十国春秋十國春秋卷九十九 閩十

僧智廣

  • 智廣は俗姓を陳という。日月の下を歩くと、いつも十二の影が身に従った。潭に浴すると水はきまって温かくなったが、ある日は温かくならず、山中から鞭打つ音が聞こえ、水を温めなかったことを咎めているようであった。それ以来、智廣は潭に浴さなくなった。
  • 太祖が閩に入り、「十世まで予知できるか」と問うた。智廣は「馬に騎って来て、馬に騎って去る」と答えた。識者はこう解した。太祖と司空は光啓の丙午の年(886年)に閩を得、天德帝が唐に帰した翌年の丙午の年に王繼勲・王繼成がはじめて閩の地を離れた、と。
  • また「功の下に田、刀が交わり連なり、井の底に坐す」とも言った。のちに留從效が泉州に拠ったのは、みなこの言葉のとおりであった。
  • 光啓二年(886年)に没し、年八十。世に龍樹の化身とされた。乾寧年間に正覺禪師と諡された。

僧文炬――予言の的中

  • 文炬は字を子薫、また一字を涅槃といい、福州の黄氏の子。唐末の人である。生まれたとき火の中に蓮が開いたという。長じて縣の獄卒となったが、たびたび職務を放り出して禪院に講義を聴きに行き、役所も止められなかった。
  • のちに口にすることが予言となり、証文のように的中した。
  • 太祖が閩に入ったとき、文炬は莆田に身を隠していた。邑中でいつも「私が世を去って六十年後、無辺身の菩薩が来てこの国を治めるだろう」と言い、偈を唱えた。その偈は「小月走、爍爍たり、千落および万落、処々に鳳は穴を離れ、家々に葵藿を種う」というものであった。また邑の人に「私の住む地は干戈に動かされない」と語った。
  • 光啓二年(886年)に没した。

僧文炬――偈の解釈と行跡

  • 後人はその言葉をこう解いた。「小月走」は趙の字、「爍爍」は火徳の王、「鳳、穴を離る」は藩鎮が散ること、「葵藿を種う」は人が耕すこと、「無辺身」は広大の意である、と。宋の太祖が即位したのは建隆の庚申の年(960年)で、文炬が光啓の戊午の年に示寂してから六十二年にあたる。五代の時期、莆田は兵禍に及ばず、留從效・陳洪進が前後して宋に帰順したので、「干戈に動かされない」と言ったのだ、と。
  • これより先、文炬が西院の法堂に竹杖を振って入ったところ、五百人ほどの僧が流行病にかかっていた。文炬が杖で順に点じていくと、みな点じられるままに起き上がった。
  • 太祖はたいそう礼遇し、泉州に崇福院を建てて住まわせ、慧日禪師と号した。

僧義存――出家と雪峰の由来

  • 義存は泉州南安の人、姓は曽氏。家は代々仏典を奉じた。義存は襁褓のころから鐘や梵唄の声を聞くと顔つきを改めた。
  • 十二歳のとき父に従って莆田の玉磵寺に遊び、慶玄律師を見るなり拝して「わが師である」と言い、そのまま留まった。十七歳で剃髪し、禪僧の宏照に謁したところ、宏照は撫でて器量を認めた。のちに幽州の寳刹寺に赴いて具足戒を受けた。
  • 咸通年間に閩に帰り、象骨山に登って院を開いた。乾符年間に僖宗から眞覺大師の号を賜った。
  • 太祖が閩に入り、義存に「象骨山の何が優れているのか」と問うた。義存は「山頂には暑い季節でもなお雪が残っています」と答えた。太祖は「では雪峯と名づけよう」と言い、雪峯の名が生まれた。

