十国春秋十國春秋卷一百 荆南一
荆南(南平)の建国者、武信王高季興(もとの名は季昌、字は貽孫、?–928年)。陝州峽石の人で、汴州の富人李讓の家僮から朱全忠に見出され、荆南節度留後に任じられた。江陵一城のみの荒廃した地を復興し、城を築き戦艦を整えて自立を図った。梁・後唐・呉・蜀・楚のはざまで和戦を使い分け、四方から攻められる小国を保った。
年表(25件)
- 唐昭宗
- 天復二年902年鳳翔攻めで梁王に進撃を献策し、馬景の計で岐軍を破って名を知られる
- 天復三年903年宋州團練使から潁州防禦使に移り、高氏の姓に復す
- 天祐三年906年臆病とされた賀瓌に代わって荆南節度觀察留後に任じられる
- 梁開平元年907年荆南節度使となり、江陵一城のみの荒廃した地を招撫して民を生業に復させる
- 梁開平元年907年江陵を攻めた雷彦恭と楚の兵を、公安に屯して糧道を断ち破る
- 梁開平二年908年漢口に屯して楚の朝貢路を断つが、沙頭で撃たれて和を請う
- 梁開平二年908年梁から同中書門下平章事を加えられる
- 梁開平四年910年侵入した楚の将を油口で破り、五千級を斬る
- 梁乾化二年912年江陵の外城を築いて自立の備えを固め、孔勍と仲違いして貢賦を絶つ
- 梁乾化三年913年梁から渤海王に封じられ、戦艦五百艘を造って呉・蜀と通じる
- 梁乾化四年914年夔・萬・忠・涪の奪回を図って蜀を攻めるが、張武に大敗する
- 梁貞明三年917年孔勍と修好して貢献を再開し、百三十里の堤を築いて「高氏堤」と呼ばれる
- 梁貞明五年919年楚の侵入に呉の救援を得て退け、江漢樓と仲宣樓を築く
- 梁龍德三年923年梁が滅ぶと梁震の諫めを退けて洛陽に入朝し、名を季興と改める
- 梁龍德三年923年郭崇韜の諫言で帰国を許され、唐主に呉でなく蜀を伐つよう勧める
- 梁龍德三年923年追討の詔が届く前に鳳林關を斬り破って江陵に帰着する
- 唐同光二年924年唐から兼尚書令を加えられ、南平王に進封される
- 唐同光三年925年蜀伐の詔を受けて峡を上るが張武に敗れ、蜀は唐の軍に滅ぼされる
- 唐同光四年926年夔・忠・萬・歸・峽の五州を属郡とするよう唐に上表し、許される
- 唐天成二年927年韓珙殺害の詰問に無礼に答え、官爵を削られて劉訓の四万に攻められる
- 唐天成二年927年塁を固めて呉の援を得、疫病と兵糧不足に苦しんだ唐軍は撤退する
- 唐天成二年927年西方鄴に峡中で破られ、夔・忠・萬の三州を取り返される
- 呉乾貞二年928年楚の水軍に劉郎洑で敗れ、史光憲を返して和を求める
- 呉乾貞二年928年荆・歸・峽の三州をもって呉に藩を称し、秦王に封じられる
- 呉乾貞二年928年十二月、薨去。年七十一、武信と諡され江陵城西の龍山鄉に葬られる
(荆南は、歐陽脩の『五代史』では「南平」、張唐英の『補九國志』では「北楚」に作るが、ここは『十國紀年』および『宋史』に従う。)
出自と生い立ち
- 武信王は姓を高、名を季興、字を貽孫といい、陝州峽石の人。もとの名は季昌といったが、後唐の獻祖の諱を避けて今の名に改めた。季昌は自ら東魏の司徒・高昻の後裔だと言った。
- 若くして武を好み胆力があり、孔循・董璋とともに汴州の富人・李讓の家僮であった。朱全忠が宣武を鎮めていたとき、李讓は財を納めて寵を得て養子となり、姓名を朱友讓と改めた。
