十国春秋十國春秋卷九十四 閩五 列傳(后妃・宗室)

秦國太夫人董氏

  • 太夫人董氏は太祖(王審知)の母である。
  • 王緒が閩に入るとき、軍中で老人や弱者を連れることを禁じ、違反者は斬るとした。ところが太祖の兄弟だけは母を助けて従軍した。緒が責めて「軍にはみな法がある。法のない軍などない。お前たちが私の令に違反しても誅さないのでは法がないことになる」と言うと、太祖らは「人にはみな母がある。母のない人などいない。将軍はどうして人にその母を棄てさせるのですか」と答えた。
  • 緒は怒って太夫人を斬れと命じたが、太祖らは「我らは母に仕えるように将軍にも仕えております。その母を殺しておいて、どうしてその子を用いられましょう。母より先に死なせてください」と言った。将士がみな助命を請うたので許された。
  • 後に太祖が貴くなったことにより累進して秦国太夫人に封ぜられた。天祐元年(904年)、太祖は報恩定光多宝塔を建てて司空(王潮)と太夫人の冥福を祈った。龍啓年間、惠宗が五廟を立てたとき、あらためて太夫人を追崇して尊諡を奉った。

太祖后任氏

  • 太祖の后の任氏は家系がわからない。太祖の時に(欠)国夫人に封ぜられ、数年で薨じ、福州の鳳池山に葬られた。後に太祖もそこに合葬された。龍啓初(933年)、追崇して皇后とされた。

龍啓太后黄氏

  • 太后黄氏は泉州の人。もと威武節度推官の黄滔の一族の娘で、父の訥裕は工部侍郎であった。太祖が側室に迎え、惠宗はその所生である。唐の明宗が魯国夫人に封じたので、惠宗は白金五千鋌を貢いで謝した。龍啓初、皇太后に尊ばれた。
  • 龍啓二年(934年)十一月癸丑、惠宗が黄氏の家廟に詣でたとき、田や店には緹の錦を敷き、樹木には彩りの絹を掛けた。そこで里を「錦里」、駅を「錦田」、住居を「錦第」、渓を「錦溪」、墓の院を「錦溪院」と名づけた。
  • また太后の一族の子の克家が「土地が海に臨んでおり、秋の日には城郭のような形(蜃気楼)が現れる」と言ったので、惠宗は沿海の家の屋根瓦をすべて粘土で葺いてよいと命じた。太后の一族への厚遇はこのようであった。
  • 薛文傑の処刑には、太后の力が働いていた。通文元年(936年)、太皇太后に尊ばれた。

嗣王夫人崔氏

  • 嗣王(王延翰)の夫人の崔氏は博陵の人である。容貌は醜く淫らで、性質は非常に嫉妬深かった。
  • 嗣王が良家の子女を多く選んで宮人としたので、夫人はその中の美しい者を探し出して別室に幽閉し、大きな枷を掛け、木で作った手で頬を打たせた。また練絹で侍婢を縛って鞭打ち、練絹が血で赤く染まってようやくやめた。さらに鉄の錐で人の顔を刺し、あるいは腕を突き刺した。一年のうちに死んだ者が三十四人に上った。
  • 後に夫人は病んで(死者の霊を)見、祟りだとして薨じた。ある説では太祖が急死したのは実は夫人が毒を盛ったからで、ある日、庭で落雷に打たれて死んだという。
  • 夫人はふだん仏法を篤く信じ、福州の僧・慧稜を師とし、自ら「練師」と称した。

惠宗后劉氏

  • 惠宗の后の劉氏は、もと南漢の清遠公主である。貞明三年(917年)、太祖が惠宗のために娶らせた。

惠宗繼后金氏

  • 惠宗の継后の金氏は賢明であったが顧みられず、陳后が立ってからは寵愛はさらに衰えた。その後のことは記録に見えない。

惠宗后陳氏(金鳳)

