使者を楚に送った。楚王馬殷は唐に許しを請い、さらに唐の山南東節度使の安元信に書を送って、職貢を再開できるよう保証の奏請を求めた。
  • 從誨も押牙の劉知謙に表を奉じて内附させ、自ら「前荆南行軍司馬・歸州刺史」と称し、贖罪の銀三千両を進上した。明宗はこれを受け入れた。
  • この年の秋七月甲申、從誨を荆南節度使兼侍中に任じ、先王を楚王に追封して武信と諡した。己丑、荆南招討使を罷めた(從誨はそのまま唐の正朔を奉じた)。

唐長興元年(930年)

  • 春三月、從誨は表を奉じて呉に赴き、墳墓が中国にあり唐人に討たれることを恐れると告げた。呉の人は救援が間に合わないとして絶交した。呉は兵を遣わして罪を問うたが、果たせずに帰った。

唐長興二年(931年)

  • 春正月、唐は從誨に檢校太尉兼中書令・江陵尹を加えた。

唐長興三年(932年)

  • 春二月、唐は渤海王の爵を賜った。
  • 冬十月、銀と茶を唐に貢いで戦馬を求めた。唐の明宗は「荆南は内地であるのに、なぜ備えを設ける必要があるのか」と言い、馬二十匹を賜って王の献上品は返した。

唐天成四年(929年)

  • 冬十一月、唐主の李亶が雍和殿で殂した。
  • 十二月癸卯朔、宋王の李從厚が皇帝の位を継いだ。

唐應順元年(934年)

  • 春正月戊寅、唐は大赦して改元した。壬辰、王をあらためて南平王に封じた。
  • 夏、唐の潞王の李從珂が自立して帝となり、清泰と改元した。
  • 唐の使臣の李鏻・馬承翰が楚から到着した。李鏻が王に祝儀を求めたので、王は馬・紅い装いの払子二本・猓然の皮一枚を贈った。

唐清泰二年(935年)

  • 春正月、側近が楚王の豪奢ぶりを口にした。王は「馬王こそ大丈夫というべきだ」と言ったが、孫光憲は「馬氏は奢侈と僭越で滅びるでしょう。羨むに足りません」と述べた。王は深く肯った。
  • この年、梁震が強く隠退を請うたので、王は土洲に居室を築いてやった。梁震は鶴氅をまとって荆臺隠士と自称した。王は政事をすべて孫光憲に委ねた。

唐清泰三年(936年)

  • 夏四月、王は使者を遣わして牋を奉り、呉の臣の徐知誥に帝位に即くよう勧めた。
  • 冬十一月、契丹が石敬瑭を天子に立て、国号を晉とした。己亥、天福と改元した。
  • この年、彌勒の瑞像を萬壽寺に迎えた。

晉天福二年(937年)

  • 春正月乙卯、日食があった。
  • 冬十月、呉の徐誥が帝を称し、国号を齊とした。庚子、使者を遣わして即位を告げてきた。
  • 十一月、王は上表して齊の金陵に邸を置くことを請い、許された。
  • 十二月乙卯朔、白い虹が二条現れた。

晉天福三年(938年)

  • 春正月甲子、王は龐守規を齊に遣わして即位を賀した。
  • 三月壬子、白い虹が二条現れた。
  • 夏五月壬子、月が上將星を犯した。
  • このとき僧伽妙應塔を建てた。

晉天福四年(939年)

  • 春二月、齊主が李氏の姓に復し、国号を唐と改め、名を昪と改めた。この月、王は王崇嗣を唐に遣わして南郊の祭りを賀した。

晉天福五年(940年)

  • 春三月、晉の山南東道節度使の安從進が叛乱を謀り、王はひそかにこれと通じた。
  • 冬十一月丁丑、月食があった。
  • この年、晉の翰林學士の陶穀が王の誕生日の国信使として来聘した。王は望沙樓で陶穀を饗し、楼の下に戦艦を大々的に並べて見せ、「呉と蜀が服さぬこと久しい。武備を整え水戦を習って出師の時期を待ちたい」と言った。陶穀が帰って王の言葉を詳しく伝えると、晉主は大いに喜び、あらためて使者を遣わして甲と馬百匹を賜った。

晉天福六年(941年)