- 季昌は朱友讓の縁で朱全忠に謁見でき、全忠はその才を非凡とし、友讓に子として養わせた。そこで朱氏を冒し、制勝軍使に補せられ、毅勇指揮使に移った。
唐昭宗天復二年(902年)
- 汴の兵が鳳翔を攻めたが、李茂貞は塁を固めて出なかった。梁王朱全忠が軍を収めて河中へ帰ろうと議したところ、季興ひとりが進み出て言った。「天下の豪傑がこの一挙を窺ってすでに一年になります。今、岐の人はすでに疲弊し、陥落は目前です。大王が懸念しておられるのは、壁を閉ざしてわが軍を疲れさせることでしょうが、それこそ誘い出す手立てになります」。
- 梁王はその言葉を壮とし、季昌に勇敢な兵を募らせたところ、騎士の馬景を得た。季昌が計略を授けて梁王に引見させると、馬景は「この行きに生還の道理はありません。どうか後嗣を登録してください」と言った。梁王は憐れんで止めたが、馬景が強く請うたので実行させた。
- 馬景は数騎で城門に馳せて叩き、「汴の兵は東へ向かい、前鋒はもう去った」と告げた。岐の人はそれを信じて門を開き、汴軍を追撃に出た。汴軍は馬景の後に随って進み、九千余人を殺した。馬景は戦死した。
- のちに岐と汴が和睦すると、昭宗は馬景に官を追贈し、忠壯と諡した。季昌はこれによって名を知られた。
唐昭宗天復三年(903年)
- 宋州團練使に任じられ、青州を破るのに従い、潁州防禦使に移り、高氏の姓に復した。
荆南留後となる(天祐三年・906年)
- 唐の末、襄州の趙匡凝が荆南で雷彦恭を襲い破り、弟の趙匡明を留後とするよう上表した。汴の兵が襄州を攻めると、趙匡凝は呉に奔り、趙匡明は蜀に奔り、雷彦恭は朗州からまた荆南を侵した。
- 当時、留後の賀瓌は門を閉ざして守るだけだったので、梁王は賀瓌をひどく臆病だとして、季昌を荆南節度觀察留後に任じて代えた。天祐三年(906年)十月のことである。
梁開平元年(907年)
- 夏四月、梁の太祖が皇帝の位に即いた。五月、季昌を荆南節度使に任じた。
- 荆南はもと八州を統べていたが、僖宗・昭宗以来しばしば諸道に蚕食され、季昌が着いたときには江陵一城のみであった。兵火の後で町は荒れ果てていたが、季昌が招き集めて撫育したので、民はみな生業に復した。
- この月、季昌は瑞祥の橘数十顆を梁に進上した。
- 六月、武貞節度使の雷彦恭が楚の兵と合わせて江陵を攻めた。季昌は兵を率いて公安に屯し、その糧道を断った。雷彦恭は敗れ、楚の兵も逃げた。
- 秋九月、雷彦恭がまた涔陽・公安を攻めたが、撃退した。丙申、梁は季昌に雷彦恭を討つよう詔した。
- 冬十月、牙將の倪可福を遣わし、楚の将の秦彦暉と合わせて朗州を攻めさせた。
梁開平二年(908年)
- 夏四月、淮南の将の李厚が侵入したが、季昌は馬頭でこれを破った。
- 秋九月、兵を漢口に屯させて楚の朝貢の路を断った。楚は許德勲に命じて沙頭で我が軍を撃たせ、季昌は恐れて和を請うた。
- この年、梁は季昌に同中書門下平章事を加えた。
梁開平三年(909年)
- 秋八月、梁の叛将の李洪が江陵を侵したが、倪可福が撃ち破った。梁はさらに馬步都指揮使の陳暉に詔して我が兵と合わせて李洪を討たせた。
梁開平四年(910年)
- 夏六月、楚の将が侵入したが、油口で撃ち破り、五千級を斬り、白田まで追撃して帰還した。
梁乾化二年(912年)
