十国春秋卷八十八 吳越十二 列傳 髙澧
要約
髙澧は湖州刺史高彦の第三子である。父が羽人が刀を持って寝室に入る夢を見て「あなたの子のために数千人の冤に報いに来た」と告げられたという不吉な誕生譚があり、若くして酷薄な性質を示した。天祐末に父の職を継ぐと、恣に人を誅戮し、酒を飲んでは人を殺してその血をすすり、行人を掠めて食らうなど暴虐を極め、消暑楼から眺めるたびに城下の人が姿を消すほど恐れられた。郷丁を集めて夜叉のような異様な牙軍を編成し、州人に顔を黒く塗らせては勝手に洗い落とさせるなど狂った偽りを重ねた。
晩年、「百姓をことごとく殺そうと思う」と郡吏に諮ったが諌められ、代わりに三丁軍を組織し、怨みを言う者三千余人を開元寺に誘い込んで虐殺した。武肅王がその凶虐を討とうとすると、澧は淮南の将李簡を導いてその境に侵入させたが子の伝璙に撃退され、澧は淮南に逃れて娼姫を漁って放埒に暮らした末、ついに淮の人に殺された。
澧の登場を予言する僧如訥の「白面の夜叉がこの郡を治める」との言葉や、丘光庭が楼中で鬼の姿を目撃した逸話、湖州の漁夫が黄巣を名乗る者から澧誅殺を託される夢の伝承など、澧を夜叉の化身とみなす怪異譚が数多く語り継がれている。
現代語訳全文
髙澧
- 髙澧は湖州刺史の彦の第三子である。はじめ彦がかつて夢に羽人が刀を持って寝室に入るのを見て、驚いてその故を問うと、羽人は「あなたの子のために、数千人の冤(うらみ)に報いに来たのだ」と答えた。まもなく澧が生まれ、年十三、四にしてすでに酷薄で自らを恃み、天祐末に父の職を嗣ぐと、恣に誅戮を行い、酒を飲んでは人を殺してその血をすすることを好み、朝夕には行人を掠めてこれを食らった。役人が明け方に署に入るとき、多くは妻子と泣いて別れた。澧が消暑楼に登って眺望するたびに、州城の東西水陸の行人は皆姿を消した。ある日、郷丁を召して牙軍とし、みなその顔に文身を施し、青衫白袴に緋の抹額をつけさせ、命令を指せば必ず鞠躬し首を仰げること夜叉の状のようであった。またある州人に約束して「三日のうちにみな顔を黔(くろ)くせよ」とし、期限を過ぎた者は誅した。澧自ら額を彫り頰に塗り粉を施した。州人が黔り終えると、澧はしだいにこれを洗い落として元に戻したが、その狂った偽りぶりはこの類が多かった。晩年、身を滅ぼす前にふと郡吏を召して議し、「私はことごとく百姓を殺そうと思うが、よいか」と言った。吏は「百姓は租賦の出るところです。これを殺せば供億(軍需の供給)はどうしようもありません。願わくば他に殺す者をお求めください」と対えた。澧は黙然としたが、この時澧は諸県の三丁のうち一人を抽出して三丁軍とし、およそ三千余人を立てた。たまたまその怨みを言う者があったので、澧はことごとく開元寺に集め、「まさに汝らに饗しよう」と欺いて三つの門の半ばを閉じてこれを納れ、入る者はそのまま殺した。半ばに及んで外にいた者が初めて気づき、奔逃して乱となった。澧は激怒し、城を閉じて大いに捜索し、遺すことなくこれを戮した。武肅王はその凶虐を悪み、兵を治めて罪を問おうと謀ると、澧はついに淮南の将の李簡らを導いてその境に入れた。王は子の伝璙を遣わしてこれを禦がせたところ、簡らは澧を挟んで逃げた。澧は淮南に至り、しばしば娼姫を取って私室に入れ、食い散らした挙句、ついに淮の人に殺された。これより先、僧の如訥は高彦と別れを告げるとき、退いて衆に「高公はまさに殂れようとしている。私もまた逝くだろう。おそらく白面の夜叉がこの郡を治めることになるだろう。お前たちはこれを避けねばならない」と言った。まもなく澧がその父に代わったとき、白面(顔が白い)とは、澧がまだ顔を黥(すみいれ)していなかったからである。また澧が太常博士の丘光庭を延いて楼中で校書をさせたとき、澧はある夕べ履韈のまま楼に登ると、光庭がふと振り返って青い顔をした鬼の形をした者を見た。しばらくして澧が現れると、澧はひそかに「博士よ、決して言うな」と言った。呉興の人はみな澧を夜叉の精だと思ったという(僧賛寧の伝には概略次のように載せている。「初め湖州の南に漁人が漁をしに、ある高い塘に至ると、蘆葦が道を挟んでいた。漁夫が舟を捨てて百余歩進むと、一つの大きな屋敷があり、堂に登ると、一人が鉄の炉を担い炎々と火を起こしており、漁夫に呼びかけて『お前は逃げ走るな。高澧に言葉を伝えよ。私は黄巣である。天は私に天下を誅戮させて湖州に入らせず、お前の手を借りて速やかにこれを殺させるのだ』と言った」)。