  • 后の陳氏は福唐の人である。父の侯倫は若く風姿が美しく、唐末に福建観察使の陳巌に仕え、その容色によって寵愛されて寝所にまで出入りし、巌の妾の陸氏と通じて身ごもらせた。まもなく巌が没し、その妻の弟の范暉が留後を自称したので、陸氏は暉に身を寄せて一女を生んだ。その夜、飛ぶ鳳が懐に入る夢を見たので幼名を金鳳とし、陳の姓を冒した。これが惠宗の后である。
  • 太祖が閩に入って暉を攻め殺すと、金鳳は民間に流落し、一族の陳匡勝が引き取って養った。
  • 開平三年(909年)、太祖が良家の女を選んで後宮に入れたとき、金鳳は十七歳で、たおやかな性質で歌舞を善くした。太祖は召して才人とし、その寵愛は黄夫人に並んだ。太祖はかつて西湖のほとりに水晶宮を築き、亭や楼榭を十余里にわたって連ねており、金鳳もときに供をして子城の複道を通って遊びに出たが、それでも惠宗の時ほど乱れてはいなかった。
  • 惠宗が紫宸門に出御して引見したとき大いに喜び、淑妃に封じて深く寵愛した。龍啓元年(933年)、皇后に立て、義父の陳巌に威武軍節度使を追封し、母の陸氏を長楽郡夫人とし、一族の守恩・匡勝を殿使とした。長春宮を築いて住まわせた。
  • 惠宗はしばしばその中で夜通しの酒宴を張った。宴のたびに金の龍の燭数百枝を灯して周囲を昼のように明るくし、宮婢数十人に杯や盤を捧げさせた。器の多くは金・玉・瑪瑙・琥珀・玻璃の類で、順に運ばせ、几や筵は敷かなかった。酔うと裸で追いかけ合い笑いさざめいて楽しんだ。
  • 惠宗は晩年に中風を病んだので、后は寵臣の帰守明と密通した。百工院使の李可殷は若い頃から守明と親しく、守明を通じて后に通じ、殿内に出入りした。惠宗はかつて錦の工人に金を鏤めた五彩九龍の帳を長春宮に作らせ、できあがると献上させたが、守明が毎日そこに泊まった。国人は「誰が九龍の帳と言ったのか。収まっているのは一人の帰郎だけだ」と歌った。
  • 李倣の乱で、后は匡勝・守明とともに殺された。

康宗元妃李氏

  • 康宗の元妃の李氏は、もと惠宗の姪にあたり、同平章事の李敏の娘である。梁国夫人に累封された。康宗が李后を寵愛したので、夫人は甚だ薄遇され、その位のまま生を終えた。

康宗后李氏(春鷰)

  • (原文は「唐宗后李氏」に作る。)康宗の后の李氏は、もと惠宗の宮人で名を春鷰といった。容色があり、康宗が密通した。惠宗が病んだとき、康宗は陳后を通じて春鷰を求め、惠宗はしぶしぶ与えた。
  • 康宗は位を継ぐと賢妃に立て、外出には同じ輿、座るには同じ席とした。通文と改元すると、あらためて皇后に立てた。別に紫薇宮を造って皇后の遊興の場としたが、土木の壮麗さは東華宮を上回った。
  • 連重遇の乱で、康宗は后とともに北関を出、梧桐嶺で帝の甥の継業に殺された。
  • 蓮花山の脇に葬られた。墓の上に木が生えて異様な花を咲かせ、鴛鴦が頸を交わす姿に似ていたので、当時の人は「鴛鴦樹」と呼んだ。これより先、陳后と惠宗もこの山に葬られていた。
  • 後に南唐の軍が古城で李仁達を破ったとき、乱兵が諸陵を暴いて宝玉を抉り取った。后と陳后の容色は生けるがごとくで、鮮血が流れて山を赤く染めたので、世にその山を胭脂山と呼ぶようになった。

景宗后李氏

  • 景宗の后の李氏は司空の李真の娘である。永隆四年(942年)に皇后に冊立された。酒を好み剛情で、景宗は寵愛しながらも憚った。朱文進の乱は実は后が煽って引き起こしたものだが、まもなく后自身も殺された。

景宗賢妃尚氏

  • 賢妃の尚氏は金吾使の尚保殷の娘である。永隆初(939年)に賢妃に立てられた。妃は際立った美貌で、景宗が最も愛し寵んだ。景宗は酔うと、妃が殺したい者は殺し、赦したい者は赦した。

