十国春秋十國春秋卷八十七 呉越十一 列傳(元徳昭・呉程ら)
元徳昭
- 元徳昭、もとの姓は危、字は明遠。撫州南城の人。父の危仔倡は信州刺史だったが、淮南兵に追われて杭州に奔った。武粛王は賓客の礼で遇し、まもなく淮南節度副使に署したが、「危」という姓を嫌って元氏と改めさせた。
- 徳昭は鎮東節度巡官から身を起こし、銭塘県令、ついで睦州軍事判官・知台州新亭監を歴任した。
- 以前、信州にいたころ、仔倡が子らを並べて占い師に貴賤を見させたことがあった。占い師は徳昭を指して「この子だけは武官ではない」と言い、学問を修めるようになってからは、師が何度も席を譲って「君はまことに宰相の器だ。努めて自愛せよ」と言った。
- 文穆王が国を継いだとき、教令を掌る人材が不足していた。林鼎が徳昭を推薦し、王は長く語り合ったのち鼎に「徳昭には宰相の才がある。わが子孫は憂いなしだ」と言い、文書と機密の事を掌らせた。
- 忠遜王に仕えて南の閩に出兵したときは、兵略と要務をすべて徳昭に委ね、まもなく丞相に任じた。
- 忠懿王が立つと恩遇はいよいよ厚くなった。顕徳二年(955年)の常州の役で、呉程が趙仁澤を捕らえて西府に送ってきたとき、徳昭は「これは強い団練使だ。赦せば忠義を勧めるに足る」と力説して救い、仁澤は死を免れた。
- 顕徳六年(959年)、呉延福とともに周へ入貢し、応対が的確で、格別の礼遇を受けた。
- 徳昭は重厚で謀に富み、事にあたってはとくに決断力があった。国政の議論で人が庭に溢れても、徳昭が来れば他の議論はやんだ。軍中に法度を守らぬ者がいても、道理を説いて諭せば従わぬ者はなかった。
- 以前、胡進思が邸から忠懿王を迎えたとき、徳昭は簾の下に立ったまま拝さず、「新君にお目にかかってから」と言った。進思が急いで出て簾を掲げると、はじめて拝した。変事に臨んで大局を得ることはこの通りであった。
- 酒を好み、泥酔しても職務を怠らなかった。晩年に衰えると、忠懿王はその姿を見て左右に「徳昭の顔色が衰え疲れているのを見た。いつか必ず亡くなるだろう。誰がわしを輔けてくれるのか」と言って涙を流した。
- 家にあっては孝友で知られた。折々に酒宴を設けると、席を囲む者は四代に及んだので、「満堂の羅綺、四代の児孫」という句を詠んで喜びを記した。
- 病に臥すと、自ら埋葬の文を書いて後事を処理した。乾徳六年(968年)三月己酉に没した。年七十八。太保を贈られ、諡は貞正。
呉程
- 呉程、字は正臣。山陰の人。祖父の可信は唐の定州虞唐県令、父の呉蛻は大順年間に進士に及第し、鎮東軍節度掌書記・右拾遺から出仕して累官礼部尚書に至った。
- 程は校書郎から仕官し、武粛王の承制により検校戸部員外郎を歴任し、緋衣を借りた。
- 宝正の末(931年ごろ)、王の娘を士族から選んで嫁がせようとしたとき、孟粲・于葆暨・呉程の三人が王の廷に並んで拝謁した。武粛王は程をじっと見つめ、ついに程を選んだ。金部郎中に遷り、金紫を借り、吏務の才があるとして諸司の公事を統括させた。
- 文穆王が国を継ぐと、奏請により職方郎中・観察支使・節度判官を授かった。天福年間、王子の銭弘儇が遥かに睦州を領したとき、程に州の事を知らせた。
- 忠遜王のとき西府院の事を判じ、まもなく丞相となった。福州の李孺贇が誅されると、程に威武軍節度使を授けた。
- 乾祐三年(950年)、南唐が福州を侵すと、程は密かに諸軍に方略を示し、南唐の将の査文徽を捕らえた。
- 南唐軍が閩の城に迫ったとき、浙の兵は甲を着けている最中で、将卒が庭や廊に溢れて混乱し収拾がつかなかった。程は欄干に登り、目を怒らせて叱りつけたので、全軍が震え上がった。
- 帰国して元徳昭とともに丞相となった。忠懿王は国費が膨大なため、まもなく屯田と専売(酒税)の事も兼掌させた。
