十国春秋十國春秋卷八十九 吳越十三 列傳(僧侶・道士)

僧文喜

  • 文喜は嘉興義和鎮の人。もとの姓は朱氏。七歳で僧となり、戒律を厳格に守った。洪州の仰山禅師のもとに参じ、その一言で頓悟した。久しくして五台山に詣で、千頃山に庵を築いた。
  • 黄巣の乱に遭って湖州に避難し、仁王院に住した。唐の光啓三年(887年)、武粛王が龍泉寺に住するよう請い、のちに聖果寺に住した。奏薦により紫衣を賜り、「無着」の号を加えられた。
  • 光化二年(899年)、無着院に移った。ある日、衆に「三界の心が尽きれば、それがすなわち涅槃だ」と告げ、言い終わると結跏趺坐したまま逝った。霊隠の西の谷に葬られた。
  • 徐綰が叛いたとき、田頵が兵を放って大いに掠奪し、文喜の塔を暴いたが、肉身はそのままで、髪と爪が伸びて絡まっていた。人々は不思議がった。武粛王は裨将の邵志に命じて改めて封じて埋葬させた。
  • 同じころ、虚受・鴻楚・従礼・恵明といった僧がいて、いずれも王に尊崇された。

僧無作

  • 無作、字は不用。姓は司馬氏。蘇州の人。母の戴氏が身ごもったとき、徐姓と名乗る沙門が「もと流水寺の住持だが、ここに寄って安居したい」と言う夢を見て、内心不思議に思った。まもなく無作が生まれた。
  • 無作は幼くして聡明さが群を抜き、出家を願ったが父が許さなかった。まもなく髪を剃り、閩の僧の義存に参学して奥義に深く入った。
  • 武粛王が敬慕して明州に住むよう召したが、無作は機を見て辞退し、「恩を受けて国に入ったが、病と称して山に帰る」という趣旨の詩を残して帰った。

僧昭

  • 昭は術数に通じ、武粛王に厚く重んじられて「国師」と号された。
  • ある日、昭が王に謁したとき、宮中の子どもが傍らで遊んでいて銭を数十文落とした。王が「早く拾え。人に踏み割られるぞ」と言うと、昭は笑って「あなたの銭を踏み割るには、牛でなければできますまい」と言った。
  • のちに忠懿王が一族を挙げて宋に入り、そのために国が除かれた。王の生まれ年が丑だったので、「牛が銭を踏む」の予言が的中したのだという。

僧幼璋

  • 幼璋はもと唐の相国の夏侯孜の甥。大中の初め(847年ごろ)、夏侯孜が広陵に鎮したとき、幼璋は七歳で随行し、慧照寺に遊んで『法華経』を誦するのを聞き、強く出家を願った。
  • 咸通十二年(871年)、江陵に至ると、騰騰和尚が「天台に行き、静かなところを探して棲め。『安』に出会ったらそこで止まれ」と戒めた。まもなく憨憨和尚に出会い、背を撫でて「お前は四十年後、巾子山の麓に江南の菩薩王が出る。そのとき、わが道は隆盛となろう」と記した。
  • 幼璋は天台山に至り、静安に福唐院を創建した。その予言はよく的中した。のちに隠龍院に住した。
  • 天祐三年(906年)、武粛王は使者の童建に衣服・香薬を持たせて西府に招き、志徳大師と署して功臣堂に住まわせ、日々自ら法を問うた。幼璋は毎年天台山で金光明道場を開き、諸郡から大衆を集めることを請うた。
  • 久しくして帰ろうとしたとき、王は府城に瑞龍院を建て、開法を祈請した。当時は禅門が興隆しており、これも予言と符合した。
  • 宝正四年(929年)四月、王に墳塔を乞うた。王は陸仁章に西関で吉地を選ばせて院を建てさせ、天台の隠龍を隠迹と改めた。塔が完成すると、幼璋は府に入って王に暇乞いをし、護法を託して、期日を定めて逝った。