僧義存――太祖との問答

  • 太祖はかつて義存と僧備を招き、達磨が伝えた秘密の心印について問うた。義存は「見性しなければなりません」と答えた。太祖が「何を見性というのか」と問うと、「自らの本性を見ることです」と答えた。太祖が「形はあるのか」と問うと、「自らの本性を見るとき、見るべき物は何もありません」と答えた。
  • 太祖はまた僧備に問うた。「この一つの真心はもともと生滅がない。ならばこの一身はどこから生じたのか」。義存が「父母の妄縁によって生じ、そのまま命を伝えて身に輪廻があるのです」と答えた。
  • このとき義存らと太祖の問答を、内尚書三人が帳を隔てて後ろで記録した。
  • 太祖はまた柑と橘を一枝ずつ封じ、使者に「同じ色なのになぜ名が違うのか」と問わせた。義存は元の函のまま返上した。その玄妙な機知はみなこの類で、人は測りかねた。

僧義存――門下と最期

  • 閩に住むこと四十余年、門下は常に千五百人あり、「雪峯和尚」と称された。
  • のちに太祖は府の東西の甲第に迎えた。開平二年(908年)三月に病を得、太祖が医者を遣わすと、「私は病ではない」と答えてついに薬を服さなかった。夏五月二日に没し、年八十七。太祖は養子の刑部尚書・王延稟に命じて祭を陳べ、斎を設けさせた。
  • 同じころ僧の亞存が崇安に住み、当時名があり、諫議大夫の翁承贊と親しかった。

上藍和尚――予言と王潮の救済

  • 上藍和尚は名を失した。若くして洪州の上藍院に住み、術数を精究したので、豫章の人はみな「上藍」と呼んだ。
  • 上藍は唐末に讖を作って「石榴の花が発き、石榴が開く」と言った。これは晉と漢の姓を暗に伏せたもので、石榴を二度言ったのは、その享祚が二代を過ぎないことを示したものである。
  • 当時、鍾傳が洪州節度使でこれを重んじた。太祖と司空が洪州を通過しようとしたとき、鍾傳はひそかに二人を図る意があった。上藍は鍾傳を迎えて「老僧が見るに、王潮は福建と縁がある。もし王潮を殺せば、公の福は去るだろう」と言った。鍾傳はこれによって手厚く送り出した。

上藍和尚――「羊」と「銭」の予言

  • 太祖が閩王に封じられたころ、呉王の楊行密がしきりに東南を併呑しようとしていた。太祖は人を遣わして金帛を上藍に贈り、「送供」と称して国の吉凶を問うた。上藍は十字で「羊を怕れず、銭が腹に入る」と答えた。
  • 太祖は「羊とは楊、腹とは福だ。福州の患いは楊行密ではなく錢氏にあるということか」と嘆じた。数十年後、福州は果たして両浙のものとなった。
  • 上藍の病が重くなったとき、鍾傳が後事を尋ねた。上藍は偈を作って「ただ来年の二、三月を見よ。柳の条が鐘を打つ槌になろう」と言い、筆を投げて逝った。翌年、淮南の兵が洪州を陥とし、人はようやく「鐘を打つ」の意味を悟った。

僧備――出家と悟り

  • 僧備は閩の謝氏の子。幼いころ釣りを好み、小舟を南臺江に浮かべて漁師たちと親しんだ。咸通のはじめ、三十歳のときに突然舟を棄てて髪を落とした。
  • 義存と禪の友となり、義存はその苦行を嘉して「頭陀」と呼んだ。
  • 僧備がかつて袋を担いで嶺外に出たとき、ある日足を傷つけて血を流し、突然悟りを開いた。そこで嶺を出るのをやめ、雪峯に身を寄せて教えを問うた。義存が「なぜ広く諸方を巡らないのか」と問うと、僧備は「達磨は西土から来ず、二祖は西天へ行きませんでした」と答えた。義存は深く肯って「僧備は再来の人だ」と嘆じた。

僧備――元沙での教化と三蔵との対決

  • 僧備ははじめ普應院に住み、のちに福州の元沙に移った。太祖および監軍の韋某は時おり訪ねて師の礼で待遇し、学徒は八百余人に及んだ。
  • 当時、西天の国から声明三蔵が来た。太祖が僧備に真偽を験させると、僧備は鉄の火箸で銅の炉を打って「これは何の音か」と問うた。三蔵が「銅と鉄の音です」と答えると、僧備は「大王よ、外国人に欺かれてはなりません」と言った。三蔵は答えられなかった。
  • 開平二年(908年)に没した。太祖はそのために塔を建て、宗一禪師と号した。

