僧延夀
- 僧延寿は字を冲立といい、本姓は王氏、余杭の人である。七歳にして『法華経』を誦し、七行を一度に読み下し、群羊にひざまずいて聴く者があった。年十六のとき、文穆王が余杭を鎮しており、延寿は「斉天賦」を献じ、衆はみな官に取り立てようとした。二十八歳に至って華亭鎮将となり、官銭をもって放生したことで死罪に問われたが、文穆王がこれを赦し、出家することを許した。衣は繒纊(絹綿)を用いず、食は重ねた味を用いなかった。久しくして天台の智者巌に住んで習定すると、斥鷃(小鳥)がその衣裓(衣の裾)に巣をかけたことがあり、禅観の中で観音がその口に甘露を灌ぐのを見て、ついに弁才を獲た。已にして僧徳韶に謁見し、薪が堕ちる音を聞いて悟るところがあった。徳韶は「汝は元帥(呉越王)と縁がある。他日大いに仏事を興すであろう」と語った。建隆元年(960年)、忠懿王は霊隠寺を重ねて創建し、延寿にその事を主らせ、後に永明道場に遷した。心をもって宗とし、悟りをもって旨とし、弟子一千七百人を得度させ、『宗鏡録』一百巻を著し、毎日一百八の善を行うことを期し、また『心賦』一巻を注し、『抱一子』若干巻を著した。「むしろ心の師となれ、心に師事するな」と言い、また「数が尽きれば群有はみな虚しく、名が廃れれば万象は自ずと畢わる」と言った。智覚禅師の号を賜った。開宝八年(975年)に卒し、永明宗照太師と謚された。延寿の声望は異国にも及び、高麗王は常に書を投じて道を問い、弟子の礼を執って、金糸で織った伽梨(袈裟)・水晶の数珠・金の澡瓶などを奉じ、僧三十六人を遣わして親しく印証を承けさせ、相継いで帰国して各々一方を教化させた。