黄諷
- 黄諷は出身地を欠く。康宗の淫虐を諫めるため、妻子に別れを告げてから謁見した。康宗が杖罰を加えようとすると、黄諷は「臣が国を誤らせ不忠であったのなら死んでも恨みません。しかし直諫して杖を受けることは、死んでも承服できません」と言った。
- 庶民に落とされて帰郷した。
林省鄒
- 林省鄒は福州の人。何度も科挙に応じたが及第しなかった。気概があり節を曲げなかった。
- 通文年間、政事が日ごとに悪化するなか、晉の使者・盧損が来聘した折に、林省鄒はひそかに盧損に語った。「わが主君は君に仕えず、親を愛さず、民を憐れまず、神を敬わず、隣国と睦まじくせず、賓客を礼遇しない。長く保てるはずがない。私は僧衣をまとって北へ逃れよう。いずれ上国でお目にかかる」。
- その後の消息は分からない。
葉翹――福王の師傅として
- 葉翹は永泰の人。博学で実直であった。惠宗が福王の友(東宮官)に抜擢し、六軍判官を兼ねさせ、福王には師傅の礼で遇するよう命じた。宮中では「國翁」と呼ばれ、事に当たって多くの益をもたらした。
葉翹――康宗への諫言と致仕
- 福王が帝位を継いで康宗となると、葉翹を内宣徽院使に進め政事に参与させた。しかし康宗はしだいに驕り高ぶり、葉翹と諮ることがなくなった。
- ある日、朝政の最中に葉翹が道士の服で庭を通り抜けようとした。康宗は呼び戻して拝礼し、「軍国の事が多く、久しく応対しなかったのは自分の過ちである」と言った。葉翹は「老臣の輔導が至らず、陛下に一つの善もないありさまです。どうか骸骨を乞いたい」と答えた。康宗は「先帝が自分を公に託されたのだ。政令が善くなければ公が思うままに諫めればよい。なぜ自分を棄てて去るのか」と言い、金帛を厚く賜って慰めた。
- 元妃の梁國夫人は李敏の娘であったが、賢妃の李春鷰が寵愛されたため、夫人は康宗に顧みられなくなった。葉翹は「夫人は先帝の甥にあたり、陛下は礼をもって迎えられたのです。新しい寵愛のゆえに遺物のように棄ててよいものですか」と諫めた。康宗は従えず、たいそう不快とした。
- まもなく葉翹は再び上書して政事を論じ、その紙の末尾に「一葉、風に随って御溝に落つ」と書き添えた。ついに永泰に帰され、天寿を全うした。
鄭元弼――晉への使者
- 鄭元弼は康宗に仕えて禮部員外郎となった。通文年間、方物を晉に貢納した際、康宗が執政に宛てた書状の文言が無礼で、「閩国は運が興ってから久しく年を経た。北辰の帝座がしきりに移るのを見、東海の風帆は阻まれること多し」といった趣旨があり、さらに対等の敵国の礼で書簡を往来させることを求めていた。
- 晉の高祖は激怒し、鄭元弼を獄吏に付した。裁きが定まって引見されると、鄭元弼は「王昶は蛮夷の君で礼義を知りません。その善言を喜ぶに足らず、悪言を怒るにも足りません。陛下はいま大信を示して遠方の人を招こうとしておられます。臣は使命を果たせませんでしたので、斧鑕に伏して王昶の罪を贖いたい」と奏した。晉の高祖は非凡と認め、絹を賜って帰らせた。
鄭元弼――景宗への諫言と最期
- まもなく景宗が立つと、鄭元弼は諫議大夫となった。
- 景宗があることで御史中丞の劉贊を杖打とうとし、劉贊が自殺しようとしたとき、鄭元弼は「古来、刑は大夫に及ばぬもの。中丞は百僚の儀範であり、笞杖を加えるべきではありません」と諫めた。景宗が色を正して「お前は魏鄭公(魏徵)のつもりで強く諫めるのか」と言うと、鄭元弼は「陛下が唐の太宗に似ておられるなら、臣が魏鄭公であってもよいでしょう」と答えた。景宗は喜び、劉贊を釈して笞たなかった。