僧慧球

  • 慧球は泉州莆田の人。僧備の首座を務めた。かつて僧備に「第一の月とは何ですか」と問うたところ、僧備は「お前のその月を何に使うのか」と答え、慧球は大悟した。
  • 開平二年(908年)、僧備の病が危篤になると、太祖は王子を遣わして見舞わせ、あわせて後継の説法者をひそかに示すよう請うた。僧備は「球子が得ている」と答え、太祖はこれを黙って記憶した。
  • 開堂の日、官僚と僧侶が法筵に大挙して集まった。太祖が突然「誰が球上座か」と問い、衆が指し示すと、太祖はそのまま昇座を請い、元沙の席を継がせた。

僧道熙

  • 道熙は出身地を欠く。はじめ潭州の保福禪師とともに王氏の甥の王延彬に書を献じた。当時、王延彬は太尉を加えられ泉州刺史であった。
  • 王延彬が「漳南和尚は近ごろ人のために説法しているか」と問うと、道熙は「人のためにしていると言えば和尚に失礼になり、していないと言えば太尉に失礼になります」と答えた。
  • 王延彬がしばらくして「驢が来たか、馬が来たか」と問うと、道熙は「驢と馬は道を同じくしません」と答えた。その機知はこのようであった。

僧義收

  • 義收は若くして剃髪して僧となり、道行があり、閩の萬歳寺に住んだ。
  • 貞明三年(917年)、閩は春から五月まで雨が降らなかった。義收は膏を指に塗って焼いたが雨は降らなかったので、大通りに薪を積み、七日を期して焼身すると約した。期日に炬を挙げると天が雨を降らせ、誰もが神業とした。
  • のちに洪州に遊び、帰ろうとしたとき人々がこぞって引き止めた。そこで左腕を切り落として与え、「私が去った後で雨が降らなければ、これを出して祈れば必ず験がある」と言った。果たしてそのとおりになった。

夢筆和尚

  • 夢筆和尚は太祖の時に建州の夢筆山に住み、それにちなんで名づけられた。
  • 太祖が召して「筆を持ってきたか」と問うと、「稽山の繡管でもなく、月中の兎の毫にも及びません」と答えた。また「法とは何か」と問うと、「それは夢筆の家風ではありません」と答えた。

僧神晏――出家と鼓山

  • 神晏は汴州の人、姓は李氏。幼くして葷を食べず、鐘と梵唄を聞くのを喜んだ。十二歳のとき、住まいの屋根から白い気が数条立ち上ったので、神晏が壁に詩を題すると気は消えた。
  • 数年後、重い病にかかったが、神人が薬を一丸与える夢を見てたちまち癒えた。翌年、また梵僧が「出家の時が来た」と告げる夢を見て、白鹿山の規禪師のもとで剃髪した。
  • 太祖はその名を聞き、鼓山禪院を建てて住まわせ、財を傾けて施し、しばしば法の要諦を尋ねた。興聖國師の号を加えられた。

僧神晏――塼の讖と喝水巖

  • これより先、唐の會昌年間に仏を廃し僧を淘汰したとき、村民が鼓山の靈源洞のかたわらで三丈余りの井戸を掘り、「僧晏興法」の四字を刻んだ古い塼を得て州に献じた。神晏がここに住んで大いに法を興したことで、その塼の文がはじめて的中した。
  • 山にはまた喝水巖がある。伝えるところでは、水が石壁を穿って昼夜轟音を立て、禪誦を大いに妨げた。神晏がその騒がしさを厭って一喝して水を転じさせたところ、水は東へ流れ、西の澗はそのまま涸れたという。その霊異は述べ尽くせない。