- 前年に梁は乾化と改元した。この年、季昌はひそかに荆南に拠る志を抱き、城と濠を整え楼櫓を設け、奏請して江陵の外城を築き、数十丈を広げた。さらに雄楚樓と望江樓を建てて敵を防ぐ備えとした。
- 畚と鍬を執る者は十数万人に及び、将校も賓客も土を担って助けた。郭外五十里の墓が多く掘り返され、甎を取って城を築いた。竣工の後、しばしば鬼の泣く声が聞こえ、燐火が見えたという。
- このとき郢城の北で土木工事の課程を検査したので、土地の人はその山を「稽功山」と名づけた。
- 折しく梁の太祖が没した。季昌は梁が日ごとに衰えるのを見、倪可福らを将帥に、梁震・司空薰・王保義らを賓客に得たので、兵を頼んで自立を固める謀を立てた。
- 兵をもって歸州・峽州を攻めたが蜀の将の王宗壽に敗れた。また兵を出して梁を助けて晉を撃つと称し、その勢いで襄州を侵したが、節度使の孔勍にまた敗れた。これ以来、孔勍と仲違いし、数年にわたって貢賦を絶った。
- この年、呉の陳璋が江陵を侵したので、倪可福を遣わして防がせた。
梁乾化三年(913年)
- 春正月、陳璋が軍を返した。我が兵は楚の軍と合わせて迎え撃とうとしたが、陳璋は舟二百艘を並べて一列とし、夜、江口で出会ったので追いつけなかった。
- 秋八月乙亥、梁主の朱鍠が季昌を渤海王に封じ、袞冕と剣珮を賜った。
- そこで戦艦五百艘を造り器械を修繕して攻守の具とし、亡命者を招き集め、呉・蜀の二国と通じたので、中朝はしだいに制しきれなくなった。
梁乾化四年(914年)
- 春正月、王は夔・萬・忠・涪の四州がもと荆南に属していたことを理由に兵を挙げて蜀を攻めた。夔州刺史の王成先が迎え撃つと、王は火船を放って蜀の浮橋を焼いた。蜀の招討副使の張武が鉄の綱を張って阻んだので、船は進めなかった。我が兵の焼死・溺死する者はきわめて多かった。
- 折しく飛石が王の戦艦の艫に当たり、王は逃げ帰った。我が軍は大敗し、捕らえられ斬られた者は五千級に及んだ。
梁貞明元年(915年)
- 冬十一月乙丑、梁が改元した。この年、梁主は名を瑱と改めた。
梁貞明二年(916年)
- 十一月、嶺南の王定保が来聘した。
梁貞明三年(917年)
- 夏四月、王は梁の山南東道節度使の孔勍と修好し、ふたたび貢献を通じた。
- この年、王は安遠鎮の北の禄麻山から南は沱步淵まで、延々百三十里にわたる堤を築いて襄漢の水を防いだ。住民はこれに頼り、「高氏堤」と名づけられた。
梁貞明四年(918年)
- 記事なし。
梁貞明五年(919年)
- 夏五月、楚の人が侵入したので、王は呉に救援を求めた。呉は鎮南節度使の劉信に命じ、洪・吉・撫・信の歩兵を率いて瀏陽から潭州に向かわせ、武昌節度使の李簡に水軍を率いて復州を攻めさせた。劉信が潭州の東境に至ると楚の兵は退き、李簡は復州に入って知州の鮑唐を捕らえた。
- この年、内城の東門楼を改修して「江漢樓」と名づけ、また荆州城の東南隅に仲宣樓を築いた。
梁貞明六年(920年)
- 記事なし。
梁龍德元年(921年)
- 夏五月丙戌朔、梁が改元した。
- 六月乙卯朔、日食があった。
- 冬十二月、都指揮使の倪可福を遣わして江陵の外郭の修築を督させた。王は城を巡視して工程の遅れを咎め、倪可福を杖打った。
- この年、僧の齊己を僧正とし、月俸を給し、龍興寺の禪院で礼遇した。
梁龍德二年(922年)
- 記事なし。