僧自新

  • 自新はもと不思議な僧である。いつも楮の衣を着て広徳山院に住んだ。
  • 天宝年間、淮南の将の李濤が衣錦軍を侵そうとしたとき、文穆王は応援使として兵を率いて防いだ。その地に至ると人々は逃げ去っていたが、自新だけは動じずに端座していた。軍中の者が理由を問うと、「あたりは兵ばかり。去ってどこへ行くのか」と答えた。
  • そのとき文穆王は兵たちの中にいて、服装も士卒と同じだった。自新は突然衣を正して敬礼し、長く語り合った。文穆王は帰るときに同乗させて連れ帰り、ゆったりと「あのときどうして私が分かったのか」と問うた。自新は「私に他の術はありません。ただ公の骨相が非凡で、咸通皇帝の御影にそっくりだと見て取り、幸いにも見知ることができたのです」と答えた。
  • また占い師が文穆王を見て「この人は自らの手で百人を斬り、大いに貴くなる」と言った。その術も自新と同類である。

僧全付

  • 全付は会稽の人。父に従って商人として豫章に至ったとき、禅の集まりの盛んなのを聞いて出家を願い、宜春の仰山に赴いて南塔に礼した。
  • のちに東府に戻り、文穆王が特に厚く礼遇して紫の方袍を賜ったが受けず、代わりに衲衣を賜り、「純一禅師」と号された。全付は「私は言葉を飾っているのではない。後の人が私を真似て欲を逞しくするのを恐れるのだ」と言った。
  • 天福二年(937年)、東府の武将が雲峰山を開いて院を建て、「清化」と名づけた。開運年間(944-946年)、坐したまま亡くなった。そのとき大風が林の木を揺さぶり、しばらくしてようやく静まった。

僧道怤

  • 道怤、字は順徳。永嘉の陳氏の子。六歳で葷を食べず、親族が無理に干魚を食べさせても吐き出した。本州の開元寺で髪を剃った。
  • のちに閩に赴いて雪峰禅師に謁し、宗旨に妙く契合した。当時は「小怤布衲」と呼ばれた。帰って東府の鏡清寺に住し、雪峰の法を唱えると、学ぶ者が押し寄せた。
  • 副使の皮光業は学識が広く、しばしば論難を仕掛けたが、退いて人に「怤師の高論は、誰もその極みを窺い知れない」と語った。
  • 文穆王は天龍寺を主管させ、のちに龍冊寺を創建して住まわせた。天福の初め(936年ごろ)に示寂し、龍冊山に塔を建てた。

僧霊照

  • 霊照は高麗の人。はじめ閩中に入って雪峰禅師の妙旨を得た。日ごろは衲衣一枚で細々とした雑務に励んだので、閩の人は「照布衲」と呼んだ。
  • のちに杭州の龍華寺に住み、天福年間に大慈山で没した。

僧徳韶

  • 徳韶は処州龍泉の陳氏の子。母の葉氏が白光が体に触れる夢を見て身ごもり、生まれてからも不思議なことが多かった。
  • 十五歳のとき、梵僧がその背を押して「お前は世に出るべき者だ。俗塵の中には置いておけない」と言った。そこで開元寺で髪を剃り、満分の戒を受けた。
  • ある日、龍牙禅師の居遁のもとを訪れ、「天は覆わず地は載せず、この理はいかに」と問うた。居遁は「まさにそのようであるべきだ」と答え、徳韶は茫然とした。のちに僧の文益に会って、長年のわだかまりが氷が解けるように消えた。
  • 当時、文益は法眼宗を立てており、徳韶に「お前は後に国王の師となり、大いにわが道を弘めるだろう。行くがよい、自愛せよ」と言った。
  • そこで天台に遊び、智者大師の遺跡を見ると、まるで昔の住まいのようだった。徳韶は智者と同姓であったので、当時の人はその後身だと言った。
  • 開運年間、忠懿王が台州に鎮していたとき、徳韶は王に「他日、覇主となられたら、仏恩をお忘れなく」と言い、さらに「ここはあなたが治めるべき所ではない。速やかに国城に帰りなさい。さもないと不利です」と告げた。王が急ぎ帰ると、果たして胡進思の変が起きた。
  • 王は位を継ぐと徳韶を杭州に迎え、国師として尊崇した。徳韶の説法は簡潔明快で枝葉を切り捨てた。いつも「眼中に色の識はなく、色中に眼の識はない。眼と識の二字はともに空である。どうして色を見るのが眼だと言えようか」と説いた。その立論はこの類が多い。
  • 開宝四年(971年)、山頂の西峰が突然崩れ、音が山中に響いた。徳韶は「わしも長くはあるまい」と言った。翌年六月、大きな星が峰の頂に落ち、林の木が白く変じた。徳韶は蓮華峰で病を示したが、参問への応答は普段どおりだった。まもなく衆を集めて別れを告げ、結跏趺坐して逝った。