僧知琀

  • 知琀は泗州の人、俗姓は王氏。若くして髪を落とし、観音に篤く仕え、吉凶を予知できた。のちに泉州の開元寺に住んだ。
  • 王氏の甥の王延彬が泉州刺史であったとき、「寺に近ごろどんな吉兆があるか」と問うた。知琀は「寺の西の地が数十尺盛り上がってから一、二年になりますが、何を意味するか分かりません」と答えた。一か月も経たぬうちに太祖が来て、そこに七層の木塔を建てたので、王延彬は感嘆した。
  • はじめ知琀は痞の病にかかり、観音像を塑して堂に祈り、日に一万遍その名を誦えた。ある夜、人が丸薬を飲ませる夢を見て、覚めると床の寝具の間に落ちた瓦があり、痞の病はたちまち消えていた。

僧元衲

  • 元衲は高麗の人。太祖の甥の王延彬が南安に福清寺を建てて住まわせた。
  • 王延彬が「家乘とは何か」と問うと、元衲は叱りつけた。ある僧が「物ごとの上で明らかに弁ずるとはどういうことか」と問うと、元衲は片足を差し出して示した。その説法の多くはこの類であった。

僧文超

  • 文超は福建の人。内外の学に広く通じ、名声は朝野に聞こえた。
  • 太祖の甥の王延彬が泉州刺史であったとき、文超が詩をよくするので、開元寺の殿の東に院を建てて「清吟」と名づけ、迎えて住まわせた。門弟には賢者が多く、無晦は文章でとりわけ名を知られた。

僧文展

  • 文展は戒を守って高潔であった。太祖の甥の王延彬が招いたが応じず、薪を積んで焼身し、弟子に骨を筍江に投げ入れるよう託した。焼かれた後、舎利が自ら江の上に飛んだ。

僧師解

  • 師解は福州の壽山で出家した。太祖が「壽山は幾つになるか」と問うと、「虚空と同い年です」と答えた。また「虚空は幾つか」と問うと、「壽山と同い年です」と答えた。

僧道閑と同時代の僧たち

  • 道閑は長溪の陳氏の子。太祖が福州の羅山に迎えて住まわせ、法寶禪師と号した。臨終の際、上堂して「帰るとしよう」と言い、にっこりと寂した。
  • 当時、僧の寶聞が『續寶林傳』四卷を著した。僧の神禄は福州の蓮華山に住み、僧の慧覺は福州の報慈院に住んだ。いずれも宗旨に深く通じ、太祖父子に厚遇された。

僧慧稜

  • 慧稜は杭州鹽官の人、姓は孫氏。性は淳朴で淡泊であった。十三歳で蘇州の通元寺で剃髪し、唐末には雪峯と元沙の間を往来すること二十九年に及んだ。
  • 天祐三年(906年)、太祖の甥の王延彬が泉州を守り、招慶院に住むよう請うた。開堂の日、王延彬は朝服を着て説法を聴いた。まもなく太祖もまた長慶院に住むよう請い、超覺大師と号した。
  • 嗣王の時、夫人の崔氏が練師と自称し、しばしば往復して論難した。長興三年(932年)に没し、惠宗が塔を建てた。

僧義英

  • 義英は泉州の人、姓は陳氏。仏典に励み、空妙の理に広く通じた。
  • 太祖が金銀二種の蔵経を造ったとき、義英が筆をよくすると聞いて招き、書写させて厚く報酬を与えた。義英は辞退できなかったので、田を買って粥院に寄進し、千人分の結夏の資とした。
  • その疏の文には「天辺に兎も烏もなく、この縁はまさに尽きる。世上に僧も仏もあり、この会は長く新たである」という趣旨の句があり、僧たちの多くが伝誦した。

僧從展

  • 從展は福州の人、姓は陳氏。十五歳で雪峯の義存を礼して師とし、のちに呉・楚の間に遊び、また戻って雪峯に侍した。
  • 貞明四年(918年)、漳州刺史の王某が保福院を建てて迎え住まわせた。開堂の日、刺史以下が礼をもってひざまずいて三度請い、自ら手を取って助けた。
  • ある日、太祖が使者を遣わして朱記(印)を院に送った。從展は上堂して印を掲げ、「去れば印し、住まれば印は破れる」と言った。その玄妙な言葉は多いが、ここには記さない。
  • のちに太祖が奏請して命服を加えられた。突然、軽い病を示して逝った。