呉程と常州の役
- 周の世宗が江南を討つとき、呉越の兵を徴して西から南唐を攻めさせた。蘇州営田副使の陳満が程に「周軍が南征し、南唐は国を挙げて動揺している。常州は無防備で取りやすい」と告げた。ちょうど南唐主が江陰の吏民を慰撫する詔を下したところで、陳満はさらに「周の詔書はすでに届いている」と述べ、出兵を促した。
- 程が忠懿王に進言し、兵を整えて出ようとすると、元徳昭は「唐は大国で軽々しく扱えない。我が軍が唐の境に入って周軍が到着しなければ、誰と力を合わせるのか。危険ではないか」と反対した。程は「機を失ってはならぬ」と強く争い、王はついに程の議を採った。
- しかし程は反対されたことで徳昭を恨み、将士をわざと煽って「元丞相は出兵を望んでいない」と怒らせた。まもなく将士は徳昭を襲うと言い出した。王は徳昭を府中に匿い、扇動者の逮捕を厳しく命じ、「出兵しようというときに士卒が丞相を襲おうとするとは、なんと不吉なことか」と嘆いた。
- 程は鮑修譲と羅晟を督して出発した。二人はもとより程と反りが合わず、このとき程が厳しく抑えつけたのでいっそう憤った。南唐兵が羅晟の陣に迫ったとき、晟は力戦せず、敵はそのまま程の陣に突き進んだ。程は大敗し、かろうじて身一つで逃れた。王は怒って程の官をすべて剥奪し、程はこれ以来不遇となった。
呉程の逸話と最期
- 以前、程が東越にいたころ、父の蔭で苦学しなかった。ある人が「君の骨相を見ると諸儒と同類だが、他日、将相に上ってからの談論が長続きしないのが惜しい」と言った。程はこれ以来よく学ぶようになった。
- 文穆王のころ、西府院官の騰攜が、程が赤い龍と化して南方へ去る夢を見た。攜は人にこの夢を語り、「呉氏の子は私の測り知るところではない」と言った。程が福州を領するに及んで、その兆が的中した。
- 乾徳の初め(963年ごろ)、程は仙人が筮竹を前に並べて「君の寿命を数えると、残りは三つだ」と告げる夢を見た。三年後、程は没した。年七十三。王は原職を回復させ、諡を忠烈とした。
裴堅
- 裴堅、字は廷実。湖州の人。父の裴光庭は累官して中書令に至った。術士の張景歳は吉凶をよく言い当てたが、紙に大きく「怠」の字を書いて光庭に贈った。十日と経たず光庭は果たして台州刺史に左遷されたが、大いに治績を上げた。
- 堅は幼くして聡明で文章をよくし、長じて人を見る目があった。文穆王・忠遜王・忠懿王に仕えて善政が多く、条令や教化に筋道があった。
- 累官して礼部尚書・中書令となり、呉越国丞相に任じられた。広順二年(952年)九月甲寅に没した。年五十六。諡は文憲。
沈虎子
- 沈虎子は忠懿王に仕えて丞相となった。王が宋の命を受けて江南の常州を攻めようとしたとき、虎子は「江南はわが国の垣根です。今、大王が自ら垣根を取り払っては、何をもって社稷を守るのですか」と諫めた。王は従わず、ついに兵を進めて常州を落とした。
- のち虎子は王に従って宋に入り、(官名は原文に欠く)を授かり、その位で没した。
史論
- 元徳昭は突発の変事に際して新君に謁するのを待ち、よく大位を定めた。社稷を安んずる臣といえる。呉程は閩の辺境で勝報を上げて武功があったが、毘陵(常州)の役では和衷協同の義を失い、軍を敗って国を辱めた。前後でどうしてこれほど違うのか。裴堅は朝廷で悠揚として政に要領があった。沈虎子は虞・虢の故事の憂いを抱き、唇歯の論を進めた。時勢は古と異なるとはいえ、その説はやはり動かしがたい。
鮑修譲
- 鮑修譲は鮑君福の子。若くして寡黙で、軍を治めることが厳正で法度があった。累官して上直指揮使となり、衢州刺史に遷った。
