十国春秋十國春秋卷九十五 閩六

韓偓(字は致光)――唐朝での経歴

  • 韓偓は字を致光といい、京兆の人。唐の龍紀元年(889年)に進士となり、諫議大夫・翰林學士へと昇進した。
  • 昭宗が鳳翔へ行幸した際に兵部侍郎・承旨に進み、昭宗が復位して政務に励むと、韓偓の処理する機密事項はおおむね帝の意にかなった。宰相に任じようとしたが、韓偓は何度も辞退して受けなかった。

韓偓――左遷と閩への亡命

  • 朱全忠に忌まれて濮州司馬に落とされた。昭宗は韓偓の手を取って涙を流し、「もう身近に頼れる者がいない」と嘆いた。さらに榮經尉に貶され、鄧州司馬に移された。
  • 昭宗が弑されたのち、哀帝が再び学士・故官として召し戻したが、韓偓は入朝を避け、一族を連れて太祖(王審知)を頼り、南安に仮住まいした。
  • 天祐三年(906年)にも先の任命が繰り返されたが、また辞退し、詩を作って「鴟夷(范蠡)だけが身を退いて五湖に釣舟を浮かべたわけではない、自分も糟を食らって甘んじよう」という趣旨を詠んだ。
  • まもなく梁が唐を簒奪した。乾化三年(913年)にも召されたが、やはり赴かなかった。

韓偓――晩年と著作

  • 龍德三年(923年)、南安の龍興寺で没し、葵山のふもとに葬られた。
  • 著作に『内庭集』『金鑾別紀』がある。左遷の後は干支で自分の居所を一つ一つ記録し、その詩はすべて自筆で書きためて一帙をなした。
  • 没した日、家に余分な財産はなく、ただ焼け残った龍鳳の蝋燭が□(底本欠字)一器あるだけだった。
  • 子の寅亮は閩で生涯を終えた。

崔道融

  • 崔道融は荊州の人。徵辟によって永嘉令となり、累進して右補闕に至った。戦乱を避けて閩に来て太祖に身を寄せたが、まもなく病没した。
  • 崔道融はもともと黄滔と親しく、その死に際して黄滔が祭文を作った。そこには「亀策に通じる識見、霊珠を握るような輝き、国風・騷雅の才、王佐の謀り事」と称え、「袁安のように涙を流し、劉氏の宗廟を支えるすべもない」と嘆く句があった。

楊沂豐

  • 楊沂豐は唐の宰相・楊涉の従弟である。戦乱に遭って太祖を頼り、徐寅・王淡とともに幕府に身を置き、風雅の唱和を重ねたので、閩の士人の多くが彼を仰いだ。
  • 太祖の孫の王繼業が汀州刺史となったとき、楊沂豐はその士曹參軍を務め、たいそう親しく交わった。
  • 永隆年間、王繼業が死を賜ると、楊沂豐も謀議に加わっていたと告発する者があった。楊沂豐がちょうど宴に侍していたところ、景宗は左右に合図して捕らえさせ、獄に繋いだ。翌日、市で斬られ、一族も誅された。時に八十余歳で、国中の人が哀れんだ。
  • 王淡はもと唐の宰相・王溥の子である。

史論(唐から閩に亡命した士人たち)

  • 昭武(王審知)が国を立てると、来訪者は我が家に帰るように迎えられた。唐の衣冠の士人が難路を越えて奔り来たった者に、李洵・韓偓・王標・夏侯淑・王淡・楊承休・王滌・崔道融・王拯・楊贊圖・王倜・楊沂豐・歸傳懿らがおり、指折り数えきれない。今は考証できる者だけを取り上げて篇に載せ、残りは記録しない、とする。

陳嶠(字は延封)――家系と学問

  • 陳嶠は字を延封という。遠祖の陳邁が唐初に莆田令となってその地に住み着いた。数世のち南安尉の陳眞が出て、眞が蕘を生み、蕘が齊を生んだ。齊には九人の子があり、陳嶠はその長子である。
  • 二十歳ですでに文章をよくし、高陽の許龜圖・江夏の黄彦修とともに莆田の北巖精舎に住み、まもなく北平山に移って読書した。