天德皇后張氏

  • 天徳皇后の張氏は、もと富沙王(王延政)の妃である。天徳元年(943年)、富沙王が殷の帝を称すると皇后に立てられた。

武肅王審邽

  • 審邽、字は次祖、太祖の次兄である。
  • 乾寧元年(894年)に泉州刺史を代行し、三年(896年)に正式に任じられ、四年(897年)に工部尚書を加えられ、五年に金紫光禄大夫・検校戸部尚書を加えられた。光化二年(899年)に兵部尚書・瑯琊郡開国男、三年(900年)に左僕射を加えられ開国侯に進み、まもなく威武軍節度副使を授かった。天復二年(902年)に司空、三年(903年)に司徒を加えられ、開国公に進封され食邑七百戸を得た。在任は十二年に及んだ。
  • 人となりは儒術を好み『春秋』に通じ、吏治を善くした。流民が帰ってくれば牛と犂を貸し与え、家屋の再建を助けた。
  • 中原が乱れて公卿の多くが閩を頼ってきたので、審邽は子の延彬に招賢院を作らせて礼遇し、財を割いて援助した。唐の右省常侍の李洵、翰林承旨制誥・兵部侍郎の韓偓、中書舎人の王滌、右補闕の崔道融、大司農の王標、吏部郎中の夏侯淑、司勲員外郎の王拯、刑部員外郎の楊承休、弘文館直学士の楊賛図と王倜、集賢殿校理の帰傳懿、および鄭璘・鄭戩らはみなこれによって禍を免れた。
  • 没して武粛王と諡され、晋江の皇積山に葬られた。徐寅が墓碑の文を撰した。子は延彬・延美・延武。

王延彬

  • 延彬は天祐初(904年)、太祖の承制により平盧節度使を加えられ泉州軍州事を代行し、二年(905年)に正式に任じられた。開平三年(909年)に金紫光禄大夫を加えられ右僕射に転じ、瑯琊郡開国男に封ぜられ、まもなく司空に転じた。四年(910年)に雲麾将軍を加えられ、乾化二年(912年)に特進の階を授かり検校太保を加えられ開国伯に進封された。五年に検校太傅を加えられて泉州刺史を代行し、四年に検校太尉を加えられた。
  • 延彬は泉州に再任し、前後で二十六年を歴任した。官吏も民も安んじ、蛮舶を出せば遭難する船がなかったので、当時「招宝侍郎」と呼ばれた。
  • 白鹿と紫芝を得たとき、僧の浩源が王者の瑞だとしたので、延彬は次第に驕り高ぶり、ひそかに使者を海路で梁に送って泉州の節度使の地位を求めた。事が発覚し、太祖は浩源とその一党を誅し、延彬を退けて私邸に帰した。
  • 没して雲州節度使兼侍中を贈られ、雲台山に葬られたので、閩の人はまた「雲台侍中」とも呼んだ。
  • 延彬は多芸で詩歌を能くし、禅理にもかなり通じていたが、性質は豪奢で、頭巾も櫛も冠も履も必ず日に一度は取り替え、衣を脱いだ後はいつも龍脳数器を掛けて薫らせた。
  • これより先、延彬は泉州の仏舎で生まれたが、生まれたとき白い雀が堂中に巣を作り、三十年にわたってそこにいて、延彬が没するとたちまち姿を消したので、人はみな異とした。

王延美

  • 延美は龍啓二年(934年)に泉州刺史となったが、まもなく卒した。

王延武(審邽の子)

  • 延武は永和元年(935年)に泉州刺史となり、有能の名があった。まもなく太傅を加えられ開国伯に進み、通文元年(936年)に建州刺史に改められた。

王繼崇

  • 継崇は延彬の子である。長興元年(930年)、惠宗の墨敕によって泉州の事を代行し、三年(932年)に検校司空を加えられ、龍啓元年(933年)に検校太保を加えられ瑯琊開国男に封ぜられた。