僧行脩

  • 行脩は泉州の人。もと陳氏の子。生まれたとき異香が室に満ちた。耳が長く肩まで垂れていた。七歳になっても口をきかず、ある人が「唖か」と言うと、突然「本物の名人に出会わなければ、いたずらに煙楼を打ち壊すだけだ」と応じた。
  • 長じて方外に遊び、金陵の瓦棺寺で剃髪して具足戒を受け、雪峰義存に参じた。
  • 武粛王の天宝年間、行脩は四明山中に至り、独り松の下に棲んで説法すると、天の花が雨のように降った。また龍尾岩に趺坐し、茅を結んで屋根とすると、百鳥が花をくわえて飛びめぐった。
  • 宝大元年(924年)、杭州の法相院に来て、石に寄りかかって室とし、その中で禅定した。水が乏しくて飲めなかったが、錫杖を岩の際に突き立てると清らかな泉が湧き出た。
  • 乾祐の初め(948年ごろ)、忠懿王が誕生日に永明寺で僧に斎を供したとき、行脩は全身に疥癬を負ったまま上座に座り込んだ。王はひどく無礼と見て追い出させた。斎が終わってから、僧の延寿が王に「長耳和尚は定光仏の応身です」と告げた。王は急ぎ車を駆って参拝したが、行脩は黙して「永明はおしゃべりだ」と言うのみで、まもなく結跏趺坐して化した。
  • 久しくしてもいよいよ肌は脂を帯びて潤い、爪と髪が伸び続けたので、寺では毎月三度、清めをした。僧たちは長く経てば損なわれることを恐れ、その遺体に漆を塗った。のちに宗慧大師の号を賜った。

僧羲寂

  • 羲寂は天台の国清寺に住み、教法を弘めるのに巧みだった。
  • 忠懿王が『永嘉集』を読んで、「同じく四住を除くも、ここは斉しとなす。もし無明を伏せば、三蔵に……」の句の意味が分からず、国師の徳韶に問わせた。徳韶は「羲寂なら必ずこの語が分かる」と答えた。
  • 王が羲寂を召して問うと、「これは智者大師の『妙玄』の中の文です。しかし安史の兵乱で損なわれ、近くは会昌の廃仏で焼かれ、中国の教蔵はほとんど失われました。今はただ海東の高麗が教を盛んに弘めており、完本はあちらにあります」と答えた。
  • 王はただちに国書と贈り物を持たせて高麗に使者を遣わし、一家の章疏を求めた。高麗の君主は国僧の諦観を答礼の使者として、天台の教部を呉越に返した。諦観は到着すると螺渓のほとりで羲寂に学んだ。王は定慧院を建て、羲寂に浄光大師の号を賜った。東から戻った教蔵はすべて羲寂に託された。まもなく没し、九祖と追諡された。
  • 仏典にはまた、羲寂が徳韶に「智者の教えは新羅にのみ善本がある。大きな力を借りて取り寄せたい」と語り、徳韶がこれを申し上げたので、忠懿王が使者を海路で遣わして書写して帰らせた、と伝える。上の伝えとはやや異なる。

