武信王夫人張氏――出自と霊夢の伝説
- 張氏は武信王(高季興)の愛姫で、文獻王(高從誨)の生母にあたる。
- 武信王が梁の配下にあった時期、出陣のたびに必ず夫人を伴っていた。ある夜、敗軍のさなか深い谷に迷い込んだ。
- そのとき夫人は文獻王を身ごもっており、体が思うように動かず起き上がれなかった。追手が迫るのを恐れた王は、夫人が寝入るのを待ち、大剣を谷の両岸に突き立てた。岸を崩して夫人を圧し、生きて捕らわれる恥を免れさせようとしたのである。
- ところが夫人ははっと目を覚まして叫んだ。「今しがた夢で泰山が崩れて我が身を押し潰そうとしたが、金の甲冑を着て戈を執る者がこれを防いでくれた」。
- 王はそこで夫人を連れて脱出した。ほどなく文獻王が生まれ、夫人は富貴のうちに天寿を全うした。
武信王の子――從翊・從詵・從讓・從謙
- 從翊は武信王の子。合州刺史を務め、宋に帰服して右衛將軍に遷った。
- 從詵は武信王の第(闕)子で、文獻王の弟。繼冲の代に牙將となり、宋に降って右衙率府率に改められた。
- 從讓は武信王の第(闕)子。宋に入って左清道率府率を授かった。
- 從謙は武信王の第(闕)子。宋に降って左司禦率府率に抜擢された。
- 武信王の子は九人あったが、文獻王以下で名の知れるのはこの四人だけで、残りは伝わらない。
武信王の甥――從嗣・從義
- 從嗣は武信王の甥。剛勇で力があり、敵陣深くへ馬を駆って突入するのを常としていた。戦功を重ねて雲猛指揮使に至った。
- 天成三年(928年)、楚の武穆王(馬殷)が許徳勲を派遣して侵攻させ、その子の希範を監軍とした。楚軍が沙頭に陣を敷くと、從嗣は勇に頼んで単騎で楚の陣に赴き、希範に一騎打ちで勝敗を決するよう挑んだが、楚将の廖匡齊に討たれた。武信王は恐れて楚と和議を結んだ。
- 從義も武信王の甥で、貞懿王からは叔父の世代にあたる。顯徳年間(954-960年)に反乱を企てたが、一味の高知訓が密告した。貞懿王は松滋へ移すよう命じ、のちに殺させた。結局その素行の悪さゆえに死んだのである。
文獻王の子――保勲・保正ほか
- 保勲は文獻王の第一子、保正は第二子で、いずれも貞懿王の兄である。
- 文獻王には十五人の子があったが、今日名の分かるのは保勲・保正・貞懿王・保紳・保寅・保緒・保朂・保節・保遜・保衡・保膺の十一人にとどまる。
- 保紳は文獻王の第(闕)子。周の顯徳年間、貞懿王が世宗と誼を通じたさい、器械や金帛を贈るだけでは忠節を示すに足りないとして、保紳を入朝させて帰順の意を伝えさせた。世宗は大いに喜び、泰州の塩を荆南の牙兵に給する詔を下した。保紳は江陵少尹を歴任し、宋に帰して衛尉卿に抜擢された。
- 保寅は字を齊巽といい、文獻王の第(闕)子。晉の天福七年(942年)に蔭により太子舍人を授かり緋衣を賜わり、累進して檢校司空を加えられた。貞懿王のとき奏請により節院使に任じられた。
- 宋が興ると、保朂が荆南の節鎮を襲ったのを受けて保寅は汴京へ参覲を命じられた。太祖は便殿に召して手厚くねぎらい、掌書記を授けて帰らせた。保寅は保朂に「真の天子が世に出た。天下は一つにまとまろうとしている。兄君はまず諸国に先んじて土地を差し出し朝廷に帰すべきで、他人に富貴の手柄を取らせてはならない」と説いたが、保朂は聴かなかった。
- 宋将の慕容延釗らが武陵征討に向かい荆口を通過したとき、保寅は牛と酒を捧げて軍をねぎらった。太祖はその功を賞し、駅伝で召し出して將作監・内作坊使に任じ、邸宅一区を賜わった。まもなく宿州の知事となる。
- 乾徳四年(966年)、母の喪に服したが起復して少府監に転じた。開寳五年(972年)には懐州の知事となり、司農卿・衛尉卿を歴任した。
- 懐州はもと河陽に隷属しており、当時の帥は趙普であった。保寅とはかねて確執があり、事あるごとに抑えつけられた。保寅は不満に堪えず、支郡の制度の廃止を上疏して請い、宋の太宗はこれに従い、その言をきわめて正しいとした。