- まもなく禮部尚書に移り三司を判した。朱文進が君を弑して自立すると、鄭元弼は抗弁して屈せず、罷免されて郷里に帰されたが、建州へ奔ろうとしたところを朱文進に殺された。
王倓
- 王倓は出身地を欠く。通文年間に累進して同平章事となった。剛直で権勢を恐れなかった。
- 当時、景宗は左僕射でありながらすでに強情で異心を抱いていたので、王倓はことあるごとに正面から抑えつけた。景宗も王倓を憚って事を起こせなかった。
- 新羅国が使者を送って来聘し、宝剣を献じた。康宗がそれを王倓に示して「これは何に使うものか」と問うと、王倓は「臣にして不忠なる者を斬るものです」と答えた。かたわらにいた景宗は顔色を変え、幾日も落ち着かなかった。
- 景宗が即位した後、新羅がまた剣を献じた。景宗は王倓の先の言葉を思い出したが、王倓はすでに死んでいた。恨みが収まらず、墓を暴いてその屍を斬らせた。王倓の顔は生けるがごとくで、血が体を流れた。聞く者はみな痛ましく思った。
黄峻
- 黄峻は景宗に仕えて諫議大夫となった。永隆年間、宗室の多くが罪もなく死んだので、黄峻は「みだりに刑罰をふるって快とするなら、滅亡は立ちどころに来る」と言い、棺を担いで朝堂に至り、極言して諫めた。景宗は「老いぼれが狂ったか」と言い、漳州司戸參軍に落とした。
- 黄峻はまた人に「国事がこのありさまでは、永隆どころか大昏元年とでも言うべきだろう」と語り、そのために憂えて没した。
陳光逸
- 陳光逸も景宗の臣で、校書郎を歴任した。景宗が王倓の墓を暴いて屍を斬ったのを見て、友人に「主上の失徳はここまで来た。滅亡は日を置かぬだろう。私は死をもって諫めたい」と言った。友は止めたが聞かず、上書して景宗の大きな悪事五十余件を挙げ、頭を叩いて血を流し、改めるよう勧めた。
- 景宗は激怒し、衛士に数百回鞭打たせたが死ななかったので、縄で首を括って木に吊るし、長い時間をかけて絶命させた。
潘承祐――閩への帰参と諫言
- 潘承祐は晉安の人。はじめ呉に仕えて光州司法參軍となったが、郡の重大な訴訟を争って通らず、官を棄てて閩に帰り、大理少卿にまで進んだ。
- 天德帝が富沙王であったころ、鎮武節度使を領し、潘承祐を度支判官に招いた。当時、景宗と対立して兵を整え攻め合っていたので、潘承祐は極言して諫めたが容れられなかった。
- 福州の使者が来たとき、富沙王は甲兵を大閲して誇示し、その言辞はいよいよ不遜であった。潘承祐が長跪して切諫すると、富沙王は怒って左右に「お前たち、私のためにこの判官の肉を食らってやれ」と言った。潘承祐は「不義に生きるより、義を抱いて死ぬほうがよい。事勢がこうなった以上、早く死ぬのが幸いです」と答えた。しばらくして怒りは解けた。
潘承祐――殷の十事の上奏
- 富沙王が殷帝を称すると、潘承祐を吏部尚書とし、まもなく同平章事を加えた。当時は寵臣の楊思恭が権を握っており、潘承祐はまたこれと争い、さらに十事を陳奏した。その大略は次のとおりである。
- 一、兄弟が攻め合い、天理に逆らい傷つけていること。
- 二、賦斂が煩重で、力役に節度がないこと。
- 三、民を徴発して兵とし、旅先で愁い怨んでいること。
- 四、楊思恭が人の衣食を奪い、怨みを主上に帰させているのに、群臣が誰も言えないこと。
- 五、領土が狭いのに州県を多く置き、官吏を増やして民を苦しめていること。
