十国春秋十國春秋卷八十八 吳越十二 列傳(呉仁璧・毛勝ら)
呉仁璧
- 呉仁璧、字は廷宝。蘇州の人。一説に秦の人ともいう。若くして星占いや錬金術(黄白の術)の説を学んだ。唐の大順年間(890-891年)に進士に及第した。
- のち浙に入ったが家が貧しく、しばしば狂ったふりをして市中で物乞いをした。武粛王はその名を聞いて賓客の礼で遇し、天象について尋ねたが、仁璧は自分の知るところではないと辞退した。幕府の職に招こうとしたが、詩を作って固辞した。
- 秦国太夫人(王の母)が薨じたとき、礼幣を揃えて墓誌銘を依頼したが、仁璧は頑として草稿すら書こうとしなかった。武粛王は激怒し、仁璧を川に投げ込んで殺した。詩集一巻が世に伝わる。
- これより前、仁璧は廬山の道士のもとで数年学んだ。道士が「仙道を学ぶ気はあるか」と問うと、仁璧はあくまで功名を求める志を述べた。道士は「科挙の及第など塵を拾うようなものだ。ただ後年、英雄に関わるな」と言った。この最期でその言葉が的中した。
- 仁璧には十八歳の娘があり、詩をよくし天文の学に精通していた。日ごろから仁璧に、出入りを慎んで羅網にかかるなと戒めていた。仁璧が捕らえられると、娘は泣いて「文星が位を失った。父上は逃れられまい」と言った。まもなく王は娘も東の小江に沈めた。
方昊
- 方昊、字は太初。青渓の人。唐末に生まれ、唐が滅びると仕えるべき朝ではないとして、岩谷に隠棲した。武粛王がしばしば招いたが応じず、上貴の精舎で門人を集めて講学し、生涯を終えた。郷里の人は感化され、静楽先生と称した。
孫邰
- 孫邰は明州奉化の人。幼くから気概が高く、博学で才能に富み、唐末に左拾遺となった。朱全忠が唐を簒奪すると、『春秋無賢人論』を著し、そのまま冠と礼服を脱いで布衣となり、奉化山に帰って隠棲した。著書の紀年はすべて干支を用い、新王朝の臣とならぬ意を示した。
石延翰
- 石延翰は明州の人。父の石渝、兄の石延俸はいずれも招聘に応じて顕貴となったが、延翰だけは強藩に仕えるのを恥じ、沃洲山の白雲谷に隠居して書史を楽しんだ。のちに白雲先生の号を贈られた。
宋栄
- 宋栄は婺州義烏の人。本州の覆釜山の麓に隠居し、『尚書』『春秋』に通じた。広順年間(951-953年)、忠懿王がたびたび徴召したが応じなかった。学ぶ者は私的に文通先生と諡した。
厳永
- 厳永は温州永嘉の人。はじめ南唐に仕えて顕官を歴任したが、ある日、乱を避けて帰り、平陽の青華山の洞穴に冠と礼服を隠し、人に雇われて働き自活した。
- (欠字)王の命を受けた使者が人相書きで探し当てたので、厳永はやむなく洞穴から衣冠を取り出して赴いたが、まもなくまた姿を消し、行方は知れなかった。士人はその場所を厳公岩と名づけた。
范賛時
- 范賛時は蘇州の人。父の范夢齢は広陵王の子の銭文奉と親交があり、中呉軍節度推官となった。
- 賛時は博識で著述をよくし、編纂した『資談』六十巻は世に多く所蔵された。
- 子の范墉は忠懿王に仕えて有能の名があり、国が亡ぶと王に従って宋に入り、武寧軍掌書記で終わった。
史論
- 呉仁璧が王の母の墓誌銘を書かなかったことを、行き過ぎで身を全うする知恵に欠けると譏る者もいる。しかし私はそうは思わない。匹夫にも志があり、終始変えぬのが立派なのだ。富貴に怯えて侯王の前で口ごもる士は世に満ちている。仁璧のような者を烈士と言わずして何と言おう。方昊・孫邰・石延翰・厳永は岩谷に高く身を処し、宋栄・范賛時は典籍に心を遊ばせた。いずれも賞すべきところの多い人々である。
