陳璋
- 陳璋は孫儒の党であった。兵が敗れて武肅王に降り、董昌討伐に従軍した功によりついに任用され、次第に衢州制置使に遷った。天復の初め、田頵が寇として侵入し、塁を築いて往来の道を絶ち、その地を奪う者を募って州を賞に与えると宣言した。璋は兵を率いて奮撃し、直ちにその塁を奪ったので、即日衢州刺史に擢んでられた。州に赴任するとき、王は自ら江干で餞し、恩礼はいっそう厚かった。たまたま徐綰の乱が起こり、越州客軍指揮使の張洪は綰の党であるとして自ら疑われ、歩卒三百人を率いて璋のもとに奔り、璋はただちにこれを受け入れた。まもなく丁章が永嘉で叛き、宣州の田頵はその配下の戚滔を遣わしてこれを招かせたが、璋はまた道を仮して遣わしたので、王はこれを聞いて内心快く思わなかった。ひそかに衢州羅城指揮使の葉讓に璋を殺させようとしたが、事が漏れて璋は讓を殺して叛き、東陽を陥れ暨陽を犯し、自ら衢・婺二州の刺史を称した。しばらくして浙師に逐われ、ついに淮南に逃げ奔り、右龍武統軍・平章事を歴任し、死んだ日に乗っていた馬が悲鳴すること数月にして斃れたので、人々はみな異とした。はじめ武肅王が璋に衢州の城を築かせたとき、工事が終わって図を賫して献じた際、王は西門の樟樹を見て、左右に「この樹は城に入らない。陳璋はきっと我が用いる者ではないだろう」と言ったが、その先見はこのようであった。