陳嶠――出仕と人となり

  • 光啓三年(887年)に進士に及第し、初任として京兆府參軍を代行した。太祖兄弟が閩に入ると招かれて大從事となり、大理評事兼監察御史に移り、さらに奏請によって大理司直兼殿中侍御史を授かった。
  • 光化三年(900年)十月に没し、年七十五。著した表・記・奏牘は合わせて三百篇。
  • 人となりは謹厚で信義に篤く、家では純孝であった。継母に仕えて礼を尽くし、齊が死ぬと三年墓のかたわらに廬を結んだので、郷里の人が称えた。

黄滔(字は文江)――及第と出仕

  • 黄滔は字を文江、泉州莆田の人(候官の人とする説もある)。唐の乾寧二年(895年)、崔凝が貢挙を司り、及第の進士として張貽憲ら二十五人を採った。昭宗が武德殿で覆試を行い落第させた者が多かったが、黄滔は残された。
  • 光化年間に四門博士に任じられ、天復元年(901年)に太祖の招聘を受け、監察御史裏行として威武軍節度推官を務めた。まもなく錢塘へ使いし、羅隠と意気投合した。

黄滔――閩の文事における位置

  • 梁の時代、強藩の多くが位を僭して帝を称したが、太祖は閩全土を領有しながら生涯節度使にとどまった。これには黄滔の諫正の力が大きかった。
  • 中原の名士で戦乱を避けて閩に来た韓偓・李洵ら数十人は、みな黄滔を頼りとした。
  • 黄滔の文章は豊かで格調高く、詩は清らかで潤いがあり、貞元・長慶の風があった。「馬嵬」「館娃」「景陽」「水殿」などの賦は雄渾清新で、当時第一の作と称された。文集十五卷、『泉山秀句集』三十卷があり、当時の金石の誌銘や国中の大きな著作の多くは黄滔が草稿を書いた。

徐寅(字は昭夢)――及第と文名

  • 徐寅は字を昭夢、莆田の人。唐の乾寧年間に進士に及第した。試験で「止戈為武賦」を作り、蝋燭一本が尽きる前に書き上げ、「破山加㸃/擬戍無人」の句があった。禮部侍郎の李擇がこれを読んで非凡と認めた。その年に釋褐して秘書省正字を授かった。

徐寅――大梁の賦と梁王

  • 大梁に遊び、賦をもって梁王朱全忠に謁見したが、誤ってその諱に触れ、梁王は顔色を変えた。徐寅はあわてて退出し、逃げても逃げきれないと恐れて「過大梁賦」を作って献じた。「千金の漢将は精魄に感じて神交し、一眼の傖夫は英風を望んで胆を落とす」という趣旨の句がある。
  • 梁王は賦を得て大いに喜び、絹五百疋を与えた。これは朱全忠がかつて淮陰侯(韓信)に兵法を授けられる夢を見たこと、晋王李克用が片目であったことを踏まえた句だったからである。

徐寅――閩への帰郷と後唐との軋轢

  • のちに郷里へ帰り、太祖に招かれて掌書記となった。
  • 唐(後唐)が梁を滅ぼすと、閩は使者を送って莊宗の即位を賀した。莊宗はいきなり使者に「徐寅は息災か。帰って主に伝えよ。父母の讎とは共に天を戴かぬもの。徐寅は先帝を指弾した。お前の国はなぜあの男を容れているのか」と言った。
  • 使者が帰って報告すると、太祖は「そういうことなら主上は徐寅を殺したいのだろう。今は用いないでおけばよい」と言い、その日のうちに門番に徐寅を取り次がぬよう命じた。徐寅は衣を払って去り、「差し渡しわずかの水、前は堤、後ろは堰。どうして万斛の舟を浮かべられようか」と言った。

徐寅――隠棲と晩年

  • もとの隠棲地であった釣磯のあたりを訪ね、遠く世を去る志を抱いた。ついに長壽の別荘で没した。
  • はじめ、太祖の甥の王延彬が泉州を治めていたころ、徐寅はいつも共に遊覧し、陳郯・倪曙らと詩を賦し酒を酌んで楽しみ、それが十余年に及んだ。
  • あるとき病を得て王延彬に薬を求めたところ、延彬は「自分でよく養生し、心を開くのがよい。三皇五帝とて死なずにどこへ行ったのか」と返書した。これは徐寅の「人生幾何賦」の語を引いてからかったものである。