  • 夏四月、晉の安從進が反いて我に援軍を求めた。王は安從進に書を送り、表向きは拒絶した。安從進は怒って別件で王を誣告した。王は行軍司馬の王保義の進言により、その事を詳しく晉に奏上し、あわせて出兵して討つことを願い出た。
  • 冬十一月、使者を遣わして晉に金器百両、御衣の緞・羅・綾・絹百五十疋、白龍腦香二斤、九錬純鋼の金花手劍二口を貢ぎ、御馬を賜った恩に謝した。また別に冬至の祝賀として銀五百両を進上した。
  • 十二月丁亥、晉は高行周に襄州行府事を知らせ、我が兵に楚の兵と合わせて襄州を討つよう詔した。王は都指揮使の李端に舟師数千を率いさせて南津に至らせ、呼応し、あわせて兵糧で晉を助けた。

晉天福七年(942年)

  • 夏六月、晉主が保昌殿で殂し、齊王の石重貴が立った。
  • 秋八月、晉の高行周が襄州を陥とし、安從進は一族を挙げて焼身した。王は郢州を属郡とするよう求めたが、晉は許さなかった。
  • このとき王は使者を蜀に遣わし、翰林待詔の李文才に義興門の石筍とその由来を描かせるよう請うた。

晉天福八年(943年)

  • 夏四月戊申朔、日食があった。
  • このとき王は江陵城の西南隅を掘って池とし、その上に亭を建てて「渚宮」と名づけた。これより先、城の東南にもとから渚宮(楚の頃襄王の離宮)があったので、王はとくにその名にならって称したのである。また渚宮のかたわらに亭を置いて「迎春」と名づけた。

晉開運元年(944年)

  • 秋七月辛未朔、晉は大赦して改元した。
  • 晉の學士の王仁裕が来聘した。王は十人の伎女を出して琴を弾かせ楽しませた。

晉開運二年(945年)

  • 秋八月甲子朔、日食があった。
  • この年、把梓堂を建て、また木犀亭を建てた。

晉開運三年(946年)

  • 春二月壬戌朔、日食があった。
  • 冬十二月、契丹が晉主の石重貴を捕らえて帰った。

晉開運四年(947年)

  • 春正月、王は使者を遣わして契丹に入貢し、契丹は馬を賜った。また使者を遣わして道を尋ねさせ、太原の劉知遠のもとへ赴かせて即位を勧め、あわせて王が天下を得たなら郢州を属郡として賜りたいと述べた。劉知遠はうわべだけ承知した。
  • 二月辛未、北平王の劉知遠が皇帝の位に即いた。晉の国号を改めるに忍びないと言い、また開運の名を嫌って、あらためて天福十二年と称した。
  • 夏六月、国号を漢と改めたが、なお天福の年号を用い、使者を遣わして告げてきた。王は上表して即位を賀し、金花銀器一千両、異文の綺錦・法錦三百疋、筒巻の白羅二百疋、白花羅百疋、絨毛の暖座二枚、九錬純鋼の手刀一口を進上し、あらためて郢州を求めた。漢主は許さず、恩を加える使者が到着すると、王はこれを拒んで受けなかった。
  • 秋九月、王は杜重威の叛乱を聞き、水軍を出して漢の襄州を襲ったが、山南東道節度使の安審琦に敗れた。また郢州を攻めたが、州の刺史の尹實が我が軍を大破した。王はそこで漢と絶ち、唐と蜀に附いた。

漢乾祐元年(948年)――漢との復交

  • 春正月乙卯、漢は大赦して改元した。己未、漢主が名を暠と改めた。丁丑、萬歲殿で殂した。
  • 二月辛巳、周王の劉承祐が皇帝の位を継いだ。
  • 夏六月、王は漢と絶ってから北方の商旅が来ず領内が窮乏したので、使者を遣わして謝罪し職貢の再開を乞い、漢に金器二百両、銀器千両、細錦五十疋、繡錦六銖五十段、羅二百疋、龍腦香二斤を進上した。漢は詔を下して慰撫した。

漢乾祐元年(948年)(田敏との応酬)