僧延寿

  • 延寿、字は冲立。もとの姓は王。余杭の人。七歳で『法華経』を誦し、七行を一度に読み下した。羊の群れがひざまずいて聴くこともあった。
  • 十六歳のとき、文穆王が余杭に鎮しており、延寿は「斉天賦」を献じた。人々はみな官に就けようとした。
  • 二十八歳で華亭鎮将となったが、官の銭で生き物を放生したため死罪に問われた。文穆王は赦し、出家を許した。以後、絹や綿を着ず、食事も味を重ねなかった。
  • 久しくして天台の智者巌に住み、禅定を修めた。鶉が衣の裾に巣を作ったこともあった。禅観の中で観音が甘露を口に注ぐのを見て、以来、弁才を得た。
  • のちに僧の徳韶に謁し、薪が落ちる音を聞いて悟った。徳韶は「お前は元帥と縁がある。他日、大いに仏事を興すだろう」と言った。
  • 建隆元年(960年)、忠懿王が霊隠寺を再建したとき、延寿にその事を主管させた。のちに永明道場に移り、心を宗とし悟を旨とし、弟子千七百人を得度させた。
  • 『宗鏡録』百巻を著し、毎日百八の善行を実践することを期した。また『心賦』一巻に注し、『抱一子』若干巻を著した。「心の師となるとも、心を師とするな」と言い、また「数が尽きれば群れなす存在はみな虚であり、名が廃れれば万象は自ずと終わる」とも言った。
  • 智覚禅師の号を賜り、開宝八年(975年)に没した。諡は永明宗照太師。
  • 延寿の名声は異国にも及び、高麗王はしばしば書を寄せて道を問い、弟子の礼を執って、金糸で織った伽梨(袈裟)・水晶の数珠・金の澡瓶などを奉り、僧三十六人を遣わして自ら印可を受けさせた。彼らは相次いで帰国し、それぞれ一方を教化した。

僧賛寧の出自と律学

  • 賛寧はもとの姓は高氏。先祖は渤海の人で、隋末に徳清県に移り住んだ。祖父の高琄、父の高審はいずれも徳を隠して仕えなかった。
  • 宝正年間、杭州の霊隠寺に身を捨てて僧となった。のちに天台山に入って具足戒を受け、四分律を学び、南山律に通じ、毘尼(戒律)の著述を行った。当時の人は「律虎」と呼んだ。
  • 監壇に署され、また両浙僧統となった。当時、銭塘江の潮がときに石塘を越えて溢れたので、賛寧は延寿とともに江のほとりに塔を建てて鎮めた。潮はこれ以来もとの道に戻った。

僧賛寧の宋での活躍

  • 太平興国三年(978年)、忠懿王が宋に入ったとき、賛寧は舎利真身塔を奉じて随行した。太宗はその名を聞いて滋福殿に召して対面し、紫の方袍を賜り、まもなく「通慧」の号を賜った。
  • 翰林史館編修に充てられ、『高僧伝』三十巻、『内典集』百五十巻、『外学集』四十九巻を編纂した。杭州の旧寺に帰ることを許されたが、まもなく汴京に召されて天寿寺に住した。
  • 参知政事の蘇易簡が詔を受けて三教の事跡を撰したとき、賛寧と太乙宮の道士の韓徳純に分担させるよう奏請し、左街講経首座に任じられた。至道元年(995年)に西京教門事を知し、咸平元年(998年)に右街僧録に充てられた。八十余歳で没し、円明大師と諡され、龍井に葬られた。
  • 賛寧は博識で弁説が縦横だった。徐鉉が江南に仕えていたころ、寝具を包んで澄心堂に宿直に入ろうとして飛虹橋に至ると、馬が進まなくなり、鞍を裂き轡を断ち、手綱を引きちぎって後ずさりした。徐鉉が使いを出して賛寧に尋ねると、賛寧は「下に海馬の骨がある。水も火も損なえないが、ただ腐った酒糟に漬ければ壊れる」と答えた。徐鉉が土を掘ると、果たして柱の一節のような巨獣の骨が出た。薪を積んで三日焼いても動じなかったが、腐った糟に漬けるとたちまち腐った。
  • 徐知諤が牛を描いた一軸を得た。昼は柵の外で草を食み、夜は柵の中に戻って臥す絵だった。これを江南の後主に献じ、後主は早馬で宋の太宗に献上した。群臣は誰もその理を説明できなかった。
  • 賛寧は「南倭の海の水が減ると砂州がわずかに露出する。倭人は方諸の蚌を拾う。その干物の中に残った涙があり、顔料に混ぜて物に塗ると昼は隠れて夜に現れる。また沃焦山では風に揺られて石が海岸に落ちることがあり、それを拾って水に浸して磨り、色をつけて物を染めると、昼は明らかで夜は暗くなる。この二つの姿は、おそらくこの二つの物で描かれたのだ」と説いた。群臣は根拠がないと言ったが、賛寧は「この事は張騫の『海水異物記』に載っている。諸公が見ていないだけだ」と答えた。のちに杜鎬が三館の書目を調べたところ、果たして六朝の旧本の中から見つかった。
  • 賛寧はまた『通論』を著し、董仲舒を駁し王充を難じ、顔師古を斥け蔡邕を証し、『史通』を非とするなどの説を立てた。ほかに『筍譜』『物類相感志』などの書がある。王禹偁は深く敬服した。
  • 七十八歳のとき、至道の九老会に加わった。王処訥はかつてその禄命を推して「師は病がちで孤独で貧しく、法によれば貴くも長寿でもないはずだが、ありがたいことに生まれた時にちょうど天貴が門に臨んでいる」と言った。賛寧は「母が言うには、私が生まれたとき、武粛王が衣錦軍に墓参りに行き、門前を通ったところ雨が降り出し、長く茅葺きの軒下に留まっていたそうだ。それがこの応験だろう」と語った。