梁龍德三年(923年)――後唐への入朝
- 夏四月己巳、晉王が皇帝の位に即き、国号を大唐、改元して同光とした。
- 冬十月戊寅、梁が滅び、唐は詔を下して慰撫した。司空薰らはみな王に新主のもとへ入覲するよう勧めたが、梁震は切に諫めて不可とし、懐王(楚の懐王)の禍が今日再び起こることを恐れた。王は「私はもう決めた。多言は無用だ」と言い、二人の子を残して江陵を守らせ、騎士三百人を護衛として洛陽に朝した。このとき名を季興と改めた。
- 十一月己未、唐は王に守中書令を加えた。このとき王は都に至り、唐王の待遇は手厚かったが、側近の伶官が飽くことなく金品を求めたので、王は内心たいそう不快であった。
梁龍德三年(923年)(郭崇韜の諫めと蜀伐の献策)
- 唐主は王を留めようとしたが、樞密使の郭崇韜が諫めた。「唐は梁を滅ぼしたばかりで、天下を得て大信を人に示そうとしているところです。今、四方の諸侯が相次いで入貢していますが、子弟や将吏を遣わすにすぎません。高季興ひとりが自ら身をもって職を述べ、諸侯の先駆けとなったのです。恩礼を加えて後続を促すべきなのに、逆に繋ぎ止めては天下に狭量を示し、四方が内に向かう意を絶ってしまいます。なりません」。唐主はそこで厚く礼遇して帰らせた。
- 唐主はかつて王に問うた。「私はすでに梁を滅ぼした。今、地の険を頼んで服さぬのは呉と蜀だけである。私は蜀に事を起こそうと思うが、蜀の地は険阻でとりわけ難しい。江南は荆南と一水を隔てるだけだ。私はまずそちらを取ろうと思うが、どうか」。
- 王は答えた。「蜀は地が豊かで民も富んでおり、これを得れば大きな利益を立てられます。江南は国が貧しく地は狭く民も少なく、得ても益がありません。蜀を伐つのが得策です。臣は本道の兵をもって先に進みましょう」。唐主は大いに喜び、手で王の背を撫でた。王はそこで工人にその手跡を衣に刺繡させ、誉れとした。
梁龍德三年(923年)(襄州脱出と帰還)
- 王は出発すると道を倍にして進み、許州に至って左右に言った。「この行きには二つの失策があった。来朝したのが一つ、私を放って去らせたのが一つだ」。
- 十日ほど経って唐主はひどく後悔し、急ぎ詔を下して襄州節度使の劉訓に機を見て図るよう命じた。王が襄州を過ぎて館に入ったとき、胸騒ぎがして従者を顧み、「梁先輩の言が的中した。留まって生きるより、去って死ぬほうがよい」と言った。そこで輜重を棄て、部曲数百人とともに南へ走り、鳳林關に至ったときはすでに日が傾いていたが、関を斬り破って出た。
- 王が疾駆したのち詔書が夜に届いたが、劉訓はすでに遠く追いつけないと見て取りやめた。
- 十二月丁酉、王は洛京から帰着し、梁震の手を握って悔いて謝し、「君の言葉を用いなかったばかりに、危うく虎口を免れぬところであった」と言った。そして、この行きは入朝も放還も双方に失策であったと述べ、さらに「主上は百戦して河南を取り、功臣に向かって自ら書き写した『春秋』を誇り、また『私は指先で天下を得た』と言った。その自慢はこれほどで、しかも遊猟に耽って政務は多く廃れている。私はもう心配いらない」と語った。
- これによって城を修繕し粟を積み、梁の旧兵を招き入れて攻守の備えとした。
- この年、天皇寺を改修した。
唐同光二年(924年)