徐寅――賦の名声と著作

  • 徐寅の賦は人口に膾炙した。渤海の高元固が来訪して、本国では「斬蛇劍賦」「御溝水賦」「人生幾何賦」を手に入れ、どの家も金字で書いて屏風にしていると語った。その珍重ぶりはこれほどであった。
  • 徐寅は才思が抜群に速かった。黄滔が威武節度推官であったとき、太祖が魚を贈った。黄滔が徐寅と談笑していたところで礼状を頼むと、徐寅は気にも留めず筆を執って一気に書き、「切れた縄に銜えられて羊續のもとから届き、彫り物の盤に並んで馮驩の食卓に至る」という趣旨の文を成した。時の人は大いに称えた。
  • 著作に『探龍集』一卷、『雅道機要』および詩八卷(『釣磯集』ともいう)、さらに賦五卷がある。

翁承贊(字は文堯)――出自と唐での経歴

  • 翁承贊は字を文堯、福唐の人。父の翁巨隅は榮王府諮議參軍。
  • 唐の乾寧三年(896年)に進士に挙げられ、宏詞科に及第し、京兆府參軍を務め、累進して右拾遺・戸部員外郎となった。

翁承贊――閩王冊封の使者

  • 天祐元年(904年)、詔を受けて太祖を琅琊王に冊封し、金紫を賜って赴いた。その住まいの名を改めて文秀亭・光賢閣・晝錦堂とし、黄滔が詩を作ってこれを讃えた。
  • のちに梁に仕えて諫議大夫となり、開平三年(909年)に再び閩王冊礼の副使となった。黄滔がまた詩を贈っている。まもなく右諫議大夫・福建鹽鐵副使を守り、左散騎常侍・御史大夫を加えられた。

翁承贊――閩の宰相として

  • 翁承贊が太祖に身を寄せると、太祖はきわめて厚く遇し、ついに宰相とした。翁承贊は太祖に四門学を建てて閩の優れた士人を教育するよう勧めた。
  • みずから狎鷗翁と号した。没して建安の新豐鄉に葬られた。
  • 弟の翁承裕は光化年間の進士。子の翁鑑・翁載・翁希愈は宋の時代にみな出仕した。

史論(陳嶠・黄滔・徐寅・翁承贊)

  • 陳嶠・黄滔・徐寅・翁承贊はいずれも閩の生まれである。陳嶠は老成の人柄で国の司直を務め、黄滔は威鳳の才を負い、徐寅は雕龍の資質をほしいままにし、二人は轡を並べて優劣つけがたい。翁承贊は郷里に栄誉をもたらし、学を興し文を重んじたので、閩に対する功績もまた大きい、とする。

張睦――閩の財政を支える

  • 張睦は光州固始の人。唐末に太祖に従って閩に入った。太祖が琅琊王に封じられると、張睦は三品官を授けられ、榷貨務を統べた。
  • 騒然とした時勢のなかでも悠然と士に身を低くし、蛮夷の商人を招き寄せ、徴収に苛酷を加えなかったので、国の財政は日ごとに豊かになった。累進して梁國公に封じられた。
  • 没して福州の赤塘山に葬られた。のちに薛文傑がその職を継いだので、閩の人はいよいよ張睦を懐かしみ、城中に社を立てて祀った。

張廡(字は居仁)

  • 張睦の子。字は居仁。性は孝友で謙虚、官は殿中侍御史に至り、百官を弾劾して風采があった。
  • 王氏の政治が衰えると職を辞して郷里に帰り、宗法を立て祧廟を建てて祭祀を整えたので、郷里の手本とされた。

孟威

  • 孟威は出身地を欠く。天祐年間に太祖に従って都押牙となり、建州刺史を務めて有能の名があった。
  • 開寶年間(968-976年)、呉越の忠懿王が宋に願い出て福州に太祖の祠を立て、孟威と張睦ら二十六人を廟庭に配享させた。当時これを妥当としない者はなかった。

史論(張睦・孟威ら閩の功臣)

  • 昭武帝(王審知)が閩の辺境に興起したとき、これに従い助けた人材は多かったが、功臣を論じれば誰もが張睦・孟威を筆頭に置く。廟庭で共に祭られるのも偽りではない。ただ事績が散逸してあまり伝わらないのが惜しく、その大要を次のように記すにとどめる、とする。