- 天福十二年(947年)、戍将として福州で李孺贇を守護していたが、孺贇が叛くと、修譲は加わってこれを殺し、首を杭州に送った。
- 顕徳三年(956年)、呉程に従って常州を攻め、周の世宗の軍に呼応した。建隆元年(960年)、福州彰武軍の事を知した。のち上直諸軍都鈐轄使・同参丞相府事に改められ、没した。
曹杲
- 曹杲は真定の人。文穆王のとき金華令となった。婺州で兵が叛くと、杲は計略でこれを平定し、そのまま本州刺史に抜擢された。
- 忠懿王が宋に入朝したとき、杲は国内を鎮撫し、城の隅に三つの池を掘って西湖の水を城内に引き入れ、舟が通れるようにした。王は帰国してその功を嘉し、池に「湧金」の名を賜り、池のほとりに石を立てた。
- 納土(呉越の宋への帰属)後、宋は杲に威遠軍節度使を授けた。まもなく没したが、豊豫門に神として現れ、風を返して火を消すという霊験があった。土地の人は祠を建てて像を安置し、今に至るまで毎年の祭りが絶えない。
沈韜文
- 沈韜文は湖州の人。父の沈攸は常州刺史。韜文は節操が清潔で学を好み、文章をよくした。(欠字)王のとき元帥府の典謁となり、軍務の計画に参画してしばしば裨益するところがあった。累官して左衛上将軍となり、湖州刺史に改められ、清廉の名が高かった。
陸超
- 陸超は銭塘の人。(欠字)王のとき功により衢州刺史に抜擢され、恵み深い政治を行ったので、衢州の人に多く称えられた。
杜叔詹
- 杜叔詹は秦の人。開宝年間、孫承祐の後を継いで平江軍節度使となった。仁愛深く善良で、賢者を興し士を愛し、孔子廟を建て直して学者を励ました。のち静海軍節度使に転じた。忠懿王が納土して宋に帰すと、叔詹は戸部尚書を授かった。
劉彦琛
- 劉彦琛は安国の人。忠懿王の将となって戦功が多く、衢州刺史となり、任地で没して、そのままその地に葬られた。
俞公帛
- 俞公帛は杭州の人。(欠字)王のとき戸部尚書となり、営田使を統べて格別の実績を上げた。婺州を通ったとき義烏の風土を愛し、そのまま住み着いた。その子孫からは代々名の知られた人が出た。
盛豫
- 盛豫は余杭の人。忠懿王に仕えて検校太傅を授かった。宋への使いに立ち、汴京から帰ったとき、人々は「盛太傅に憂色がない。我らは安泰だ」と言った。宋に帰属したのち没し、太師を贈られた。子は京と度の二人。
林克己
- 林克己は銭塘の人。忠懿王のとき通儒院学士となった。博学で文章をよくした。宋の隠士の林逋はその孫である。
司馬球
- 司馬球は(欠字)王に仕え、御史中丞として崑山鎮遏使となり、そのまま住み着いた。球には防衛の功があり、邑の人に大いに称えられた。のち子孫は隠居して仕えず、ただ馬氏と称したという。
孫顕忠
- 孫顕忠は銭塘の人。(欠字)王に仕えて名将となった。金沙灘の履泰将軍廟はこの人を祀ったものである。
黄彝簡
- 黄彝簡、字は明挙。福州の人。父の黄延枢は閩の太祖の従事となり、厚く親任された。閩の恵宗は娘を延枢に嫁がせた。忠献王が福州を得ると、延枢は降り、光禄卿に署された。
- 彝簡は幼くして父を失ったが学を好み、王子の銭惟治の明州判官となって名声があった。
- 開宝の初め、宋が忠懿王に功臣の号を加えたとき、王は彝簡を謝礼の使者に立てた。帰ろうとするとき、太祖は彝簡に「帰って元帥に伝えよ。朕はすでに薫風館の外に礼賢宅を建てて李煜と元帥を待っている。今、李煜は強情に構えて朝しないので、朕は討とうとしている。元帥は朕を助けるか。他の謀に惑わされてはならぬ。江南が平らいだら、しばらく来て会うがよい。他意はないと保証する。朕は圭幣を執って三度天に誓っている。どうして自ら偽ろうか」と言った。彝簡は帰って忠懿王に告げた。