毛勝と「水族加恩簿」
- 毛勝、字は公敵。晋陵の人。忠懿王に仕えて功徳判官となった。諧謔を好み、上品な冗談を楽しんだ。
- 自ら水郷に生まれて魚介を食べ飽きているとして「天饞居士」と号した。また土地に魚・蝦・海産物など他所にないものが産することから、「水族加恩簿」を作り、滄海龍君の命という体裁を借りて、それぞれに品位と序列を与えた。趣向は精妙で、文章は典雅で豊かである。
- その内容は、海の生き物一つひとつに人名めいた呼び名と官爵を授ける形をとる。以下はその授爵の顛末である。
- 独歩王の江殊(江瑤貝)は、鼎に入るべき仙の姿、瓊瑤のような紺の身をもち、天賦の美味で絶品と称される。よって流碧をもって霊淵国とし、玉桂仙君の号を追贈し、海珍元年と称する。
- 章丘大都督・忠美侯の滄浪頭(章挙=タコ)は、浪に隠れて色が奇であり、八本の腕は最上とされる。杜口中郎将・白中隠(車螯=ハマグリの類)は厚い徳を負い、雄々しい姿を内に秘める。殊形中尉兼霊甘尹の淡然子(蚶菜=アカガイの類)は形こそ異様だが、実に芳しく鮮やかである。玉徳公の季遐(蝦の頭)は内に純潔を含み、外に爽やかな妙味を示す。
- よって滄浪頭を霊淵国上相・無比とし、白中隠を含珍大元帥・豊甘上柱国兼脆尹とし、淡然子を天味大将軍・遠勝王とし、季遐を清綃内相・頡羹郡王とする。
- 多黄尉には尺一の詔を代行させる。南寵(蠘=ワタリガニ)は断然たる姿で海に住み、天が巨材を授けた。よって黄城監・遠珍侯を授ける。
- 専盤処士の甲蔵用(蝤蛑=ガザミ)は、もとより蠘の副と称され、人々に蟹の師と認められている。よって爽国公・円珍巨美功臣を授ける。
- 甘黄州甲杖大使の咸宜作、解蘊中(蟹)は、脚の身が豊かで妙、鋏の徳が満ちている。よって糟丘常侍兼美君を授ける。
- 解微子(彭越=小蟹)は姿かたちが祖に似て、風味も独自だが、噛み砕いてもさして味わいがない。下位に置くべきである。よって爾郎黄少相を授ける。
- 合州刺史の仲扃(蛤の類)は二枚の宅を重く背負い、閉じこもって開かない。すでに含津令に任じ、慤誠君に昇らせた。身を粉にする功は大きく報いがたい。よって紫暉将軍・甘鬆左右丞監試を授ける。
- 甘円内史の霊蛻先生(文=イカの甲か)は、外に脇のしわがなく、内に喉に刺さる骨の煩いがない。よって紅鐺祭酒・清腴館学士を授ける。
- 清臣の鱸(スズキ)は酔いを醒まし興を引く、鮮魚の郷の主である。よって撜虀録事・守招賢使者を授ける。
- 珍曹必用郎中の時充(鰣=ヒラコノシロ)は、鍋の材として本来美妙だが位は高くない。よって諸衙効死軍使・持節雅州諸軍事を授ける。
- 白圭夫子(鱭=エツ)は姿は痩せて清らかだが、素材としては極めて美俊である。よって骨鯁郷令を授ける。
- 甘鼎(黿=スッポンの大型)は鼎の味を調える才を極め、舌をとろかし唾を誘う。よって酔舌公に封ずる。
- 甲拆翁(鼈=スッポン)は、中に弾を挟むのは巧、外に荷を負うのは礼、甲冑で身を守り寒暑を問わぬのは智、歩みが緩やかで規矩を越えぬのは仁である。以前に擐甲尚書としてその事跡を栄えさせ能を顕した。よって金丸丞相・九肋君を授ける。