僧儀晏

  • 儀晏は湖州の許氏の子。唐の乾符三年(876年)に生まれた。生まれたとき異香が室に満ち、紅い光が昼のようだった。
  • 光啓年間、父が信安に鎮したのに従い、無理に妻を娶らせようとしたが、儀晏は従わず、諸方を遊歴した。のちに父母のもとに帰ったが、家の傍らの陳司徒廟に凛禅師の像があり、儀晏が礼拝に行くと、たちまち行方が分からなくなった。
  • ある日、湖州の守が祠で祭祀を行ったとき、儀晏が廟の裏の竹叢の中で入定しているのを見た。蟻が衣を食い、落ち葉が腿まで埋もれていた。ある者が「これは許鎮将の子だ」と言った。
  • これ以来、括蒼に赴いて僧の徳厳に参じ、そこで剃髪した。山中で桃を摘みに行って十日も帰らないことがあり、見に行くと、桃の枝につかまり石に寄りかかったまま静かに入定していた。
  • 開運年間、江郎巌に遊んで石龕を見つけ、弟子の慧興に「私はこの中で入定する。お前は石を積んで入口を塞げ。私のことは気にするな」と言った。慧興は戒めどおりにした。翌年開けてみると、儀晏は白髪が肩にかかり、胸はまだ温かく、ゆっくりと定から起き上がり、少しも変わった様子がなかった。
  • のち信安の烏巨山に戻った。侍郎の慎知礼が衢州に鎮したとき、僧の守栄にその入定の様子を問い詰めさせたが、儀晏はまったく弁明しなかった。守栄が像を礼拝すると舎利が数枚得られ、「晏公はまことに浅はかには測れない」と嘆じた。
  • 忠懿王がある夜、師が来て会う夢を見て、使者を遣わして肖像を描かせた。像が届いたとき、王はちょうど眼病を患っていたが、像を広げて礼拝すると舎利が雨のように降り、眼病はたちまち癒えた。そこで開明禅師の号を賜った。
  • 宋の太宗が便殿に召して対面し、ゆったりと禅定のことを語ったところ、深く上意にかなった。久しくして山に帰ることを許され、淳化元年(990年)に没した。寿は百五十歳という。