王繼勲

  • 継勲は延美の次子である。留從效が泉州を回復したとき、州の印を持って邸を訪ね、軍府の事を主宰するよう請うた。当時、天徳帝はすでに殷国を称しており、継勲を侍中として泉州刺史を領させた。
  • 翌年、継勲は唐に帰順を申し出た。折しも李弘義が唐の威武節度使となっており、継勲が書を送って修好を求めると、弘義は泉州がもと威武軍に属していたのに対等の礼を用いたことに怒り、弟の弘通に兵を整えて攻めさせた。
  • このとき從效は都指揮使で異心を抱いており、うわべは言葉巧みに「弘通の兵勢は甚だ盛んで、士卒は使君の賞罰が当を得ないとして力戦しようとしません。使君は位を避けて自省なさるべきです」と継勲を脅した。そして継勲を廃して私邸に帰し、自らその事を代行し、ただちに兵を率いて弘通を撃ち破り、唐に上表した。唐は継勲を召して金陵に帰らせた。

王彦復

  • 彦復は太祖の従弟である。景福初(892年)、彦復は都統として太祖とともに福州の范暉を攻め、自ら矢石を冒して方略を指示し、ついに福州城を陥れ、暉は逃げて死んだ。まもなく泉州刺史となり、その職で生を終えた。

王想

  • 想も太祖の従弟である。太祖に従って閩に入り、銀青光禄大夫・上柱国として福州長楽県令を兼ねた。かなりの実務の才があり、県の政務はよく治まった。

王延喜

  • 延喜は太祖の庶子である。永隆年間に汀州刺史となったが、景宗が延喜と富沙王(延政)が通謀していると疑い、将の許仁欽を遣わして捕らえ連れ帰らせた。後に朱文進に殺された。

王延武(太祖の子)

  • 延武は太祖の子で、惠宗にとっては弟の一人である。通文年間に建州刺史となった。折しも巫者の林興が延武と反りが合わず、鬼神の言葉に託して「延武と延望が乱を起こそうとしている」と告げたので、子ともども殺された。

王延望

  • 延望は太祖の子である。通文年間に戸部尚書となったが、延武とともに林興に誣告され、子ともども殺された。

王延宗

  • 延宗は太祖の子である。汀州刺史となって声望があり、後に驃騎大将軍に遷った。
  • 太祖には全部で二十八人の子があったが、史書に見えるのは嗣王・惠宗・景宗・天徳帝のほかは延喜・延武・延望・延宗の数人だけで、その序列もまた考証できない。延宗の子が継業である。

王繼業

  • 継業は父を継いで汀州を守り、やはり治績で知られた。
  • 連重遇の乱のとき、継業は康宗を梧桐嶺で追い詰めた。康宗が弓を投げて「そなたの臣としての節はどこにあるのか」と言うと、継業は「君に君としての徳がなければ、臣にどうして臣の節がありましょう。新君は叔父、旧君は兄弟です。どちらが親しくどちらが疎いでしょうか」と答え、ついに陀荘で康宗を弑した。
  • 永隆初、泉州刺史に改められ、まもなく行営都統として兵を率いて建州を救い、呉越の兵は逃げ帰った。
  • 翌年、建州から書で誘われ、継業が楊沂豊とともにひそかに富沙王と通じていると告げる者があった。継業が福州に戻ったところで郊外で死を賜り、あわせてその子も泉州で殺された。

王延興(延虹・延豐・延休を附す)

  • 延興は太祖の長兄である司空(王潮)の子である。延興には延虹・延豊・延休の弟がいたが、司空はみな措いて太祖に譲り、軍務を執らせた。その後の消息は不明である。

王延嗣

  • 延嗣は太祖の一族の子である。人となりは気概があって率直な言を好み、道義をもって自任したので、当時「唐五経」と呼ばれた。光啓初(885年)、太祖に従って閩に入った。
  • 梁が唐を簒奪して太祖を閩王に封じたとき、延嗣は「義として秦を帝としないというのは、まさに今この時のことです」と諫めた。当時は強大な藩鎮の多くが僭号して帝を称しており、太祖の心も動かぬではなかったが、延嗣が繰り返し極諫して不可を力説した。太祖はその言を快くは思わなかったが、生涯臣節を失わなかったのは、延嗣にも功があったと言える。

王繼韜

  • 継韜は惠宗の次子である。康宗が福王であったとき継韜と折り合いが悪く、李倣の変で陳后とともに死んだ。

王繼鎔

  • 継鎔は惠宗の第三子である。康宗が継厳の兵権を罷めたのち、継鎔に六軍を判じさせた。

王繼恭(臨海郡王)