- 長尾先生(鱟=カブトガニ)は、呉越の人が「先生で醤を作れば中華に敵なし」と言う。よって典醤大夫・仙衣使者を授ける。
- 元鎮(石首=イシモチ)は小さいながら石を枕とし、子孫がすこぶる多い。よって新美舎人を授ける。
- 和羹長の朱子房(石決明=アワビ)は、酒がまわったころに香りが座に満ち、筋をつまんで少し口に入れれば神明がたちまち戻る。七つの孔をもつ姿かたちで、目の薬としては第一である。よって懐寄令使を授ける。
- 甘盤校尉(烏賊)は墨を吐いて身を守り、事を白く申し立てる評判がある。よって噀墨将軍を授ける。
- 元介卿(亀)は、卜占の焼き占いで吉凶を明らかにし、その司るところは大きい。よって通幽博士を授ける。
- 借眼公(水母=クラゲ)は身が不完全で、互いに助け合う。よって同体合用功臣・左右衛駕海将軍を授ける。
- 蔵珍(真珠)は車を照らし盤を走り、その価は計り知れない。班布(玳瑁=タイマイ)は簪に仕立て器を作り、金銀珠玉に劣らない。よって蔵珍に円輝隠士、班希に点化使者を授ける。
- 房叔化(牡蠣)は粉にして湯丸に用い、丹薬の器を包み護る。屈突通(梵響=法螺)は声を振るわせて遠くまで聞こえ、仏の音楽といえる。阮用光(砑光=磨き用の貝)は身を働かせて功を施し、物をみな滑らかに輝かせる。維幼文(珂=白い貝)は貝の孫のたぐいで、鞍や手綱の飾りに用いれば燦然として見ものであり、いささかの文彩がある。よって叔化に豪山太守・楽蔵監固済、突通に曲沃郎・梵響参軍・摂玉塔金舎、用光に検校大輝光・掌書紀、幼文に馬衣丞を授ける。
- 田青(螺螄=タニシ)は味が薄く取り柄がないが、世に珍しい品として調理されることがある。申潔(蛙)は青い皮に吹き出物があり、短い脚で跳ね回る。江伯彝(鱁鮧=魚の腸の塩辛)は宋の帝が好み、浮き袋の別名でもある。屯江小尉(江豚)は漁師が獲物として喜び、甘く肥えていると呼ばれる。よって田青に具体を授け、申潔に済饌都護・行水楽、伯彝に宋珍都尉・南海詹事、屯江小尉に追風試湯波太守を授ける。
- 錦袍氏(鱖=ケツギョ)は骨が疎らで肉が締まり、体に模様がある。よって蘇腸御史・仙盤遊奕使を授ける。
- 李本(鯉)は三十六枚の鱗をもち、大いに煮て尊ばれる。よって跨仙君子・世美公を授ける。
- 鮮于羹(鯽=フナ)は膾に切ると精妙で、杜甫にも称えられた。よって軽薄使・銀糸省饜徳郎を授ける。
- 楚鮮(白魚)は釜に隠れ糟に沈み、その価は淮甸を傾ける。よって傾淮別駕を授ける。
- 縮項仙人(鯿=ヘラブナの類)は腹が張り鱗が星のようで、襄陽・漢水一帯で名高い。よって槎頭刺史を授ける。
- 食寵侯(鱘鰉=チョウザメ)は節々がまだらで、風格が高く爽やかである。よって添厨太監を授ける。
- 単長福(鱓=タウナギ)は曲がり伸びが定まらず、鮮度も味も申し分ない。よって泥蟠掾を授ける。
- 管統(葱管)は野菜の伯として煎り和えに備わる。よって長白侯・同盤司箸局平章事を授ける。
- 備員居士(東崇)は生臭く粗末で形も悪く、俗人にしか取られない。よって錬身公子を授ける。
- 唐少連(崇連)は池沼の下等な品だが、不足を補って厨房を満たす。よって保福軍節度使を授ける。
- 黄薦(河豚)は身が柔らかく貴ぶべきだが、調理を誤れば毒で害を及ぼす。だから世は「醇疵隠士」の名で呼ぶ。特に三徳尉兼春栄小供奉を授ける。