僧弥洪

  • 弥洪はもとより道行があった。開運元年(944年)、杭州の煙霞洞の入口に庵を結んだところ、神人に出会い、「山の裏手に優れた遺跡がある。なぜ世に顕さないのか」と指し示された。弥洪がまもなく洞内を探すと、石に刻まれた羅漢が六体見つかり、篤く祀った。
  • のちに弥洪が死んでから、忠懿王がある夜、僧が「われら兄弟は十八人だが、今はまだ六人しかいない。王よ、私のために集めてくれないか」と告げる夢を見た。王は目覚めると侍臣に命じて探させ、洞に至って、夢に符合するよう十二体を補刻させた。

僧清聳

  • 清聳は福州の人。はじめ法眼禅師の文益に参じ、文益は「一滴一滴が上座の眼の中に落ちている」と言ったが、清聳ははじめその意が分からなかった。のちに『華厳経』を読んで感悟した。
  • 明州の四明山に留まって庵を建てると、節度使の王の弟の銭弘億が師の礼をもって仕えた。忠懿王は衣錦軍の二か所で開法させ、のちに国城の霊隠上寺に住まわせ、了悟禅師と署した。
  • 開宝四年(971年)、忠懿王が『華厳経』を読み、天冠菩薩の住処を尋ねたが、高僧を大勢集めても知る者がいなかった。清聳はかつてその場所を聞いていたので、使者を閩の支提山に遣わし、『華厳経』八十二本を得た。そこで天冠の千体の像と金の灯が四方に輝くのを幻のように見た。
  • 奏上を受けて王は金を投じて寺を建て、天冠の銅像を鋳造して海路で運ばせた。途中で颶風が起こり、船人は半分を水に沈めたが、寺に着いてみると水に投じた半分もすでに到着していた。国中の人はみな不思議がった。

僧契盈

  • 契盈は閩の人。内外の学に通じ、あるとき仙人に出会って三彭を絶つ法を授かった。三彭とは三尸のことである。
  • 広順年間(951-953年)、杭州の龍華寺に来て住み、広弁周智禅師の号を賜った。
  • 契盈はとりわけ機知が速かった。ある日、忠懿王に従って碧波亭に遊んだとき、潮がちょうど満ちて舟が集まり、見渡しても首尾が見えなかった。王は喜んで「呉越国は京師から三千里だ。一筋の水の利がこれほどとは、誰が知ろうか」と言った。契盈は「三千里の外の一条の水、十二時の中の二度の潮、と申せましょう」と答えた。当時の人は絶妙な対句と称えた。当時は江南と通じておらず、両浙の貢賦はおおむね海路で青州に達していたので、こう言ったのである。

僧道潜

  • 道潜は河中の人。もとの姓は武氏。若くして臨川の僧の浄慧を訪ねると、一目で法器と見て「わが道は東に行った」と言った。のちに法眼禅師の文益に謁すると、文益は「お前は後に五百人の門徒を持ち、王侯に重んじられるだろう」と言った。
  • まもなく衢州の古寺に庵を結び、大蔵経を読んだ。顕徳の初め(954年ごろ)、忠懿王は西府に迎えて菩薩戒を受け、慈化定慧禅師の号を賜り、慧日永明院に住まわせた。
  • 道潜はかねて忠懿王に羅漢の銅像を求めたいと思っていたが、まだ口に出していなかった。王は突然、十八人の巨人が付き従う夢を見た。翌日、道潜が申し出たので、王は不思議に思って許し、道潜の号に「応真」の二字を加えてその奇瑞を表した。
  • 道潜が永明に住したとき、堂に登って法を問う者は常に五百人だった。文益の言はここに至って的中した。

僧希弁

  • 希弁は蘇州常熟の人。幼くして出家し、本邑の僧の啓祥に礼して落髪し、具足戒を受けた。のちに楞伽山で僧律の講義を聴き、まもなく天台に謁して心印を受けた。同時代の徳韶と並び称された。
  • 乾徳の初め(963年ごろ)、忠懿王は東府の清泰院に住まわせ、慧智禅師と署した。
  • 太平興国の初め、王が宋に入朝したとき、希弁は宝塔に従って赴き、太宗に滋福殿で謁見して大いに慰労され、紫衣を賜り、「慧明」と号された。
  • 端拱年間、帰郷を願い出ると、御製の詩および御書の『急就章』『逍遥詠』『秘蔵詮』『太平聖恵方』百三十巻を頒賜して寵とした。常熟の山院に七層・高さ二百尺の塔を建てた。