劉山甫――甘棠港の開鑿

  • 劉山甫は彭城の人。太祖が閩に入ると威武軍節度判官に任じられた。
  • 当時、海口の黄崎の岸には切り立った横石があり、常に舟の障害となっていた。太祖はこれを除きたいと思ったが人夫の労を憚っていた。乾寧年間のある夜、金甲の神が現れて呉安王と名乗り、開鑿を助けようと言う夢を見た。
  • そこで劉山甫に自ら赴いて祭を行わせ、夢の話を述べさせた。三度の献酒が終わらぬうちに海中の霊怪が現れた。劉山甫が僧院に休んで高みから見ていると、風雷が突然起こり、黄色い鱗に赤いたてがみの、魚とも龍ともつかぬものが現れ、三昼夜にわたって風雷が続いてようやく止んだ。
  • こうして別に一つの港が開け、旅人に大いに便利となった。これが甘棠港の名を賜った港である。

劉山甫――才学と毘沙門天王廟の逸話

  • 劉山甫は中原の旧家の出で文才があり、『金谿閒談』十二卷を著した。かつて徐寅の墓誌銘を撰し、情と文を兼ね備えた作として世に称された。官は威武軍殿中侍御史で終わった。
  • かつて父の任地である嶺外に随行し、帰途に青草湖で舟を泊め、岸に上がって北方毘沙門天王廟に参ったところ、建物は崩れ灯明も香も絶えていた。そこで諷刺の詩を作った。
  • その夜、神が夢に現れ「私は天王ではなく、南嶽の神である。この地を主宰しているのに、なぜ侮られねばならぬのか」と告げた。にわかに目覚めると風波が起こり、帆柱は倒れ舫綱は切れた。劉山甫は急ぎ起きて過ちを悔い、詩を書いた板を毀してようやく収まった。

鄭良士(旧名は昌士、字は君夢)

  • 鄭良士は旧名を昌士、字を君夢、仙遊の人。博学で文章をよくした。
  • 唐の昭宗の景福二年(893年)に詩五百篇を献じて國子四門學士を授かり、累進して康州・恩州の刺史兼御史中丞となった。天復元年(901年)に官を棄てて隠退した。
  • 貞明元年(915年)、太祖の招聘に応じて左散騎常侍に転じた。重厚寡黙で、太祖はその長者ぶりを称えた。
  • 『白巖文集』、詩集十卷、『中壘集』若干卷がある。

鄭良士――鄭家八虎

  • 子は八人。鄭元弼には別に伝がある。鄭元恭は康宗の時に秘書省校書郎、鄭元素は別駕、鄭元龜は宋の進士に及第して官は司馬に至り、鄭元禮は推官、鄭元振は員外郎、鄭元瑜は秘書郎、鄭元忠は正字。兄弟はみな文章をよくし学に篤く、当時「鄭家八虎」と呼ばれた。

章仔鈞――家系と出仕

  • 章仔鈞は浦城の人。先祖は汴に住み、宋の兵部尚書であった章巖が元嘉のはじめに泉州を守って南安に居を定めた。唐の康州刺史章及が南安から浦城に移り、章及が福州軍事判官の章修を生み、修が仔鈞を生んだ。
  • 章仔鈞は沈着で度量が大きく、四十を過ぎても世に出ず身を隠していた。

章仔鈞――太祖への献策

  • 乾寧年間、太祖が司空に代わって閩を鎮め、表を奉って貢を修めた。章仔鈞は太祖が唐を奉じていることを知り、軍門に至って謁見し、戦・攻・守の三策を献じた。
  • 献策に先立ち、章仔鈞が嶺上に登って天を占ったところ、その夕べ地から泉が湧いた。着いてみると太祖は大いに喜び、上賓として館に迎え、その手を取って「なぜもっと早く会えなかったのか」と言った。
  • 奏請により高州刺史・檢校太傅・西北面行營招討制置使を授けられ、歩騎五千を選んで浦城の西巖山に屯戍させた。