- 新餐氏(鰒)は飢えを癒す力はなく、清く酔わせる村めいた味しかない。新奇の妖しさで乱れを招き、膳に上っては勝手に食われ、物が人によって汚される。百代かけても洗えぬこの名を得たのには理由がある。特に輔庖生に補する。
- 蓋頑(蓋の類)は泥沙に生まれ、わずかに取るべきところがある。よって表堅郎を授ける。
葉簡
- 葉簡はどこの郡県の人か分からない。占候(気象と吉凶の占い)に巧みで、とくに風角の術に精しかった。武粛王に招かれて幕中にいた。
- 徐綰・許再思の乱のとき、王は龍泉にいて変を聞き、葉簡を召して筮を立てさせた。簡は「賊は王をどうすることもできません」と答えた。王が「淮南人が悪に加わるか」と問うと、簡は「淮南人は来ません。宣城(田頵)が賊を助けるだけです。しかし宣城も翌年には敗れます。今は憂うるに足りません」と答えた。すべてその通りになった。
- 天宝元年(908年)五月、旋風が南から来て机を三度めぐった。王が召して「これは何の兆か」と問うと、簡は「法によれば楊渥が死ぬはずです。急ぎ弔祭使を遣わせば、まず外れません」と答えた。王が「誕生日の祝賀使が出発したばかりだ。すぐに弔祭を言い立ててよいのか」と言うと、簡は「ともかく遣わしなさい。呉が理由を問うたら、貴国の動静はわが国ではすべて期日まで前もって定めており、寸分の狂いもない、と答えればよい」と言った。
- 王がそのとおりにしたところ、誕生日の使者が着く前日に呉の景帝(楊渥)が徐温に弑され、翌日に弔祭使が続いて到着した。楊氏の側近はまったく意表を突かれ、みな神業だと驚いた。
李咸
- 李咸は葉簡とともに武粛王の幕府にいた。徐綰・許再思の変のとき、王が李咸に占わせると、「大王の覇業はこれから長く続きます。ただ分野に小さな災いがあるだけですから、ご心配は無用です。そうでなければ大王ご自身が病に罹るところでした」と答えた。王は「わしが病むのはよいが、百姓を害してよいものか」と言った。のちにその通りになった。
- 天宝十六年(923年)、梁が王を呉越国王に冊立した。その前日に雨と雪が降り、王は李咸を召して別の日に改める占いをさせた。咸は「大王は二重の冊封をお受けになります。天が助けるのですから、雨雪は必ず晴れます。社稷の永続を占うに足ります」と答えた。武粛王が従うと、その夕には果たして星が明るく輝き、翌朝に儀礼を行うことができた。
朱景環
- 朱景環は算術が神妙だった。天宝年間、広陵王の銭元璙が中呉軍に鎮したとき、景環は盤門駅にいて、「ご着任後、法によれば三十年の安寧があります」と上書した。元璙はあまりに先の話なので不思議とも思わず、そのまま燭で焼き捨てさせた。
- 天福年間になって、ふとその事を思い出し、急ぎ景環を召して問うたところ、「数はすでに定まっています。大王は後事をお考えください」と答えた。まもなくその通りになった。
顧規
- 顧規はもと蘇州の玉工である。広陵王の銭元璙が別室で玉を磨かせていた。元璙はしばしば術士の朱景環を召して奇禽・遁甲の事を尋ねた。規は聡明な性で、たびたび盗み聞きして書き留めた。
- ある日、書き留めたものを景環に見てもらったところ、景環は規に学問を授け、規はその伝をすべて得た。