  • この年、漢は國子祭酒の田敏を楚に遣わし、我が地を通らせた。王は田敏に中国の虚実を問い、契丹の後で兵も食糧も尽きているだろうと決めつけて嘲ろうとした。
  • 田敏は「杜重威が晉の武具をすべて契丹に降したが、契丹はそれを鎮州に置いて北へ運んだことはない。晉の兵はみな漢のものだ」と述べた。王は面白くなかった。
  • 田敏が甲本の『五経』を王に贈ると、王は謝して「私の知るところは『孝経』十八章にすぎません」と言った。田敏は「至徳と要道はそれで十分です」と言い、諸侯章を誦して「上に在りて驕らざれば、高くして危うからず。節を制し度を謹めば、満ちて溢れず」と唱えた。王は自分を風刺したと受け取り、大杯で田敏に罰杯を課した。

荆南の立場と「高頼子」

  • 荆南は地が狭く兵は弱く、呉と楚の間に介在する小国であった。呉が帝を称して以来、南漢・閩・楚はみな中原の正朔を奉じ、歳ごとの貢献の多くが荆南を通った。
  • そこで武信王および王は、しばしばその使者を留めて物品を掠め取り、諸道が書を送って責め、あるいは兵を出して討とうとすると、そのつど返して恥じる様子もなかった。
  • その後、南漢と閩も帝を称すると、王は向かう先ごとに臣を称してその賜与を貪ったので、諸国はこれを賤しみ、みな「高頼子」と呼び、また「高無賴」とも言った。俚語で、奪い取って恥じない者を「頼子」というのである。
  • 王は生来たいそう馬を好み、千金を惜しまず良馬を求めたが、ついに生涯すぐれた馬に出会えず、それを心残りとした。

文獻王の薨去と諡

  • 冬十一月、王は病臥し、子の高保融に内外兵馬の事を判させた。癸卯、王は薨じ、年五十八。
  • 翌年十二月、漢主は勅を下して言った。「故荆南節度使・南平王の高從誨には太常に諡を定めさせよ。旧例では臣下が諡を請い、故吏が行状を陳べ、考功に上げて覆奏し、しかる後に諡を議した。今、勅を下すのは新しい例である」。諡議が上って文獻と諡され、尚書令を贈られ、龍山鄉に葬られた。翰林學士の陶穀が神道碑を撰した。

貞懿王――出自と襲位

  • 貞懿王は名を保融、字を德長、文獻王の第三子である。なぜ立てられたのかは分からない。
  • 唐の長興のはじめに蔭によって太子舍人に補せられ緋を賜った。晉の天福年間に檢校司空・判内外諸軍を授けられ、まもなく荆南節度副使に移った。開運の末に峽州刺史を領し、累進して檢校太傅に至った。
  • 文獻王が薨じると保融が軍府の事を代行した。漢の乾祐と改元した年の十一月のことである。

漢乾祐元年(948年)(保融への任命と郭允明の来訪)

  • 十二月丁丑、漢は制して起復・檢校太尉・同平章事・江陵尹・荆南節度・荆歸峽觀察使を授けた。
  • この年、先王を江陵の龍山に葬った。漢主は翰林茶酒使の郭允明を遣わして衣と幣を賜った。郭允明の車服と従者は節度使並みで(人に御酒を数十□〈底本欠字〉担がせ、宴の席では大声で御酒を求めた)、ひそかに人をやって城と濠の高低を歩測させ、攻め取る計略を立てているかのように見せかけて我が国を動揺させた。国中の人がみな恐れたので、保融は郭允明に重い賄賂を贈って帰らせた。

漢乾祐二年(949年)

  • 冬十月丙戌、漢は三つの叛乱が平定されたことにより、保融に檢校太師兼侍中を加えた。

漢乾祐三年(950年)

  • 冬、蜀の施州刺史の田行臯が亡命してきた。保融は「彼は蜀に二心を抱いた。我に忠を尽くすはずがない」と言い、捕らえて送り返した。

周廣順元年(951年)

  • 春正月、周の太祖が皇帝の位に即いた。保融は上表して即位を賀し、白金一千両、法錦二十疋を貢いだ。周は保融に兼中書令を加え、渤海郡王に封じた。
  • 正衙で使者に命じ、禮部尚書の王易を正使、刑部郎中の景範を副使として冊を発し、あわせて礼服・冠・剣を賜った。

周廣順二年(952年)

  • 春二月庚寅、太白星が昼に現れた。
  • この年、周主は内臣の李廷玉に命じて王に馬を賜り、あわせてどんな馬を好むかを問わせた。王は答えた。「良馬が千万頭あっても一頭の駿馬には及ばない。もし乗り心地が平穏で制御に手を煩わせないなら、去勢した馬こそがそれに近い。蹄で蹴り噛みつくこともなく、枚を含ませる必要もない。両軍が陣を並べ万騎が一つのように動くとき、去勢していなければ気は乱れ荒れ狂い、甲冑を身につけたまま馬と力を争い、手綱を操るだけで精一杯となる。どうして左に旋り右に抜き、手綱を放して武器を振るえようか」。

