十国春秋卷八十八 吳越十二 列傳 胡進思
要約
胡進思は湖州の人で、もと屠牛を業としていたが軍に投じ、鎮海軍の麾下に隷した。文穆王が宣州の田頵のもとに人質となった際に戴惲とともに親しく左右に近侍して危機をともにし、文穆王即位後は旧恩を推されて大将に用いられ、次第に右統軍使に遷った。忠献王の代には王が年少であったため旧将としての権勢をいっそう恃み、当初は闞璠と親しみ専権を振るったが、のち程昭悦と密かに謀ってこれを外の州へ出させるなど、権謀を弄び反復する性質を早くから示した。
忠遜王の即位後は、その厳格な統治にしばしば狎れて侮られたが不平を鳴らせず、王が大いに水軍を閲し賞賜を旧例の倍にした際に厚すぎると固く諫めて筆を水中に投げつけられ叱責されたことを深く恨みに思い、家に帰って忠献王の位牌を設け髪を被って慟哭した。また牛肉の目方をめぐる会話から、忠遜王に屠牛出身の素性を暴かれたと思い込んで恥じ恨むなど猜疑を募らせ、自ら建議した李孺贇の閩帰任がまもなく叛乱を招いて切責されたことでもいよいよ自ら安んじられなくなった。忠遜王が水丘昭劵・何承訓と進思排斥を謀ると、承訓が事の露見を恐れて逆にこれを進思に密告したため、進思は内牙兵を擁して夜宴の場に踏み込み忠遜王を義和院に幽閉し、王命と偽って忠懿王を迎えて擁立した。忠懿王はこれを畏れ憚って意のままにさせたが、廃王殺害の再三の要求だけは拒み続け、進思は不満と憂懼を深めるうちに背に疽を発して病死した。
南宋の襲茂良「湖州霊昌廟記」には、正史とは異なる伝承として、進思が暴戻な忠遜王を直諫して疎まれ、禍いを恐れてやむなく廃立を行ったのち一族を台州・寧波方面へ散らして隠棲し、郷里で稼穡に努めて徳政を施し、没後は廟に祀られて水害・旱害・疫病の祈願に霊験を示し、方臘の乱鎮圧にも神助を現したという顕彰的な逸話が付記される。史論は、徐綰の乱を招いた武肅王の智謀と対比しつつ、主君を廃した罪魁でありながら天誅を免れ自邸で没した点を「幸い」と評し、髙澧の凶悪とも対比しながらその性の由来を論じる。
現代語訳全文
胡進思
- 胡進思は湖州の人で、もと屠牛を業としていたが、すでに軍に従い鎮海軍の戯下に隷していた。文穆王が宣州の田頵のもとに人質となったとき、進思は戴惲とともに親しく左右に随い、危機に遭うことが数度あった。文穆王が立つと、旧恩を推して進思を大将に用い、次第に右統軍使に遷した。忠献王が王位を継ぐに及び、王は年少であったので、進思は旧将であることを恃みにいっそう尊礼された。はじめ闞璠と親しみ権をほしいままにし専横していたが、自らはまた程昭越とひそかに謀って璠を外に出させた。その権を弄び反復することは、思うにその性が生来そうだったのであろう。忠遜王が跡を嗣ぐと、性は剛厳で、しばしば進思を狎れて侮った。進思は不平を鳴らせなかったが、忠遜王が大いに水軍を閲したとき、賞賜が旧例の倍となった際、進思は固く諫めて厚すぎると言った。忠遜王は怒って筆を水に擲ち、「物を軍士に与えるのに、どうして多少の限りがあろうか」と言った。進思は大いに恨んで退いた。進思は常に謀議するところがあったが、忠遜王はしばしば面と向かってこれを折った。進思は家に帰って忠献王の位牌を設け、髪を被って慟哭した。牛を殺した者があり、吏がこれを取り調べたところ、人が買った肉が近く千斤に及んだ。忠遜王は進思を顧みて「牛の大きなものは肉がどれほどあるか」と問うと、「三百斤を過ぎません」と答えた。王は「それなら史(役人の記録)はでたらめだ」と言った。よって進思にどうしてそう詳しく知っているのかを問うと、進思は踧踖として「主臣(恐懼して言う語)、臣はかつてこの仕事に従事しておりました」と言った。進思は忠遜王がその素性の生業を知っているために自分を辱めたのだと思い、いよいよ慚じ恨んだ。また進思は初め李孺贇を閩に帰す議を建てたが、まもなく孺贇が叛くと、忠遜王はこれを切責した。進思はいよいよ自ら安んじられなくなった。年の暮れになって、画工が鍾馗の撃鬼の図を献じると、忠遜王は詩を作ってその図の上に題した。進思はこれを見て大いに悟り、王が自分を殺すことに決したことを知った。