- 春三月丙午、唐は王に兼尚書令を加え、南平王に進封した。王は梁震に「これは私が蜀と連衡するのを恐れてのことだろう」と言った。
- このとき王は愚亭を通り、威武王および愚翁の像を亭上に描かせた。この亭は「高氏亭」ともいう。愚翁とは高駢の従弟の高驤である。
唐同光三年(925年)
- 秋九月、唐は王を西川東南面行營招討使として蜀を伐たせ、あわせて夔・忠・萬・歸・峽の五州を取って巡属とするよう詔した。
- 王はかねて三峡を取ろうとしていたが、蜀の峽路招討使・張武の威名を恐れて進めずにいた。ここに至って唐の兵の勢いに乗じ、子の行軍司馬・高從誨に軍府の事を代行させた。
- 冬十月、水軍を率いて峡を上り施州を取った。蜀の将の張武が鉄の鎖で江路を断ったので、王は勇士に舟を駆って断ち切らせたが、折しく風が起こって舟が鎖に引っかかり、張武に敗れて王は逃げ帰った。夔・忠・萬などの州はそのまま魏王李繼岌のもとに赴いて降った。
- 十一月、唐の軍が蜀を滅ぼした。王はちょうど食事中で、蜀の滅亡を聞くやたちまち匙と箸を落とし、「これは老夫の過ちだ。太阿を逆さに持って人に柄を授けてしまった。どうしたものか」と言った。梁震は「憂えるには及びません。唐主は蜀を得ていよいよ驕るでしょう。それが我らの福とならぬとも限りません」と言った。
唐同光四年(926年)
- 春二月、王は夔・忠などの州および雲安監を本道に属させるよう上表し、唐主は許した。詔がまだ下らないうちのことで、当時、門下侍郎・同門下中書平章事の豆盧革と韋説が実際に内で後押ししていた。
- 夏四月、梁震が前陵州判官の孫光憲を王に推薦し、王は孫光憲に掌書記を命じた。当時、王は楚を攻めようとして戦艦を整えていたが、孫光憲は「荆南の士民はようやく生気を取り戻したところです。楚と事を構えるべきではありません」と述べた。王はその言を是として取りやめた。
- この月、唐主が弑された。丙午、李嗣源が皇帝の位に即き、甲寅に天成と改元した。
- 六月甲寅、王は夔・忠・萬・歸・峽の五州を属郡とするよう唐に上表した。その大略はこうである。「昨冬、先朝の詔命によって峡内の属郡を攻めました。まもなく施州の官吏は臣が峡を上ると知って真っ先に帰服し、夔・忠などの州も朝夕のうちに収復できる見込みでした。ところが郭崇韜が勝手に文書をもって臣に帰還を約させ、まさに申し立てようとしたところで政変に遭いました」。
- 唐の大臣の多くは、王が自ら諸州を取ると請いながら兵を出して功なきのだから、諸州を与えるべきではないと言った。唐主は王の意に背きがたく、やむを得ず許した。
唐天成二年(927年)――唐との断交と籠城
- 春二月、王は夔・忠などの州を管轄すると、さらに唐に刺史を任命しないよう請い、自分の子弟をこれに充てようとした。唐主は許さなかった。
- 当時、夔州刺史の潘炕が官を罷めると、王は兵を突入させ戍兵を殺して州城を占拠した。唐が奉聖指揮使の西方鄴を刺史に任じたが、王は拒んで入れず、さらに兵を遣わして唐の涪州を襲ったが陥とせなかった。
- はじめ魏王李繼岌が押牙の韓珙に蜀の珍宝・金帛四十万を送らせ、江を下らせたことがあった。王は峡口で韓珙ら十余人を殺し、その貨財をすべて奪っていた。ここに至って唐が詰問すると、王は「韓珙らは舟で峡を下り、幾千里もの険阻を越えたのです。転覆や溺死の理由を知りたければ、水神を取り調べるのが筋でしょう」と答えた。