周廣順三年(953年)

  • 夏六月、使者を遣わして周に白龍腦香および法錦五十疋、鹿胎の袴段六錙、襜面など各百点を貢いだ。

周顯德元年(954年)

  • 春正月丙子朔、周は大赦して改元し、王を南平王に進封した。
  • 壬辰、周主の郭威が滋德殿で殂し、丙申、晉王の柴榮が位を継いだ。
  • このとき王は江陵の大堰を修築し、「北海」と改名した。周は王に守中書令を加えた。

周顯德二年(955年)

  • 記事なし。

周顯德三年(956年)

  • 春正月、周主は詔を下して淮南を征した。王は指揮使の魏璘に兵三千を率いさせて夏口に出し呼応させ、また客将の劉扶に牋を奉じて唐に赴かせ、内附するよう勧めた。
  • 二月丁亥、周に御衣・金帯・九錬純鋼の手刀・弓矢など諸物を貢いだ。

周顯德四年(957年)

  • 春二月、周主が南征した。
  • 三月丁未、周の軍が唐の壽州を陥とした。
  • 冬十二月丁丑、周の軍が唐の泰州を取った。

周顯德五年(958年)

  • 春正月丁亥、周の軍が唐の海州を取った。壬辰、また唐の静海軍を陥とし、丁未、また唐の楚州を陥とした。王は魏璘に戦艦百艘を率いさせて東へ下らせ、周の唐討伐に合流させ、鄂州に至らせた。
  • 二月甲寅、周の軍が唐の雄州を抜いた。
  • 夏五月、唐主の李景が周に臣を称した。周主は王が唐国に送った牋を得て大いに喜び、絹一万疋を賜った。
  • 六月、王は使者を遣わして蜀主に中朝へ藩を称するよう勧めた。蜀主は、先年に濮州刺史の胡立が帰国した際に周へ書を送ったが返答がなかったと答えた。
  • 冬十月、王は再び蜀主に書を送って中朝に臣を称するよう勧めた。庚子、王は周の軍が蜀を伐つと聞き、水軍を三峡に向かわせたいと請うた。周主は詔を下して褒めた。
  • 荆南は後唐以来、数年に一度京師へ貢いだだけで、その間に二度断絶していたが、顯德の時期には貢献を欠かした年がなかった。王はさらに「器械や金帛はみな土地の常産であり、誠節を示すには足りない」と言って、弟の高保紳を入朝させた。周主はいよいよこれを嘉した。
  • はじめ武信王が梁に鎮していたとき、兵五千を牙兵とし、衣食はすべて梁が支給していた。天成・長興の間には毎年、塩一万三千石を支給したが、後に支給されなくなっていた。ここに至って周が淮南を平定すると、泰州から支給するよう命じた。

周顯德六年(959年)

  • 夏六月癸巳、周主の柴榮が殂し、梁王の柴宗訓が立った。王に守太保を加えた。
  • この年、王は奏請して長子の高繼冲を荆南節度副使に任じさせた。

宋建隆元年(960年)――貞懿王の薨去

  • 春正月、宋が周から禅譲を受けた。王はいっそう恐れ、一年に三度も宋に入貢した。宋帝の恩礼は手厚く、王に守太傅を加えた。
  • 秋八月、王は病により薨じ、年四十一。同じく龍山鄉に葬られ、今も高氏三王の墓があるという。
  • 訃報が届くと宋帝は朝を三日廃し、儀鸞使の李繼超を遣わして賻物を賜り、兵部尚書の李濤と兵部郎中の率汀に節を持たせて冊を届け、太尉を追贈した。諡は貞懿。
  • 王は迂遠で緩慢、才能がなく、当時の政事はすべて弟の高保朂に委ねられていた。