  • 継恭は惠宗の子である。通文年間に威武節度使となり、康宗は上表して嗣位を晋に告げさせた。翌年、晋は継恭を臨海郡王に封じた。連重遇の乱で、継恭は諸王とともに陀荘で死んだ。

王繼嚴(建王)

  • 継厳も惠宗の子である。康宗の時に建王に封ぜられ判六軍諸衛事となり、士卒の心を得た。康宗が内心これを忌み、まもなく兵権を罷めて名を継裕と改めさせた。永隆年間に継厳の名に戻され泉州刺史を授かったが、また衆望を得たので景宗に憎まれ、毒殺された。

王仁達

  • 仁達は惠宗の甥である。功を積んで楼船指揮使に至った。
  • 王延禀が再び福州を攻めたとき、仁達は舟中に甲兵を伏せ、偽って白旗を立てて降伏を申し出、延禀の子の継雄を斬り、さらに兵を放ってその衆を撃った。側近が延禀を担いで逃げたが、仁達に捕らえられた。
  • 仁達は大功を立てた後そのまま親兵を統率した。気性が激しく、事を論じて憚るところがなかったので、惠宗は内心これを忌んだ。
  • ある日、惠宗が「趙高が鹿を指して馬と言い二世を欺いたというが、本当にそんなことがあったのか」と尋ねると、仁達は「秦の二世が愚かだったから趙高が馬だと言えたのです。高が二世を愚かにできたのではありません。今、陛下は聡明であられ、朝廷の官も百人に満たず、起居動静をすべてご存じです。もし威福をほしいままにする者があれば、一族を滅ぼすだけのことです」と答えた。惠宗は恥じ入り、金帛を賜って慰めたが、退いてから人に「仁達の智略は自分の代なら使えるが、後の患いを残してはならぬ」と言い、結局、罪を捏造して殺した。

王繼圖

  • 継図は惠宗の甥である。永隆年間に同平章事・判六軍諸衛となった。

王亞澄(閩王)

  • 亜澄は景宗の長子である。永隆年間に瑯琊王に封ぜられ、数か月で威武節度使兼中書令に遷り、長楽王と改号し、翌年、閩王に進封された。
  • 連重遇・朱文進の乱は、実は亜澄の母の李后が煽って引き起こしたものである。詳しくは本紀にある。亜澄自身もその乱で死んだ。

王繼柔

  • 継柔は景宗の甥である。景宗がかつて九龍殿で群臣に宴を賜ったとき、継柔は杯を重ねるのに耐えられずひそかに酒を減らした。景宗は怒り、酒を勧めた客将ともども斬った。

王繼隆

  • 継隆も景宗の甥である。ある日、酔って礼を失し景宗に殺された。国人はこれを冤罪と考えた。

王繼沂

  • 継沂は天徳帝の子である。国が亡んだ後は広陵に住んだ。後周の世宗はその州を得ると、格別に手厚く保護した。

王繼昌

  • 継昌は天徳帝の甥である。天徳帝が殷国を建てると門下侍郎・同平章事とし、まもなく殷を閩に戻して福州を南都としたとき、継昌にその地に鎮せしめ南都内外諸軍事を督させた。
  • 継昌は暗愚で酒を好み、軍士をいたわらなかったので、李仁達が乱を起こし、守将の呉成義とともに府舎で死んだ。

王繼成

  • 継成は天徳帝の甥である。朱文進が王氏を滅ぼしたとき、継成と継勲の二人は血縁が遠かったので命を全うできた。留從效が泉州で継勲を奉じると、漳州の将・程謨もまた刺史の程文緯を殺して継成を立て州の事を代行させた。継成は唐に帰順を申し出、久しくして唐は継成を和州刺史に移し、その官で生を終えた。

太祖女某郡主

  • 郡主は封号が伝わらない。太祖の娘である。福州の北嶺に「胭脂団」という場所があり、周囲二百余歩、土は肥えているのに草木が生えず、四季を通じて濃い紅色を呈する。言い伝えでは、郡主の化粧の楼がそこにあったという。