僧藻光――扣氷和尚

  • 藻光は翁承贊の末子である。母の孟氏は、比丘が錫杖を担いで宿を求める夢を見、人が「これは辟支仏だ」と指して言った。やがて藻光が生まれた。
  • 若くして出家し、神妙な悟りは並ぶ者がなかった。しばしば瑞巖院で義存に参じたが、院の前に溪があり、冬になるといつも氷を叩き割って浴した。当時の人は「扣氷和尚」と呼んだ。義存は大いに非凡とし、「お前はいつか王者の師となるだろう」と言った。
  • 天成三年(928年)、惠宗が召見して十か月留めたが、病を理由に辞去した。その年の十二月二日、沐浴して堂に上がり、衆に告げて逝った。骨を焼くと五色の舎利を得た。妙應法威慈濟禪師と諡された。

僧從允

  • 從允は泉州の人。清廉で慎み深く欲が少なく、夜は誦し昼は習った。
  • 長興三年(932年)、省詢禪師が閩に来たとき、從允が参謁して一言で契合した。省詢は非凡とした。その後は心も境も澄み渡り、騒がしさも静けさも一つであった。
  • 通文二年(937年)五月、筆を取って伽陀の像を写して没した。荼毘の後、舎利数百粒を得た。

僧元應(字は清豁)

  • 元應は字を清豁、永泰の人、姓は張氏。龍啟のはじめ(933年ごろ)に國師の神晏から戒を受けた。油の灯の音を聞いて偈を作り、悟るところがあった。のちに禪師の道溥に参じて互いに証明し合い、道溥は深く許した。
  • 南唐の保大の末に泉州の開元上方院に住み、まもなく留從效が招いて漳州の保福院を主宰させた。
  • 宋の建隆三年(962年)、衆に別れを告げて「集まれば浮沫のごとく、散れば雲のごとし。君はもと我であり、我は君ではない」と言い、そのまま三嶺を渡って貴湖に帰り住んだ。刺史の陳洪進が奏請して紫の方袍を賜り、性空禪師と号した。

建州の僧――兵乱を予知する

  • 建州の僧は名が分からない。狂人のような言動をしたが、多く的中した。
  • 邵武の邑の前には溪に臨んで大きな盤石があり、水面から百歩ほど離れていた。ある日、僧は突然その半分を墨で描き、その上に趺坐して竿を持ち魚を釣る格好をした。翌日、山の水が溢れ、ちょうどその墨の線まで来て退いた。
  • 天德元年(943年)、道端の木の南に向いた枝をすべて伐り落とした。人が理由を問うと、「旗や旛の邪魔にならないように」と答え、また「一方に寄せておく必要がある」と言った。後に南唐の兵が入ったとき、みなその下を通った。
  • また城外の僧寺の壁に「某の地、何人」と大書した。軍が城下に至って僧寺を分けて拠り柵としたところ、配置された人数は一つも違わなかった。やがて僧は南唐の兵に殺された。
  • これより先、永隆年間に国内は多難で民は生きるすべがなかった。ある者が僧に「世はいつ安らかになるか」と問うと、「私が去るのを待つ必要がある」と答えた。僧が死ぬと閩は平定され、その言葉のとおりになった。

僧行雲

  • 行雲は福州の僧。不思議な術を得て、未来を言えば見事に的中した。陳洪進はたいそう尊敬し礼遇した。
  • ある日、泉州を指して陳洪進に「君はこの山河を主宰するだろう」と言い、また「世の報いはすべて前もって定まっている。もし疑いを抱いて人を殺せば、まっとうな最期を得るのは稀だ」と言った。のちに陳洪進が張漢思を別室に幽閉するにとどめ、ついに天寿を全うできたのは、行雲の一言の力である。
  • 行雲は人に「陳氏には五侯の相がある。今から五年後、千万の戎馬が前で歌い後ろで舞って泉州城に入るだろう」と言った。まもなく陳洪進は宋に入って土地を献じ、徐州に鎮を改められた。子の陳文顯は通州團練使、陳文顥・陳文顗・陳文頊はいずれも諸州の刺史となった。宋の軍が城に入るとき笳と鼓を奏して楽をなしたのも、すべてその言葉のとおりであった。