章仔鈞――練夫人の諫めと逃した二校

  • 南唐の将の盧某が山下を通過する際に道を借りたが、突然鬨の声を上げて塁を攻めた。章仔鈞は堅守して戦わず、二人の校尉を建安に援軍要請に遣わした。
  • 敵兵が退いても二校は期限に間に合わず戻らなかったので、斬ろうとした。妻の練氏が止めて「時勢はまだ定まらぬのに、なぜ壮士を殺すのですか」と言った。章仔鈞が「では法をどうする」と問うと、練氏は「法を廃してよいはずはありません。放って自ら去らせるのがよいでしょう」と答えた。章仔鈞は悟って不問に付した。この二校は邊鎬と王建封であったという説がある。

章仔鈞――晩年と一族

  • 累進して光禄大夫・持節高州諸軍事となり、没した。
  • 弟に仔釧。子に仁坦・仁嵩・仁燧・仁昉・仁澈・仁郁・仁政・仁愈・仁鑑・仁肇・仁激・仁耀・仁祐・仁聞があり、多くが顕官に至った。練氏には別に伝がある。

陳師先

  • 陳師先はどこの人か詳らかでない。太祖が閩に入ったとき、堅陣を破って先鋒将となり、賊を連江の白塔嶺まで追ったが、そこで倒れて死んだ。縣尉の程成之が廟を立てて祀った。

鄒罄

  • 鄒罄は光州固始の人。宣府校尉として太祖に従って閩に入り、汀州の賊を平らげて功があった。まもなく雁石を鎮め、そこで没した。

虞雄

  • 虞雄は太祖の麾下に属して牙將となり、果敢な戦いで名を知られた。のちに福唐の漁溪で戦死し、土地の人が廟を立てて祀った。

陳霸先

  • 陳霸先は羅源の人。太祖の麾下にあって先鋒将となり、戦えば勝ち攻めれば陥とし、一軍から忠義勇敢と称された。久しくして賊を白塘嶺まで追ったが、馬が倒れて死んだ。土地の人が廟を立てて祀った。

伍昌時とその子伍德普

  • 伍昌時は汀州寧化の人。父の伍夢授は太祖に仕えて左僕射となった。
  • 伍昌時は生まれつき武勇で謀に富み、太祖に仕えて偏將軍となり、戦えばいつも功があった。
  • 子の伍德普は若くから学を積み、隠居して生涯教授にあたり、漁釣を楽しみとした。

王定簡

  • 王定簡は代々汴州の人。祖父の王護、父の王伸のときに福州候官縣に移った。
  • 太祖の時に安遠使に任じられ、功績が多く名も高かった。太祖が薨じると、その官を廃して老いを養った。

程贇

  • 程贇は出身地を欠く。天祐年間に太祖に仕えて威武節度都押牙となり、実務の才があったので、太祖は腹心として用いた。
  • かつて将吏・百姓とともに太祖の功徳を朝廷に列挙し、祠を建てて石に刻むことを願い出て、許可を得た。
  • のちに朱文進が位を僭したとき漳州刺史に任じられたが、留從效に殺された。

蔡儼(字は仁崿)

  • 蔡儼は字を仁崿、晉江の人。節倹で施しを好んだ。太祖に招かれて戸部郎中となり、よくその職を果たし、永春主簿で終わった。

黄子稜(字は元威)

  • 黄子稜は字を元威、洛陽の人。父に随って閩に入り、太祖父子に仕えて累進し侍御史となった。のちに戦乱を避けて建陽の東に住み、そこで没した。

李灞

  • 李灞は古田の人。自ら唐の皇室の後裔と称した。幼くして礼儀正しく謙譲で、父母によく仕えた。太祖父子に仕えて大錄事を務めた。

鄒勇夫

  • 鄒勇夫は光州固始の人。単騎で太祖兄弟に従って閩に入り、終始二心がなかった。太祖が閩王に封じられると僕射となり、太祖のために利害を説いて梁の正朔を奉じるよう勧めた。
  • のちに南唐が併呑の志を抱いた際、歸化鎮がちょうど要衝にあたっていたので、景宗は鄒勇夫を派遣して鎮守させた。着いてみると民戸は荒れ果て道は塞がっていたが、流民を招き集め家屋を修理したところ、民は少しずつ境を越えて帰ってきた。
  • 当時は戦乱が絶えなかったが、歸化だけは平穏で兵火を被らず、人も物も豊かになった。これは鄒勇夫の力である。子の鄒相はその地に住み着いた。