- さらに西川諸州都巡檢使となり、光禄卿に改められ、同州・汝州の知事を歴任、光化軍で没した。享年六十八。訃報が届くと朝廷は銭十万を賻り、一日朝儀を停めた。
- 保寅が懐州にいた頃、蘇易簡と王欽若はともに幼くして学に就いたばかりであり、同州では錢若水が從事であり、光化軍では張士遜がその地の人であった。保寅はいずれも引き立て、遠大な器と評した。世人はその人物を見抜く眼を高く評価した。子の輔政・輔之・輔堯・輔國はそろって進士に及第した。
- 保緒は文獻王の第(闕)子。繼冲のとき左衙都將を務め、宋に入って鴻臚少卿に抜擢された。
- 保節は文獻王の第(闕)子。生まれつき聡明で、右衙都將となり、功臣の王保義の娘を娶った。領土を献じた後、宋から司農少卿に任じられた。
- 保遜は文獻王の子で、繼冲に仕えて牙將となった。宋に入り、太祖は左監門衛將軍に任じた。
- 保衡は文獻王の第(闕)子。累進して巴州刺史となり、繼冲が領土を献じると宋は歸州刺史に改めた。
- 保膺も文獻王の子。峽州の事を知ることから身を起こし、宋に入って本州の刺史に署された。
貞懿王の子・繼充と武信王の五女
- 繼充は貞懿王の子。貞懿王には二子があり、長子が繼冲、次子が繼充である。繼充は歸州刺史に至った。
- また高繼申という者があり、宋初に大理卿となった。南平の一族の者かと思われるが、系譜が明らかでないためひとまず省いておく。
- 武信王の五人の娘は名が伝わらない。言い伝えでは五人とも幼くして道を好み、髪を剃って尼となり、それぞれ別の寺に住した。佛華寺・菩提寺・莊嚴寺・石佛寺・法輪寺の五寺である。
王保義――幕僚としての諫言
- 王保義は江陵の人。武信王が行軍司馬に任じ、司空薰・梁震とともに賓客として多くの助言を行った。
- 文獻王のとき、襄州の安從進が晉に叛いて荆南に援助を求めた。王は表向き拒みながら内々に通じていた。從進が実際に出兵を乞うてくると、王は大小の勢力差から敵し得ないと見て、表向き大義を掲げて叱責し、禍福の理を諭した。從進は悟らず、かえって王に叛意ありと誣告した。
- 保義は、事情を晉主に申し開きして兵を挙げ晉を助けるよう強く勧め、これによって晉主の疑いを解いた。識者はその処置を是とした。
- 累進して武泰軍留後となり、平江軍節度使に改められた。子の貞範・惠範・延範には伝がある。
司空薰――入朝を勧めた一言
- 司空薰は先祖を臨淮の人とし、唐で知制誥を務めた司空圖の一族の子である。
- 武信王が荆南に鎮したとき、薰は梁震・王保義らとともに幕府に居り、事あるごとに主君の非を正した。
- 梁が滅び唐の莊宗が洛陽に入って藩鎮を慰撫する詔を下すと、薰は武信王に上京参朝して唐主の心を繋ぎとめるよう強く勧めた。梁震は不可と切諫したが、王はついに薰の言に従い、危うく帰れなくなるところであった。
- しかし唐が江陵を捨て置いて先に蜀を滅ぼしたのも、この薰の一言の力によるものであった。
- 薰のその後は史書に見えず、最期は詳らかでない。
倪可福――荆南の名将
- 倪可福は(本貫を欠く)人である。唐の天祐三年(906年)、武信王が荆南留後を代行していたとき、可福は駕前指揮使であった。
- 朗州の雷彦恭がしばしば荆南を侵したため、梁王の朱全忠は可福に官兵五千を率いて守らせた。可福は方略を立てて彦恭を力戦して防ぎ、朗州の兵は次第に退いた。
- さらに寸金堤を築いて水を堰き止め、蜀に備えて功があった。
- 武信王はその勇を愛し、麾下に属させて親校とし、さらに娘を可福の子に嫁がせ、互いに心を通わせた。
- 可福は敵の鋒を挫き陣を破り、向かうところ敵を打ち破った。李洪が江陵に侵攻したときも兵を率いて撃破し、首功と評された。まもなく都指揮使に遷った。
- 龍徳年間(921-923年)、江陵の城壁が崩れ、可福は兵一万を用いて外郭を修築したが期日どおりに終わらなかった。武信王は工程の遅れを責めて杖百を加えた。可福は帰って娘に言った。「舅殿に伝えてくれ。私は衆に威を示して事を運ぼうとしただけで、辱めるつもりではないのだ」。そして白金百鋌を贈った。