- 忠献王が自ら五廟を祀ろうとしたとき、規は上書して「翌日は明け方の五更以前が吉です。どうしても寅の刻を用いるなら、門を閉ざす星が南にあり、出入りできません」と述べた。翌朝、王が寅の刻に南門から車を出そうとすると、錠の内部が引っかかって長く開かず、ついに錠を壊して出た。これで規は名を知られ、忠献王は軍師に抜擢した。
目医の胡某
- 眼科医の胡某は出自が分からない。自ら代々内障・外障の眼病を治療してきたと言い、鍼の技はとりわけ神業だった。
- 武粛王が晩年に眼病を患い、召して治療させると、医者は「目は治すのはたやすい。しかし大王は常人ではない。おそらく天が大王のために患いとして与えたものだ。治せば天に背くことになり、寿命に益はあるまい」と言った。
- 王は「わしは行伍から身を起こして一方に君臨し、富貴を極めた。ただ両眼で物を見て鬼になれるなら、それも痛快ではないか」と言った。治療するとたちまち視界が開けた。王は喜んで万を数える品を賜ろうとしたが、医者は受け取らなかった。翌年、王は果たして薨じた。
喻皓
- 喻皓は工夫に巧みだった。(欠字)王がかつて杭州の梵天寺に七層の木塔を建てたとき、数層まで積んだところで塔が揺れて止まらなかった。棟梁が密かに皓に尋ねると、皓は「簡単なことだ。層ごとに板を張り終えてから、しっかり釘を打てば塔は固まって揺れなくなる」と答えた。国中の人はその熟練ぶりに感服した。
徐綰
- 徐綰はもと孫儒の将である。孫儒が死ぬと士卒を率いて武粛王のもとに奔った。王はその驍勇を愛し、その兵を中軍として「武勇都」と号し、綰を右都指揮使・行軍司馬に署した。杜稜がしばしば強く諫めて土地の者に代えるよう請うたが、武粛王は許さなかった。
- 天復二年(902年)、武粛王が衣錦城を巡ったとき、綰に軍勢を率いて溝渠を修めさせた。副使の成及は士卒の不満の声を聞いて労役の中止を請うたが、これも許されなかった。
- まもなく武粛王が諸将を饗応したとき、綰は席上で乱を起こす謀を立てたが果たせず、病と称して先に退出した。武粛王は不審に思った。数日後、綰に部隊を率いて先に杭州へ帰らせたところ、外城に至ると綰は兵を放って焼き掠め、左都指揮使の許再思が出迎えの兵をもって呼応し、牙城に迫った。
- 王子の銭伝瑛と将の馬綽・陳為・潘長らが門を閉ざして防いだ。武粛王は帰ってきて北郭門に至ったが入れず、成及が王の身代わりとなって綰と戦い、百余の首を斬った。綰は退いて龍興寺に屯し、王はようやく微服で入城できた。
- 王は馬綽・王栄・杜建徽らに諸門を分屯させ、さらに顧全武を広陵に遣わして呉の武帝を説き、子を人質に出した。綰は果たして宣州の田頵を呼んだが、呉の武帝が頵を急ぎ呼び戻したので、頵は武粛王から銭百万を取り、文穆王を人質にして帰った。綰と再思はともに頵に従って宣州に至った。
- のちに田頵が敗れると、呉は綰を捕らえて檻車で浙に送り返した。武粛王はその心臓をえぐって高渭の霊に供えた。
陳詢
- 陳詢は余杭の人。睦州刺史の陳晟の弟。晟は州に十八年在任して没し、子の陳紹権が跡を継いだが、詢は紹権を退けて自立した。武粛王の任命によらぬ地位なので内心落ち着かず、徐綰・許再思の乱に際して密かに田頵と通じた。
- 田頵が敗れるといよいよ恐れた。王が桐廬県を使府の直轄とし、あわせて軍賦を徴すると、詢はついに命に従わず、天祐二年(905年)に淮南へ奔った。
陳璋
- 陳璋は孫儒の一党である。兵が敗れて武粛王に降り、董昌討伐に従った功で任用され、次第に衢州制置使に進んだ。