- 唐主は激怒し、壬寅に制して王の官爵を削り、山南東道節度使の劉訓を南面招討使・知荆南行府事、忠武節度使の夏魯奇を副招討使として、歩騎四万で江陵を侵させた。また東川節度使の董璋を東面招討使、新任の夔州刺史の西方鄴を副として蜀の兵を率いて峡を下らせ、あわせて湖南の軍と合流して三面から進攻させた。ただし董璋はついに兵を出さなかった。
唐天成二年(927年)(劉訓の撤退と呉への帰属)
- 三月、劉訓の兵が江陵に至り、楚は都指揮使の許德勲を遣わして水軍を岳州に屯させた。王は塁を固めて戦わず、呉に援軍を乞い、呉の人が水軍を率いて救援に来た。
- 折しく江陵は低湿で長雨が続き、将士の多くが疫病にかかり、劉訓も病臥した。
- 夏四月、唐主は樞密使の孔循を遣わして攻戦の適否を審らかにさせた。五月、孔循が江陵に至って百方手を尽くしたが陥とせず、人を城に入れて王を説かせたが、王の言葉は無礼であった。
- 丙戌、唐は使者を遣わして湖南の行營に夏衣一万襲を賜った。丁卯、また使者を遣わして楚王馬殷に鞍馬と玉帯を賜り、行營への糧食輸送を督促したが、ついに得られなかった。庚午、唐は劉訓に兵を退くよう詔した。
- この月、楚の貢使の史光憲が唐から帰る途中、唐主が楚王馬殷に賜った駿馬十頭・美女二人を伴って江陵を通ったので、王は史光憲を捕らえてこれを奪い、鎮を挙げて呉に附こうと請うた。呉の臣の徐温は言った。「国を治める者は実効に務めて虚名を捨てるべきです。高氏は唐に仕えて久しく、しかも洛陽は荆南に近い。唐の人が襲うのは容易ですが、我らが水軍で流れを遡って救うのはきわめて難しい。臣として仕えながら救えぬのでは、心に恥じるところがないでしょうか」。そこで貢物だけを受け、我が臣称は辞退した。
唐天成二年(927年)(三州の喪失と豆盧革らの死)
- 六月、西方鄴が峡中で我が軍を破り、夔・忠・萬の三州を取り返した。唐は西川の兵に夔州を防備するよう詔し、孟知祥は左肅邊指揮使の毛重威を遣わして戍らせた。
- 秋七月、唐は夔州を昇格して寧江軍とし、西方鄴を節度使とした。
- 癸酉、唐は我に夔・忠などの州を与えた罪を遡って問い、宰相の豆盧革・韋説に死を賜った。
- 八月己卯朔、日食があった。
- 冬十月壬午、月が五諸侯を犯した。癸未、地震があった。
- この年、内城を築いて守りを固め、「子城」と名づけた。内城の東門の上に楼を建てて「江漢樓」といい、當陽縣に荆門軍を置いた。
呉乾貞二年(928年)――劉郎洑の敗戦
- 春三月、楚は六軍使の袁銓、副使の王環、監軍の馬希瞻を遣わして水軍を率いて侵入させた。王は楚の軍と劉郎洑で戦った。これより先、馬希瞻は戦艦を水港に隠しており、ここに至って戦艦を出して横撃したので、その勢いは食い止められず、我が軍は敗れ、捕虜と斬首は千を数えた。
- 楚の人が進んで江陵に迫ったので、王は史光憲を返して和を求めた。
- この戦役で楚王は王環が荆南を取りきらなかったことを咎めた。王環は「江陵は中朝と呉・蜀の間にあり、四方から攻められる地です。存続させて防壁とするのがよいのです」と答え、楚王はこれを是とした。
- この月、孟知祥が夔州の守備兵を召還するよう請うたが、唐主は許さなかった。その将の毛重威は衆を率いて鬨の声を上げ、逃げ帰った。
呉乾貞二年(928年)(呉への臣従と王の薨去)