僧志逢

  • 志逢は余杭の人。三学に通じ、性と相を了達した。顕徳年間、五雲山に茅屋を結んだ。
  • ある日、静坐していると、突然神人が前にひざまずいた。志逢が「お前は誰か」と問うと、「護戒の神です」と答えた。志逢が「私には前世の罪がまだ消えていないのが心配だ。お前は知っているか」と問うと、「師に何の罪がありましょう。ただ鉢を洗った水を捨てているのが、わずかな過ちにすぎません」と答えて姿を消した。志逢はこれ以来、器を洗った水をすべて飲み、長年のうちに脾の病を得て、十年でようやく癒えた。
  • 大将の凌超が特に華厳道場を建てて「静慮庵」と名づけ、主席に招いた。
  • 乾徳の初め、忠懿王が召して紫衣を賜り、雲棲寺を築いて住まわせた。雲棲の谷にはもともと虎が多かったが、志逢はいつも大きな扇を携えて銭を乞い、肉を買って虎に与えた。虎は志逢に出会うと必ずおとなしく伏したので、世に「伏虎禅師」と称され、一つには「大扇和尚」とも呼ばれた。のちに普覚と諡された。
  • 当時ほかに、僧の紹巌は了空大智常照禅師と号し、僧の清昱は円通妙覚禅師の号を賜り、僧の支蟾は慈悟禅師の号を賜った。僧の行明は六合寺に住まわされ、僧の慧居は龍華寺を主管させられ、僧の永安は報慈寺に住まわされた。ほかは詳述しない。

僧願斉

  • 願斉は姓は江氏。銭塘の人。はじめ忠懿王とともに天台の徳韶に参じ、まもなく雁蕩山に遊んで平陽県に庵を結んだ。
  • あるとき登座していると、「夜の月が光を放っても、碧潭に影はない」と問う者があった。願斉が「なぜ影をもてあそぶのか」と答えると、その人は西に立ち位置を変えた。願斉はさらに「影をもてあそぶだけでなく、頭を怖がってもいるようだな」と言った。
  • 王は深く敬重し、普照道場を建て、平陽一郷の税をもってその費用に充てた。

釈岩

  • 釈岩は銭塘の湖心寺に住み、もっぱら『法華経』を誦し、一万部を満たして浄土に生まれることを期した。
  • あるとき蓮の花が陸地に生えたので、岩は身を焼いて西方三聖に報いようと誓った。忠懿王は力を尽くして止めた。ある日、蓮の花の光が身を照らすのを見、三日後に喜んで坐したまま逝った。

僧徳倫

  • 徳倫は永嘉の人。世に「錐刀尊者」と称された。いつも錐と刀を持ち歩いていた。それをねだる者があると、「錐と刀を私から求めるのか。この刀が地に落ちれば天下は太平になる」と言った。まもなく忠懿王が納土したので、人々はその予言が的中したとした。言い伝えでは、国城の西の河はもと徳倫が掘ったものだという。

僧彙征

  • 彙征は詩文をよくし、文集七巻がある。忠懿王のとき僧正に任じられ、光文大師の号を賜った。

銭朗

  • 銭朗は洪州の人。若くして五経で科挙に及第し、唐に仕えて累官して光禄卿に至った。文宗のころ廬山に隠棲し、補脳還化の術を得た。
  • 武粛王は西府に招き、師の礼をもって仕えた。当時、銭朗の曽孫・玄孫の数人はいずれも明経で邑令となっており、白髪の老人となって階の下に拝したが、銭朗の容貌は子どものようだったので、人々はみな不思議がった。
  • ある夕べ、突然家人に「今しがた上清に召された。もう行く」と言い、まもなく息絶えた。数日たっても顔色は生きているようで、棺を上げてみると遺体はすでに解け去っていた。年は百七十余歳であった。