- 天復の初め、田頵が侵入して塁を築き往来の道を絶ったので、王はその地を奪える者に州を賞として与えると募った。璋は兵を率いて奮戦し、その塁を占領したので、即日、衢州刺史に抜擢された。任地へ赴くとき、王は自ら江のほとりで送別し、格別の礼遇を示した。
- 徐綰が乱を起こしたとき、越州客軍指揮使の張洪は綰の一党であることから疑いを恐れ、歩卒三百を率いて璋のもとへ奔った。璋はただちに受け入れた。
- まもなく丁章が永嘉で叛き、宣州の田頵が部下の戚滔に招かせたとき、璋はまた道を貸して通した。王はこれを聞いて内心よく思わず、密かに衢州羅城指揮使の葉譲に璋を殺させようとした。事が漏れて、璋は葉譲を殺して叛き、東陽を陥れ、暨陽を侵し、自ら衢・婺二州刺史と称した。
- 久しくして浙の軍に追われ、淮南に奔った。右龍武統軍を歴任し、平章事を加えられた。死んだ日、乗馬が悲しげに鳴き、数か月後に斃れたので、人々はみな不思議がった。
- これに先立ち、武粛王が璋に衢州の築城を命じ、工事が終わって図面を献じたとき、王は西門の樟の木を見て左右に「この木が城内に入っていない。陳璋はわしが飼っておける者ではあるまい」と言った。その先見はこの通りであった。
高澧
- 高澧は湖州刺史の高彦の第三子。もと高彦が、仙人が刀を持って寝所に入る夢を見て驚いて理由を問うと、仙人は「あなたの子のために数千人の怨みを報いに来た」と答えた。まもなく澧が生まれた。
- 澧は十三、四歳ですでに残虐で我意を通した。天祐の末に父の職を継ぐと、ほしいままに殺戮を行い、酒に乗じて人を殺してその血を飲むのを好み、朝夕に必ず通行人を捕らえて食った。将吏は早朝に役所へ出るとき、多くが妻子と泣いて別れた。澧が消暑楼に登って眺めると、州城の東西の水陸の通行人はみな姿を消した。
- ある日、郷の壮丁を集めて牙軍とし、全員の顔に入れ墨を入れ、青い衫に白い袴をはかせ、緋の抹額を締めさせ、命令のたびに身をかがめて顔を上げさせ、夜叉のような形にした。
- また州の人に、三日以内に全員顔に墨を入れよ、期限を過ぎた者は誅すると約した。澧は自ら額に彫り頬に塗って粉をつけて見せた。州の人が入れ墨を終えると、澧は少しずつ洗い落として元の顔に戻した。その狂態はこうした類が多かった。
- 晩年、破滅が近づいたころ、突然、郡の吏を召して「わしは百姓を皆殺しにしたいが、どうか」と諮った。吏は「百姓は租税の出どころです。殺せば供給をどうしましょう。他に殺せる者をお探しください」と答え、澧は黙り込んだ。
- 当時、澧は諸県の三丁につき一人を徴し、定員を立てて「三丁軍」とし、三千余人を集めていた。彼らが怨んでいると告げる者があり、澧は全員を開元寺に集め、「お前たちを饗応する」と偽って三つの門の半分を閉ざして中に入れ、入った者を片端から殺した。半数近くを殺したところで外の者が気づき、逃げ散って乱を起こした。澧は激怒して城を閉ざして大捜索し、一人残らず殺した。
- 武粛王はその凶虐を憎み、兵を整えて罪を問おうと謀った。澧はそこで淮南の将の李簡らを手引きしてその境内に入れた。王は子の銭伝璙を遣わして防がせ、李簡らは澧を連れて逃げ去った。澧は淮南に至ってからも、しばしば妓女を私室に連れ込んで食い、ついに淮南人に殺された。