たまたま忠遜王が水丘昭劵・何承訓とともに進思を逐うことを謀ったが、承訓が反ってこれを進思に漏らした。進思はついに内牙兵を擁して忠遜王を義和院に錮め、忠懿王を迎えてこれを立てた。忠懿王は進思を畏れ憚り、意を曲げてこれに下った。進思は数たび廃された王を除くよう請うたが、忠懿王は許さなかった。進思はここに至ってまた自ら内心憂懼するようになり、いくばくもなく背に疽を発して卒した(南宋の襲茂良に「湖州霊昌廟記」があり、胡進思の事を記すこと正史とやや異なる。ここに付録として載せる。その記に言う。「公は諱を進思、字を克開といい、霅川に家した。容貌は雄偉で、目の光は電のようであった。わずか四歳にして書を読むことができ、七歳にして文を為すことを知り、十七歳にして進士に挙げられたが第せず、毅然としてその業を棄てて剣術を学んだ。しだいに豪賢と交わりを結び、知略は衆に優れ、膂力は人に勝った。銭武肅王鏐の軍中に従って功を累ね、内衙統軍使・兵部尚書左丞に拝せられた。長興三年、武肅王が卒すると、子の文穆王が位を襲い、文穆王が卒すると子の忠献王佐が位を襲い、忠献王が卒すると弟の倧が位を襲った。倧は暴戻で荒淫であり、公はしばしば直諫してこれに疎まれ、禍いが自らに及ぶことを懼れて、そこで倧を廃してその弟の俶を迎えてこれを立てた。これが忠懿王である。公は嘆じて『位は将相を極めたが、偏方(辺境の一地方)に困しんでいることこそ恨みである。老いてすぐに去らなければ、我が一族は皆殺しになるだろう』と言い、ついに病と称して出仕しなかった。王はしばしば邸に至って強いてこれを起こそうとしたが、公は顧命(先王の遺命)を受けている以上退くことができなかった。そこで諸子にことごとく江を渡って台州・寧波の間に散り住まわせた。公の次子の慶は、奉化の童公嶺を渡ったところで石楼蓬島のような景勝の地を得て、初めて家を定めた。公は暇を請うて霅川に帰り、自ら子弟を率いて稼穡(農耕)に力を尽くし、暇には経史・騎射を教えた。夫人の杜氏もまた紡織をもって内家(一族の女たち)を率い、家は富み栄えたので、郷里の貧しい者を賑わし、喪葬を挙げることのできない者には田や家を分け与えて安んじさせた。他の邑からこれに依り来る者は争訟をやめ、姦しく頑なな者を教化して、礼俗互いに譲り合うようになった。既にしてまた銭氏が自ら王位を図ったことで内難が起ころうとしたため、やむを得ず杭州に戻って公署に至り、すでに変事を聞いて年九十八歳、疽を発して亡くなった。長子の工部尚書璟は棺を奉じて帰り葬った。郷の父老はみなその徳義を思って祠を立てて祀った。祠が完成すると、隣人の陳什が酔って庭下で舞い、すぐさま嘔血して死にかけたが、公の子の慶が再拝すると蘇り、酔った者は『しばらく試したまでだ』と降りて言った。その後、通りかかる客は敬礼してあえて正視しなかった。水害・旱害・疫病が起これば、これに祈ればこだまのように応じた。宣和年間、睦州の賊の方臘が起こると、上(皇帝)は童貫に浙江・淮南の宣撫を命じてこれを討たせた。裨将の楊可世は便道を取って急ぎ、祠の下に兵を駐めたが、その夜、夢に神が告げて『私はあなたのために一戦を助けよう』と言った。朝に祠の下に謁でると、夢中に見た神そのものであった。兵は睦城に至り、甲兵が白馬を擁して前導するのを見て、大いに賊兵を破りついに臘を擒えて帰った。よってその功績を朝廷に奏上し、廟額を『霊昌』と勅賜された。淳熙年間、父老がまた勅により『霊昌廟』の額を賜るよう請うた。夫人の杜氏は邢国夫人を贈られ、官として祀られた」)。
史論
- 論じて言う。徐綰は狼子野心(けだもの同然の心)を抱き、ついに乱の階(きっかけ)を成した。どうして武肅王の智謀が杜司馬(杜稜)に劣っていたと言えようか。胡進思は兵を挟んで主君を廃し、罪の首魁でありながら天誅を免れ、ついに牖下(自邸)で死んだのは幸いであった。澧はその凶悪をほしいままにして家の名声を墜としたが、父子兄弟の忠逆がこのように等しくないのは、要するにその性が生まれつきそうであっただけである。二人の陳(陳詢・陳璋)は危うきに傾き反復して、動けば二心を懐いた。ああ、彼らとは君臣の義を語り難いものである。