- 六、道を開き糧を携えて臨汀を攻めようとし、金陵(南唐)・錢塘(呉越)が虚に乗じて襲うことを憂えていないこと。
- 七、富裕な戸の財を調べ上げ、多く出す者を官に補し、滞納する者に刑を加えていること。
- 八、延平の諸津で菜・魚・米に税を課し、得る利はきわめて僅かなのに怨みは甚だ大きいこと。
- 九、唐・呉越と隣接しながら、即位以来一度も使者を通じていないこと。
- 十、宮室や台榭の造営・装飾に際限がないこと。
- 上奏が届くと官爵を削られ、私邸に押し込められた。
潘承祐――南唐での登用と晩年
- 唐の査文徽が建州を破ると、礼を尽くして潘承祐を迎えた。唐の元宗は衛尉少卿に任じ、鴻臚卿に移して南方の事を委ねた。人材の登用・降格や郡県の設置について、その意見がしばしば用いられた。
- 陳誨・林仁肇・許文稹・陳德誠・鄭彦華を推薦し、いずれも功績をあげた。
- 老病により骸骨を乞い、禮部尚書として致仕し、洪州の西山に隠棲して没した。
- 子の潘慎修は風格が奥ゆかしく文史に広く通じ、宋に入って翰林侍讀學士となり、文集五卷がある。
史論(黄諷ら諫臣たち)
- 黄諷は率直で屈せず、林省鄒は孤高の憤りを隠さず、葉翹は極諫して退けられ、鄭元弼は激烈に仁を成した。いずれも濁世にまれな人物である。王倓は剛直、陳光逸は愚直ゆえにともに淫刑に遭い、いわれのない罪に倒れた。黄峻が憂えて死んだのに比べても酷い。潘承祐は十の弊害を陳べて堂々と直言し、仕える先に忠を尽くしながら咎められた。王氏が長く祚を保てなかったのももっともである、とする。
湛温
- 湛温は光州の人。嗣王の時に御史大夫・國子祭酒を務めた。
- 当時、太祖の養子の王延稟が建州を守り、嗣王と不和であったので、使者を送って虚実を探らせた。嗣王は湛温にその使者を饗応させ、あわせて毒殺するよう命じた。
- 湛温は開戦の端緒となることを恐れ、道中の高安山西嶺で自ら毒を仰いで死んだ。国中の人が哀れみ、その地を「祭酒嶺」と呼んだ。
董思安
- 董思安は莆田の人。身の丈九尺、勇は当代に冠たるもので、王忠順と親しかった。
- 朱文進が景宗を弑し、その一党の黄紹頗を泉州刺史に任じると、董思安は王忠順および泉州の軍将・留從效と謀って王氏の復興を図り、黄紹頗を殺して天德帝の甥の王繼勲を迎えて軍府の事を主宰させた。
- 南唐の兵が建州を急襲すると、董思安は王忠順とともに兵を率いて救援に向かったが、たびたび敗れた。ある者が二人に去就を考えるよう説くと、董思安は「我らは代々王氏の臣である。今、危ういからといって背いて去れば、天下の誰が我らを容れようか」と言った。麾下の者はその言葉に感じて、誰も叛かなかった。
- 城が陥ちて王忠順は力戦して死に、董思安は軍を全うして泉州へ帰った。
- のちに南唐が漳州刺史に任じたが、董思安は父の名が「章」であることを理由に辞退したので、元宗は漳州を「南州」と改めた。当時、留從效の弟の留從願が副使であったが、ついに董思安を毒殺して自ら州の事を執った。
- 王忠順は晉江の人である。
林仁翰
- 林仁翰は景宗に仕えて南廊承旨となった。
- 朱文進が連重遇とともに景宗を弑して自立すると、林仁翰は仲間に「我らは代々王氏に仕えてきた。今、賊臣に制せられている。富沙王が到着したら、どの顔で見えようか」と語り、三十人を率いて甲をまとい連重遇の邸に押しかけた。連重遇は兵を厳しく整えて自衛しており、三十人はそれを見て次々に逃げ去った。