- 可福は功名を全うして生涯を終え、江陵の東三十里に田を賜わった。子孫がそこに集住し、その地を諸倪岡と呼んだ。
鮑唐
- 鮑唐はもと梁の復州知州で、呉の将の李簡に捕らえられた。のちに武信王のもとへ帰した。
- 武信王は倪可福と同じく麾下に属させ、可福と並び称される名将となった。
梁震――改名の由来と出仕の経緯
- 梁震は卭州依政の人。初めの名は靄といった。
- 唐の郎中の劉象が僖宗に従って蜀に入っていたとき、震は自作の詩を携えて訪ねた。象は「君の才思は鋭く妙で、必ず大器となろう。ただ改名しなければ少し障りがあるかもしれぬ。靄という字は雨の下に謁と書く。雨の日に人に謁を通じてもすぐには会ってもらえぬものだ。震の字に改められよ。震は辰に従い、辰は龍である。龍が雨に遇えば必ず変化する」と言った。そこで今の名に改めた。
- ほどなく進士に及第し、京師に寄寓した。
- 梁の開平初年、蜀へ帰る途中で江陵を通ったところ、武信王がその才識を喜んで引き止め、判官として奏請しようとした。震は唐の臣であることを自負し、強藩の属吏となるのを恥じて逃げ去ろうとしたが、それが災いを招くのを恐れてこう言った。「震はもとより栄達を望みません。明公が震を愚か者とせず、どうしても謀議に参与させたいと仰るなら、白衣のまま酒宴に侍るだけで結構です」。
- 王は内心これを重んじ、司空薰・王保義とともに賓客としたが、震ひとりは辟召に応じず「前進士」と称した。王もしばしば「先輩」と呼んだ。
梁震――入朝と対蜀の情勢を諫める
- 唐の莊宗が梁を滅ぼすと、薰らはこぞって王に上京参朝を勧めた。震は断固として押しとどめ、こう説いた。「唐には天下併呑の志があり、兵を厳しくして険を守っていてもなお自保できまいと恐れるほどです。まして数千里を行って参覲などなさるべきではありません。しかも大王は梁の旧将です。かの者が仇敵として遇さぬとどうして分かりましょう。捕虜にされるだけです」。
- 王は従わず身をもって唐に朝したが、結局は関所を斬り破ってようやく脱出した。帰って震に「君の言を用いなかったばかりに、危うく虎口を免れぬところであった」と言った。
- 唐の軍が蜀を滅ぼしたとき、王は食事中に箸を落として嘆いた。「老夫の過ちであった」。震は「唐主は蜀を得ていよいよ驕っております。滅亡は近い。かえって我らの福となりましょう」と答えた。果たして莊宗は鄴都の禍に斃れ、以来ますます親任された。
- 明宗のとき、唐は房知温に軍を率いて侵入させた。武信王はその兵が少ないのを見て城を開いて全滅させようとしたが、震は諫めた。「朝廷は礼楽征伐の出るところで、兵は少なくとも勢いは甚だ大きい。加えて四方の諸侯はみな呑み込むことを志しております。もし大王が不幸にして勝ってしまえば、中朝は四方に兵を徴発し、誰もが順に従うと称して大王の土地を取ろうとするでしょう。大王のためには、主帥に書を送り牛と酒を献じ、そのうえで上表して自ら罪を認めるのが上策で、それでどうにか保てましょう」。
梁震――隠退と晩年
- ちょうどその頃、武信王は病に臥して起てなくなり、文獻王が跡を継いだ。文獻王はことに震を重用し、兄に対する礼をもって遇した。震は常に王を「郎君」と呼んだ。
- ある日、王は震に語った。「私は平生の奉養が過ぎたと自ら思う。今後は一切の玩好を捨て、経書史書を楽しみとし、刑を省き賦を軽くして領内を安んじたい。それが私の願いだ」。
- 震は王がその任に堪えると見てとり、こう言った。「先王は私を布衣の交わりとして遇し、嗣王を私に託されました。今さいわい先業を失わずにおります。私は老いました。もう人に仕えはいたしません」。そして固く辞して監利へ退隠した。
- 王は震のために土洲の上に住居を築いた。震は鶴氅をまとって仙人のように逍遥し、みずから荆臺隠士と称した。