陳守元――道士として惠宗を惑わす

  • 陳守元は閩縣の人。のち道士となり、邪法によって惠宗に信任された。惠宗は寶皇宮を造って住まわせた。
  • 陳守元は大言を偽り、「寶皇が、王はしばらく位を避けよ、のちに六十年の天子となるだろう、と命じておられる」と称した。惠宗は喜んで位を譲り、長子に府の事を主宰させ、道名を玄錫と称した。
  • ほどなく復位すると、陳守元を遣わして「寶皇よ、六十年の後はどこへ帰するのか」と問わせた。陳守元はまた寶皇の言葉と偽って「六十年の後は大羅の仙主となられる」と伝えた。惠宗はそこで皇帝の位に即き、寶皇のもとで冊を受け、陳守元に洞眞先生の号を賜った。

陳守元――天師としての専横と最期

  • 康宗が継いで立つと、陳守元を天師と尊び、いっそう信任した。将相の交替、刑罰、選挙のほとんどを陳守元と議した。陳守元は賄賂を受け請託を通し、至らぬところがなかった。
  • さらに康宗に勧めて禁中に三清殿を造らせ、黄金数千斤で寶皇・無始天尊・老君の像を鋳させ、昼夜に楽を奏し香を焚いて祈らせた。政事は大小を問わず、すべて寶皇の命と称して決した。国中が狂ったようであった。
  • 連重遇の乱のとき、陳守元は服を替えて逃げようとしたが、乱兵に宮中で殺された。

靖姑――白蛇の退治

  • 靖姑は陳守元の妹である。かつて山中の陳守元に食事を届ける途中、飢えた老婆に出会い、弁当を開いて食べさせた。そこで秘伝の籙と符篆を授かり、鬼神と通じ、五丁を駆使し百の妖魅を鞭打てるようになった。
  • 永福に白蛇の妖があり、たびたび郡県を害し、あるいは宮禁に姿を隠して人の形に化けた。惠宗が靖姑を召して駆除させると、靖姑は弟子を率いて丹書の符を作り、夜に宮を囲んで蛇を三つに斬った。蛇は三人の女に化けて囲みを破って出て、古田の井戸に飛び込んだ。靖姑は井戸を三重に囲み、ついに捕らえた。

靖姑――順懿夫人の封と行方

  • 惠宗は詔して言った。「蛇の妖魅が妖術を行い天理に逆らい、後宮に潜み隠れて百姓を惑わした。靖姑は自ら神兵を率いてその余孽を服従させ、民を安んじた。功はこれより大きいものはない。よって靖姑を順懿夫人に封じ、古田三百戸を食邑とし、その子の一人を舎人とする」。
  • 靖姑は辞退して食邑を受けなかったので、宮女三十六人を弟子として賜った。数年後、逃れて海上に住み、その後の消息は分からない。

譚紫霄――道陵の符を継ぐ

  • 譚紫霄は泉州の人。陳守元と親しかった。陳守元が地を掘って木札数十枚を銅の盎に納めたものを得たが、すべて漢の張道陵の符篆で、朱と墨は新しいままであった。しまい込んだものの使いこなせず、譚紫霄に授けた。譚紫霄はことごとく通じ、道陵の天心正法を得たと自称して、鬼魅を糾し病を治し、効験が多かった。
  • 康宗は師と奉じて正一先生に封じ、月ごとに山水香を支給して焚かせた。
  • 閩が滅ぶと廬山の棲隠洞に寓居し、学ぶ者は百余人あった。道術をもって星宿を醮り、黒煞神君に仕え、禹歩・魁罡の法で災いを祓い福を祈り、人の寿命をよく知った。