- 夏四月、呉の将の苗璘・王彦章が我が兵と合わせて岳州を攻めたが、楚に捕らえられた。
- 六月辛巳、王は荆・歸・峽の三州をもってあらためて呉に藩を称した(呉の正朔を奉じた)。王子の高從誨は切に諫めたが聞き入れられなかった。呉は王を秦王に封じた。
- 唐は楚に出兵して罪を問わせた。楚王は許德勲を遣わして大挙侵入させ、その子の馬希範を監軍使として沙頭に駐屯させた。王の甥の雲猛指揮使・高從嗣が戦死した。王が再び和を求めたので、許德勲は兵を退いた。
- 九月辛巳、金星と火星が軫宿で合した。白田で楚の兵を破り、楚の岳州刺史・李廷規を捕らえて呉に送った。
- 己亥、唐は武寧節度使の房知溫を荆南行營招討使・知荆南行府事とし、使者を分けて諸道の兵を発し襄陽に集めて侵入させた。
- 冬十二月壬寅朔、熒惑が房宿を犯し、金星と木星が斗宿で相犯した。乙卯、月食があった。
- 王が病臥し、子の高從誨に軍府の事を代行させた。丙辰、王は薨じた。年七十一。武信と諡され、江陵城の西の龍山鄉に葬られた。翰林學士の陶穀が神道碑を撰した。
逸話と人となり
- はじめ王が梁の太祖に従って出征したとき、軍を率いて朝に出発し、宿場に着いたのはまだ夜が明ける前であった。ある老婆が燭を手に迎え、たいそう恭しく礼を尽くした。王が怪しむと、老婆は「たった今、金甲の神が戸を押し開けて『王者が来る、早く起きよ』と呼ぶ夢を見ました。将軍がその人ではありませんか」と言った。王は大いに喜んで去った。ついにその言葉のとおりになった。
- 王は武人でありながら、身を折って賓客をよく遇し、遊士や僧侶が来ればみな心を傾けて交わりを結んだ。詩僧の貫休・齊己はいずれも招かれた人々である。
- 貫休は成汭の怒りに触れて黔中に流されたが、のちにまた江陵に遊び、王は厚遇して龍興寺に住まわせた。あるとき宿を求めた者が時政の乱れを語ったので、貫休は「酷吏の辭」を作って風刺した。その辞は、霰と雨が降り風が斧のように吼える夜、ある老人が我が宿に投じ、嘆息して「あまりに苛酷だ、どうしたものか」と独りごちる、脂を掠め肉をえぐるようにして、呉姫が一曲歌えば無造作に紅の絹が裂かれ、韓娥が一曲歌えば鮮やかな錦の段が部屋を照らす、しかし一曲二曲の歌が千人万人を哭かせたことを知っているか、哭くばかりか頭を白くし一族を飢えさせる、だから祥風は来ず和風も戻らない、蝗よ賊よ、東西南北に満ちる――という趣旨である。
- 王はこれを聞いて、貫休を遠ざけはしたものの、さほど罪には問わなかった。
史論
- 武信王の失策で、洛京への入覲と唐に蜀伐を勧めた二事に及ぶものはない。莊宗の猜疑と残忍をもってすれば、どうして荆南を惜しむはずがあろう。それなのに疑いをすっかり捨てて赴き、たまたま虎口を免れたにすぎず、まことに危ういことであった。
- 荆と蜀が唇歯の関係にあることは、智者を待つまでもなく明らかであるのに、けしかけて出兵させ、鼓を鳴らして進ませた。糠を舐め終われば米に及ぶのは当然の理である。もし高氏の家門の難が起こらなかったら、江陵に安寧の地があったであろうか。
- とはいえ、わずかな荆州の地は四方から攻められる要地で、成汭も趙氏も相次いで踵を返す間もなく滅んだ。武信王が一方をもって諸国と拮抗し、あるいは和し、あるいは戦い、中原を掌の上で弄んだのは、縦横の術を深く究めていたからであろう、とする。