- 府に参上するときは黄牛にまたがって政庁まで行くのを常とした。王もしばしばその家を訪れ、酒を酌み交わして労い、平生を語り合った。四季の賜与も手厚く、こうして天寿を全うした。文集一巻が世に行われている。
- 以前、薛少尹という人相見の名手がいた。震と同輩の進士である董與・杜無隠が薛に尋ねたところ、「梁秀才は今度の挙で必ず及第するが、登第の後は一つの官も得ぬだろう」と言った。のちに果たしてそのとおりとなった。
- 震に続いて政を輔けたのが孫光憲である。
孫光憲――出自と武信王への諫言
- 孫光憲は字を孟文といい、貴平の人。家は代々農を業としたが、光憲だけは書を読み学を好んだ。
- 唐のとき陵州判官となって名声があった。天成初年、乱を避けて江陵に移った。
- 武信王が荆南の地を領し四方の士を招いていたため、梁震の推薦で掌書記となった。
- 王が大々的に戦艦を造り楚と争おうとしたとき、光憲は諫めた。「荆南は乱離の後、公のおかげでようやく士民が息をつき生気を取り戻したところです。ここでまた楚と交悪すれば、いずれ他国が我らの疲弊に乗じましょう。憂うべきことです」。王はそこで取りやめた。
孫光憲――文獻王への諫言と幕府での歩み
- 文獻王が立ち、梁震が退隠を乞うたため、政事はすべて光憲に委ねられた。
- 王は日頃から馬氏(楚)の豪奢を羨み、僚佐に「馬王こそ大丈夫と言うべきだ」と語った。光憲は「天子と諸侯とでは礼に等級の差があります。あの乳臭い若造はいたずらに驕り僭上して一時の快を取っているだけで、危亡は目前です。羨むに足りましょうか」と述べた。王ははっと悟り「公の言うとおりだ」と言い、長く悔いて謝した。
- 光憲は南平の三代に仕えて幕中にあり、累進して荆南節度副使・朝議郎・檢校祕書少監・試御史中丞となり、紫金魚袋を賜わった。
孫光憲――帰順の主導
- 繼冲のとき、宋の使者の慕容延釗らが湖南平定のため荆南を通過することとなり、兵は城外を通ると約した。大将の李景威は繼冲に兵を厳しくして備えるよう勧めたが、光憲は叱って言った。「お前は峽江の一民に過ぎず、成敗を知る者ではない。中国は周の世宗の時からすでに天下統一の志を持っていた。まして聖宋が天命を受け真主が世に出たのだ。王師は容易に当たれるものではない」。
- そして繼冲に斥候を撤し、府庫を封じて待ち受けさせ、三州の地をすべて献上させた。宋の太祖はその功を賞し、光憲に黄州刺史を授け、賜与を格別に厚くした。郡でも治績を称えられ、乾徳末年に没した。
孫光憲――博識と著述
- 光憲は物に博く古を稽えた。かつて唐の元和年間、裴宙が荆州に鎮したさい、地を掘って一つの石を得た。その規模は江陵城の制をそっくり模していた。他所へ移させると長雨が止まず、もとの場所に戻すと空が晴れた。
- ある日、文獻王がその地を通って光憲に問うと、光憲は答えた。「昔、禹が治水して岷から荆に至り、泉源の穴を定めました。万世の後に氾濫があってはならぬと慮り、石の屋でこれを鎮めたのです」。王は大いに感嘆し、いよいよ重んじた。
- 性として経籍を好み、蔵書は数千巻に及んだ。自ら書写し、たゆまず校讐して老いても止めなかった。みずから葆光子と号した。
- 著書に『荆臺集』『橘齋集』『玩筆傭集』『鞏湖編玩』『北夢瑣言』『蠶書』など若干巻がある。
- また『續通厯』を撰したが、記事に事実と違うところが多く、太平興國初年(976年)に詔によって毀たれた。
- 光憲はもとより文学を自負し、荆南にあって鬱々として志を得なかった。常々史家の著述を慕い、諸侯の幕府に身を置いてその才を伸ばせぬことを深く恨み、知友に「獲麟の筆が、かえって倚馬の用に使われようとは」と言っていた。
- 光憲はまた小詞をよくし、蜀人の編んだ『花間集』はその作を六十余篇も採録している。
史論
- 論に言う。南平は僕隷の身から起こりながら、よく身を屈して賢者に下ることができた。梁震は謀略をもって進み、孫光憲は文章をもって顕れた。その結果、荆の地を保ち、始めも終わりもよく、わずか一隅ながら五主にわたって続いた。これもまた士の力を得たからにほかならない。