譚紫霄――霊験の数々と晩年

  • 南唐の武昌節度使の何敬洙が寵愛の婢を井戸に投げ込んで死なせたことがあり、人は誰も知らなかった。何敬洙が病にかかって譚紫霄を召すと、夜半に髪を振り乱し剣を持って取り調べ、女の亡霊が現れて祟りの由来を自ら訴えた。翌朝、人を退けてこれを何敬洙に語り、丹の符を書いて送り出したところ、病はすっかり癒えた。
  • 廬山の僧が道を開いた際、大きな石が固くて鑿が通らなかった。譚紫霄は行って見て「これは造作もない」と言い、杯の水を求めて吹きかけ、工人に鑿を入れさせると、手に応じて粉のように砕けた。
  • 南唐の後主がその名を聞いて建康に召し、金門羽客の号を賜り、金紫の位階を蜀の杜光庭に比した。譚紫霄はいずれも辞退して受けなかった。
  • 金陵が陥落した後、譚紫霄は百余歳で廬山の棲隠洞に没した。人は尸解といった。帰葬の日、祥雲と白鶴がめぐったという。

吳翁

  • 吳翁は建州の人。卜占をもって五夫里に隠れ住んだ。
  • これより先、張・陳という二人の将が事あって南唐に奔り、天德年間に唐の軍に従って建州を攻め、その地に軍を屯した。吳翁を召して占わせると、吳翁は「吉」と言った。まもなく天德帝が降り、二将は軍を返した。
  • その道すがら再び五夫里を通り、吳翁を招いて語り、その山を「居賢山」と名づけ、吳翁に「我らは人間界の事を棄てて、公と林泉の交わりを結びたいが、どうか」と言った。吳翁は二将のために山のかたわらに住まいを卜し、長生久視の道を学んだ。のちに二人とも百余歳で没した。今もその地を「將軍巖」と呼ぶ。

虞臯――落魄と羅喜洞

  • 虞臯は福州永貞の人。黄精を売って生業とした。
  • 惠宗の時、永貞の朱益公は客を好んだ。虞臯はひどく貧しかったので身を寄せたが、さらに疥癬を病んだ。朱益公の座にいる客はみな美しい衣を身につけており、誰もが虞臯を嫌ったが、虞臯はいよいよ豪放に振る舞い、いつも腹をはだけて溪のほとりに寝そべり、蘆の笛を吹いて楽しんだ。
  • 龍啟のはじめ(933年ごろ)、陳守元が道士として貴顕になると、虞臯を陳守元に讒言する客があった。陳守元は怒って監奴に数百回笞打たせた。朱益公はこれ以来、虞臯を留めておく勇気がなくなった。

虞臯――木當敏の目撃

  • 虞臯が困窮すると、旧友の木當敏もすぐに背を向けて顧みなくなった。虞臯は天を仰いで大笑し、そのまま立ち去って仙茅山に入った。
  • 木當敏は虞臯が貧しく身持ちが悪いと思い、うわべは餞別のふりをしてひそかに後を尾けた。羅喜洞に着くと洞門が突然開き、その中には玉の堂と金の闕が果てしなく連なり、官属もたいそう多く、翠の□(底本欠字)と羽の蓋を立て、後ずさりしながら前へ出迎えた。木當敏は大いに驚き、叩頭して血を流した。虞臯は目で笑った。
  • しばらくして殿上で客を宴し、あらためて木當敏には僕妾の食事を賜って堂の下に座らせた。十日ほど滞在して木當敏が帰り、朱益公の門を過ぎると、そこはすでに廃墟となっており、数百年が経っていた。

林願の娘

  • 林願の娘は閩の人。林願は王氏に仕えて統軍兵馬使であった。娘が生まれたとき地の色が紫に変わり、たびたび霊異を現した。
  • 幼くして秘法に通じ、長じては筵に乗って海を渡り、島々を雲のように巡ったので、人は「神女」と呼び、また「龍女」とも呼んだ。
  • 一説には、林願が海に船を出して溺れたとき、娘はちょうど機を織っていたが、突然机に寄りかかって終日眠っていた。母が尋ねると、「父が船で溺れたので、私が父を救ったのです」と答えた。林願が帰ってその事を確かめると、果たして偽りではなかったという。