閭丘方遠

  • 閭丘方遠は舒州の人。州の天柱山の麓に生まれ、幼くして聡明だった。二十九歳で香林の左元沢、廬山の陳玄悟を師とし、天台の葉蔵質から法籙を伝えられ、いずれも大義に通暁して真伝を得た。
  • 方遠はもとより黄老の術に精しく、儒学も好み、博学多聞であった。『太平経』十二篇を撰して世に行われた。
  • 唐の龍紀の初め(889年ごろ)、たびたび召されたが応じなかった。景福年間(892-893年)に名山を遍歴し、余杭の天柱に至って、その地を格別と見て留まった。
  • 武粛王は厚く礼遇し、しばしばともに洞霄宮の地相を検討し、天柱観を南向きに改めた。奏請により紫衣を賜り、太極宮を再建して住まわせ、洞玄先生の号を賜った。
  • 天復年間、ある日、異香が室をめぐり、突然、鶴を操るような姿になって、安らかに逝った。のちに仙都山でその姿を見た者があり、人々はみな尸解したのだと考えた。
  • これに先立ち、羅隱が方遠に子書を授かりに来たとき、方遠は必ず目を閉じたまま授け、他のことは何も語らなかった。弟子の夏隠言が「羅記室は令君の上客です。先生はなぜ語らないのですか」と問うと、方遠は「羅隱は才が高いが性が下る。私は書を授けているのだから、みだりに他事に及びたくないのだ」と答えた。その厳格さはこの通りであった。

鶴衣道人

  • 同じころ、鶴衣道人という者がいた。どこの郡県の人か、姓名も分からない。日々酔って処州の鳳凰山の麓に臥していた。あるとき里の女に罵倒されると、衣に息を吹きかけて鶴に変え、それにまたがって去った。ついにどんな術かは分からなかった。後の人は祠を建てて祀った。今の報恩光孝宮がそれである。

韓必・呉崧

  • 韓必と呉崧は、唐末に呉珙・呉頊・皮光業・林昇・羅隱・何粛とともに長城の八座山に住み、「八友」と号した。まもなく次第に散り散りになった。
  • 武粛王のとき、二人はともに洛塢に隠れ、日々煉丹を事とした。羅隱を遣わして招かせたが、二人は石壁の中に隠れてしまった。今もその場所は「二仙石壁」と呼ばれる。

張契真

  • 張契真は銭塘の人。生まれつき異相で、青い骨と四角い瞳をもち、姿は痩せた鶴のようだった。幼くして箱を背負って胡法師に従って学び、のちに道で朱天師に出会った。天師は一目見て喜び、「お前の骨相は仙となるべきものだ」と言い、要訣を授けた。
  • まもなく樊先生から霊宝籙を受け、真聖宮に独り住むこと数年、蕊笈・琅函の秘伝を繙いて深く微旨を得た。
  • 忠懿王は三籙斎の事を主管させた。宋に帰してからは、太宗が太乙宮に住むよう選び、召して対面して紫衣を賜り、道書を校訂させ、元静大師の号を賜った。
  • ある日、朱衣の吏が符檄を持って契真に職に就くよう促すのを見た。まもなく沐浴して没した。火葬にすると、青黒い色の珠が数升得られた。

暨斉物

  • 暨斉物、字は子虚。杭州の人。玉清観の朱君緒に師事して法籙と神符・秘方を受け、人を救うのに倦まなかった。
  • のちに師に従って大滌山に入り、岩洞に寄って室とし、また垂象楼を建てて道書数千巻を蔵し、朝夕に検討して精微を究めた。聴く者は誰も倦むことを忘れた。
  • 忠懿王が弟子の得度を賜ろうとしたところ、斉物は「静けさを楽しんで久しく、弟子を持つことは望みません」と答えた。
  • 住まいの壁の東西にそれぞれ隙間を設け、日と月の光を取り入れていた。久しくして突然、左右の者に「私はまた羅浮の石楼のあたりへ行く」と告げ、そのまま行方が分からなくなった。

朱霄外

  • 朱霄外は台州の道士。もとより道術があり、忠懿王に知られた。そこで台州の白雲庵を修めて棲霞宮とし、霄外に主管させた。