- 林仁翰は槊を執って真っすぐ進んで連重遇を刺し、その首を斬って衆に示し、「富沙王がまもなく着く。お前たちは族滅されるぞ。連重遇はすでに死んだ。今すぐ朱文進を取って罪を贖わないか」と言った。衆は勇み立って従い、ついに朱文進を斬り、殷の将の吳成義を福州に迎え入れた。
- のちに林仁翰が天德帝に謁見したとき、賞賜はごく薄かったが、林仁翰は終始自分の功を口にしなかったので、人々はこれを高く評価した。
劉瓊
- 劉瓊は固始の人。天德のはじめに永平鎮將となった。南唐が建州に侵攻すると兵を率いて救援に向かったが、軍が鏞州に至ったところで天德帝がすでに唐に降ったと聞いた。
- 兵たちは劉瓊を王に推そうとしたが、劉瓊は義として受けず、自ら首を刎ねて死んだ。部将がその屍を収めて山麓に葬り、郷里の人が祠を建てて祀った。
史論(湛温・董思安・林仁翰・劉瓊)
- 湛温が自ら毒を仰いで釁端を防いだのは、その志に哀れむべきものがある。董思安・王忠順・林仁翰・劉瓊は身を捨てて国に尽くし、生死は分かれてもその大意は一つで、みな王氏の忠臣である。「疾風に勁草を知る」というが、この四人にそれを見た、とする。
顔仁郁
- 顔仁郁は泉州の人。太祖に仕えて歸德場長となった。当時は土地が荒れ民が離散していたが、顔仁郁が撫育すると、一年で幼子を背負って人が集まり、二年で荒れ地が開かれ、三年を経て民の暮らしは足りるようになった。
- 詩百篇があり、婉曲に人情を尽くしていたので、町の人々が道々で歌い、「顔長官詩」と呼ばれた。
賈郁(字は正文)――仙遊令としての峻厳
- 賈郁は字を正文、候官の人。文策をもって太祖に売り込み、仙遊主簿に補せられ、任期を終えて令となった。
- 峻厳で人の過ちを容さず、身を正して法を奉じたため吏の賄賂を戒め、吏の多くが畏れ憚った。
- ある客が新しい果物を贈ったところ、賈郁は「これも民間のものではないか」と言って受け取らなかった。客が「わが家の新しい果物で、まだ誰も知りません」と言うので、賈郁が「あなたに子弟はいるか」と問うと「兄弟三人と子が数人」と答えた。賈郁は「古人は四知を畏れた。あなたが知り、弟が知り、子が持ってきたのを知る。古人の倍だ」と言った。客は大いに恥じて退いた。
賈郁――鉄船の言と再任
- 交代の際、一人の吏が庭で酔いつぶれていた。賈郁が怒って「私はもう一度この邑を治めてお前を懲らしめてやる」と言うと、吏は「あなたがまた来るのは、鉄の船を造って海を渡るようなものだ」と言いふらした。
- 惠宗が即位すると賈郁は賛善大夫に抜擢され、再び仙遊令となった。折しくもかの酔った吏が庫史となって官銭数万を盗んだ。賈郁は文書の末尾に「銅銭を盗んで家を潤したのは鋳造によったのではなく、鉄の船を造って海を渡ったのは炉と鎚を借りたのではない」と書きつけ、ついに罪に処した。
- のちに福清に移り、考課を満たして御史中丞に召された。
方仁岳
- 方仁岳は歙の人。父の方延範は唐末に長汀・古田・長樂の三県の令を歴任し、泉州莆田縣に仮寓した。六人の子はみな太祖父子に仕えた。方仁岳は秘書少監となり、職務に適う人物と評された。
陳洪濟
- 陳洪濟は出身地を欠く。はじめ同安の令、続いて晉江の令となり、いずれも学を興して士を教えたので、王氏の循吏の筆頭とされた。
林揆
- 林揆は建州の人。天德年間に永順場官となった。戦乱が続くなかで政治は簡素を旨とし、民は大いに便とした。
- 南唐が建州を得ると場を昇格させて順昌縣とし、引き続き林揆を令とした。