- これより前、僧の如訥は高彦と最後の別れをしたあと、人々に「高公はまもなく亡くなる。私もまた逝くだろう。白面の夜叉がこの郡を治めることになる。お前たちは避けたほうがよい」と言った。まもなく澧が父に代わった。「白面」というのは、澧がまだ顔に墨を入れていなかったからである。
- また澧は太常博士の丘光庭を招いて校書楼に置いた。ある夜、澧が沓と靴下のまま楼に登ったとき、光庭がふと振り返ると青い顔の鬼の姿を見て大声を上げた。しばらくして澧の姿が見えた。澧はひそかに「博士、決して口外するな」と言った。呉興の人はみな澧を夜叉の精だと言った。
胡進思
- 胡進思は湖州の人。もと牛を屠るのを業としていたが、従軍して鎮海軍の麾下に属した。
- 文穆王が宣州の田頵のもとに人質となっていたとき、進思は戴惲とともに近侍として付き従い、幾度も危機をくぐった。文穆王が立つと旧恩を思って進思を大将に用い、次第に右統軍使に進めた。
- 忠献王が位を継いだとき、王が若かったので、進思は旧将をもって任じ、大いに尊重された。はじめ闞璠と親しんで権勢をかさに横暴だったが、のちには程昭越と密かに謀って闞璠を外に出した。権を弄び態度を翻すのは、まさに天性であった。
- 忠遜王が跡を継ぐと、剛毅厳格な性で進思をひどく侮ったので、進思は不満を抱いた。忠遜王が水軍を大閲して、賞賜を以前の倍にしたとき、進思は手厚すぎると強く諫めた。忠遜王は怒って筆を水に投げ、「軍士に物を与えるのに、多い少ないの制限があるか」と言った。進思は深く恨んで退いた。
- 進思が何かを議するたび、忠遜王は面と向かってたびたび論破した。進思は家に帰ると忠献王の位牌を設け、髪をふり乱して慟哭した。
- 牛を殺した者があり、吏が取り調べたとき、市に出した肉が千斤近くあったと記していた。忠遜王が進思を顧みて「牛の大きなものは肉がどれほどか」と問うと、「三百斤を超えません」と答えた。王は「では記録は出鱈目だ」と言い、続いて「なぜそんなに詳しいのか」と問うた。進思は恐れ入って「恐れながら、臣は昔これを生業としておりました」と答えた。進思は忠遜王が自分の前歴を知っていて辱めたのだと思い、いよいよ恥じ恨んだ。
- また進思は最初に李孺贇を閩に帰す策を建議したが、まもなく孺贇が叛いたので、忠遜王は厳しく責め、進思はますます身の置きどころがなくなった。
- 歳末、絵師が「鍾馗撃鬼図」を献じたとき、忠遜王がその図に詩を題した。進思はこれを見て、王が自分を殺す決意を固めたと悟った。
- 折しも忠遜王が水丘昭券・何承訓と進思を追放する謀を立てたが、承訓が逆に漏らした。進思は内牙の兵を率いて忠遜王を義和院に幽閉し、忠懿王を迎えて立てた。
- 忠懿王は進思を恐れ憚り、意を曲げて下手に出た。進思はたびたび廃王の始末を請うたが、忠懿王は許さなかった。進思はこれで内心恐れ憂え、ほどなく背に疽を発して没した。
史論
- 徐綰は狼の子のような野心をもち、ついに乱の階梯となった。武粛王の智慧は杜司馬(杜稜)に及ばなかったのだろうか。胡進思は兵を擁して主君を廃し、罪の首魁でありながら天誅を免れ、畳の上で死んだ。幸運というほかない。高澧は凶悪をほしいままにして家名を落とした。父子兄弟でどうして忠と逆がこれほど違うのか。要するに生まれつきなのだろう。二人の陳氏(陳詢・陳璋)は危うきに乗じて翻り、動けば二心を抱いた。ああ、君臣の義を語り合える相手ではない。