侍中保朂――出自と就任

  • 保朂は字を省躬、文獻王の第十子で、貞懿王の同母弟である。
  • 晉の天福のはじめに出仕して漢州刺史を領した。貞懿王が政を継ぐと内外諸軍事を判させ、周の廣順元年(951年)に檢校太傅を加えて荆南節度副使に充てた。顯德のはじめ、貞懿王の請いにより檢校太尉を加えて行軍司馬に充て、寧江軍節度使を領させた。
  • 貞懿王が世を去ると、保朂が軍府の事を代行し、章を奉じて報告した。宋の太祖はただちに保朂を荆南節度使に任じた。
  • 建隆二年(961年)、弟の高保寅を遣わして入貢させた。
  • はじめ貞懿王は江陵城の北で長江の水を切って溜め、七里余りに及ぶ湖として「北海」と呼んでいたが、通行の妨げとなっていた。太祖は保寅が汴から帰るのに託して、これを切り開いて道路を塞がぬようにと諭旨を伝えた。

侍中保朂――放埒と死

  • 保朂は若いころ病がちで、痩せて骨ばっていたが、政務の才はかなりあった。ところがこのころは放蕩が度を過ぎ、日ごとに倡妓を召して府署に集め、士卒のうち屈強な者を選んで思うままにからかわせ、姫妾とともに簾を垂らして眺め、娯楽とした。
  • また造営を好み、台榭に土木の粋を尽くした。嶺外から来た商人が、四十囲ほどで千個ほどの実がついた龍眼の枝を保朂に献じたところ、保朂は琅玕の檻を作らせてこれを置き、「海珠叢」と名づけた。その玩物の多くはこの類であった。
  • 国政は治まらず、軍も民もみな怨んだ。從事の孫光憲が切に諫めたが聞かなかった。
  • まもなく病臥し、梁延嗣を顧みて「兄弟のうち誰に後事を託せるか」と問うた。梁延嗣が「先王の子の高繼冲が年長です」と答えると、保朂は頷き、ただちに高繼冲に内外兵馬を判させた。
  • 建隆三年(962年)十一月、保朂は卒し、年三十九。宋帝は訃報を聞いて朝を二日廃し、侍中を贈り、御厨使の李光睿を遣わして賻祭させた。
  • はじめ保朂が抱かれていたころ、文獻王はとくに愛し、激しく怒っているときでも保朂を見れば必ず和らいで笑ったので、荆の人は「萬事休」と呼んだ。保朂が立つに及んで藩政は緩み衰え、わずか数か月で国を失ったのだから、それも前兆であった。

侍中繼冲――出自と即位

  • 繼冲は字を成和、貞懿王の長子である。
  • 周の顯德六年(959年)に蔭によって檢校司空を授けられ、荆南節度副使を領した。宋の建隆三年(962年)、保朂の病が重くなると、繼冲に軍府の事を代行させ、保朂が没すると宋は繼冲に檢校太保・江陵尹・荆南節度使を除した。

侍中繼冲――宋の偵察と湖南出兵

  • これより先、太祖は盧懐忠を使者として遣わし、「江陵の人情の去就、山川の向背を、すべて知りたい」と言った。盧懐忠は帰って報告した。「繼冲は甲兵こそ整っていますが、弓を引ける兵は三万を超えません。作物は実っても民は苛斂に苦しんでいます。南は長沙に近く、東は建康に接し、西は巴蜀に迫られ、北は朝廷を奉じており、その勢いは日々余裕がありません。取るのは容易です」。
  • 折しく湖南の張文表が叛き、周保權が宋に救援を求めた。宋の太祖は宰相の范質に「江陵は四分五裂の国だ。今、湖南へ出師するのに荆渚に道を借り、ついでにこれを平らげるのが万全の策である」と言った。
  • 乾德元年(963年)春正月、慕容延釗に軍を率いて湖南を平定させ、樞密副使の李處耘を都監とした。あわせて江陵に水軍三千人を潭州へ出すよう詔した。繼冲はただちに親校の李景威に率いさせて赴かせた。

侍中繼冲――江陵の開城

  • 二月、李處耘が襄州に至り、その将の丁德裕を遣わして道を借りる意を伝えさせた。李景威は城外での約束は信用できないと力説したが、孫光憲は叱りつけ、繼冲に言った。「宋帝の構想は雄大です。早く領土を献じたほうがよい。禍を免れるだけでなく、富貴も失いません」。
  • 繼冲は叔父の高保寅を遣わして牛と酒を荆門で軍に振る舞わせ、あわせて強弱を偵察させた。李處耘の待遇が手厚かったので、繼冲は心配はないと思った。
  • その夕べ、慕容延釗は高保寅を帳中の宴に招き、李處耘はひそかに軽騎数千を先発させた。繼冲は宋の軍が突然到着したと聞いて慌てて出迎え、江陵の北十五里で李處耘に出会った。李處耘は繼冲に会釈して慕容延釗を待つよう言い、その間に前鋒はさっさと州城に入った。
  • 繼冲が急ぎ帰ると、旌旗と甲馬が街路に並んでいた。そこで輿を井戸の上に被せて奥向きの女たちを欺いたので、輿に入った者の多くは井戸に落ちて死んだ。

侍中繼冲――降伏と宋の処遇

  • 繼冲はそのまま慕容延釗のもとへ赴いて牌と印を納め、領内の州府三(江陵府と歸州・峽州の二州)、県十七、戸十四万三千三百をすべて名簿に載せて差し出し、客将の王昭濟・蕭仁楷に表を奉じて宋に送らせた。
  • 宋の太祖は御厨使の郜岳に詔を持たせて安撫させ、衣服・玉帯・器物・幣・鞍馬を賜った。樞密承旨の王仁贍を荆南都巡檢使に任じ、繼冲には荆南節度使を従来どおり授けた。
  • また繼冲の馬步都指揮使の梁延嗣を復州防禦使、節度判官の孫光憲を黄州刺史、右都押衙の孫仲文を武勝軍節度副使、知進奏の鄭景玫を右驍衛將軍、王昭濟を左領軍衛將軍、蕭仁楷を供奉官とした。
  • 繼冲は領内の飼料・糧食・銭・帛の数を名簿にして提出し、あわせて銭五万貫・絹五千疋・布五万疋を宋に献じた。
  • 三月、宋は鞍轡庫使の翟光裔に官告と旌節を持たせて繼冲に賜り、あわせて参佐や官吏を慰問した。また貞懿王の兄弟や父の代の一族に官を差をつけて授けた。さらに王崇範を節度判官、高若拙を觀察判官、梁守彬を江陵少尹、韋仲宣を掌書記、胡允脩を節度推官とし、州県の官はすべて旧のままとし、別に領内の符と印を賜った。

侍中繼冲――入朝と晩年

  • 夏五月、高保紳らが入朝し、それぞれ京城の邸宅一区を賜った。
  • 六月、宋は王仁贍に軍府の事を兼知させた。
  • 折しくこの年、太祖が南郊の祭りを行うので、繼冲は上書して陪祀を願い出た。九月、文をととのえて三廟に告げ、将吏と家族五百余人を率いて京師に朝した。十月、闕下に至り、金銀の器・錦帛・宝飾の弓剣・繡の旗幟・象牙・玉の鞍勒、および郊祀のための銀一万両を献じた。太祖の賜与はきわめて手厚かった。
  • 郊祀が終わると、繼冲に徐州大都督府長史・武寧軍節度使・徐宿觀察使を授けた。繼冲は彭門に鎮すること十年近く、政務を僚佐に委ねたが、管内はよく治まった。
  • 開寶六年(973年)に卒し、年三十一。訃報が届くと太祖は朝を二日廃し、侍中を贈り、中使を遣わして喪を護らせ、葬儀の費用は官が支給した。

高氏の滅亡と讖

  • 梁の開平元年(907年)に武信王が荆州に拠り、まもなく歸州・峽州を得てから、四世五帥を伝え、宋の乾德改元(963年)に国が除かれるまで、通算五十七年であった。
  • はじめ乾祐年間、貞懿王が工人に命じて池を掘らせたとき、長さ一尺余りの石の匣を得た。錠が固く閉じられていたので、急いで左右を退けて開くと、金の篆書で六字あり、「此を去りて龍に遇わば即ち歇む」とあった。王はその事を秘した。ここに至って高氏の国は果たして建隆の末に尽きた。
  • また荆南では磁器を用いるとき、みな高い足のものを作り、官も民も競って用いて「高足椀」と呼んだ。宋の軍が城に臨むと一族を挙げて東へ遷ったので、これも「高足」の讖の的中である。

史論

  • 真人が出て四海が一つになるのは、理勢の必然である。天水(趙氏)が興って群雄がしだいに削られたのだから、虢を伐ち虞を滅ぼすような策略がなかったとしても、高氏がこの地を守り続けられたであろうか。孫光憲が機を見て取ったのは、国を売って富貴を求める者とは違うのである、とする。