- まもなく王に従って入朝し、従官を授かって王の掌書記となった。のち王が淮海国王に改封され、さらに許王に封ぜられると、彝簡はいずれもその府の判官を務め、倉部員外郎を加えられ、累進して検校秘書監・平江節度副使となった。
- 彝簡は文をよくし、とくに詩に巧みで、老いても筆を置かず、天寿を全うした。
沈承礼
- 沈承礼は湖州烏程の人。武粛王に招かれて幕府に置かれ、処州刺史に署された。文穆王は娘を嫁がせ、府中の要職に就け、出て台州刺史とした。忠献王のときは親兵を掌った。忠懿王が位を継ぐと威武軍節度使を知させた。
- 宋の軍が江南を征したとき、忠懿王は承礼を両浙諸軍都鈐轄使とし、水陸数万を率いて常州平定を助けさせ、続いて潤州を攻めさせた。
- 城中の兵が夜に出て外柵を焼いたとき、諸将はみな駆けつけて救おうとしたが、承礼は「兵法に『東南を撃つと見せて西北に備える』とはこのことだ」と言い、士卒に甲を着けさせて陣中で食事を取らせ、堅く守って動かなかった。他の陣で備えのなかったところはことごとく混乱したが、承礼の部隊だけは敵も窺えなかった。
- 丹陽が平定されると、宋軍に従って金陵を攻めた。冬至にあたり軍中はみな集まって酒を飲んでいた。承礼は将士に「城中は我らが節日で必ず宴を張り、備えを怠っていると思っているはずだ。不意を突いて図るべきだ」と言い、決死の兵千人を集めて火をつけ城下に迫り、東門を落とした。士卒の多くは塁をよじ登って入り、江南はついに降伏した。
- 宋は功を記録して海寧軍節度使を授けた。太平興国年間、王が領地を献じると、承礼を密州の鎮に移した。太平興国八年(983年)に没した。年六十七。太宗は二日間朝を廃し、太子太師を贈り、中使を遣わして葬儀を監督させた。
- 以前、秦王の趙廷美が失脚したとき、宋の有司が調べたところ、忠懿王・王世子の銭惟濬・孫承祐・陳洪進はいずれも贈り物をしていたが、承礼だけはしていなかった。
孫承祐
- 孫承祐は杭州銭塘の人。忠懿王がその姉を妃に迎えたので、要職に抜擢された。累進して浙江東道塩鉄副使・鎮海鎮東両軍節度副使・知静海軍節度事となった。
- 開宝の初め、鎮東鎮海等軍行軍司馬として、世子の銭惟濬に従って宋に入貢した。宋の太祖は詔して光禄大夫・検校太保を授けた。まもなく忠懿王は中呉軍節度使に署した。
- 開宝七年(974年)、王はふたたび承祐を宋に貢使として遣わした。太祖は襲衣・玉帯・鞍と手綱つきの馬・黄金の器五百両・銀器三千両・雑綵五千匹を賜り、あわせて王に江南方面へ出兵する意向を伝えさせた。
- のち王に従って常州を克つ際、功が最も多かった。宋が詔して中呉を平江と改めると、承祐はそのまま平江軍に鎮した。
- 太平興国の初め、王が呉越の地をことごとく献じると、承祐は泰寧軍節度使に移された。太平興国五年(980年)、大名への行幸に従い、留まって府の事を知した。雍熙二年(985年)に滑州の知に改められ、数か月で没した。太子太師を贈られた。
孫承祐の奢侈と最期の予兆
- 承祐は浙にいたころ、外戚としての寵をかさに奢侈を極めた。一度の宴会で殺す生き物は千を数え、家庭の食事でも数十皿を並べた。箸をつけるとき、銀の大鍋十個に火を起こして次々と料理を出させた。
- 常の食事のときも客に膳を指して「今日は南の蟹、北の紅羊、東の蝦や魚、西の嘉粟まで揃わぬものがない。四海を小さくして富み尽くしたと言えよう」と言った。
- また龍脳で酥を煮て小型の驪山を作らせ、さらに千金で石緑を一つ買って博山香炉に仕立て、峰の先に隠し穴を開けて煙を出させ、「不二山」と呼んだ。
- 忠懿王が大きな生龍脳十斤を賜ったとき、承祐は使者の前で大きな銀の炉を持ってこさせ、一度にまとめて焚き、「ささやかながら王のご長寿を祝います」と言った。その豪奢ぶりはこの通りであった。
- のち宋に帰属して太宗の北征に扈従したとき、駱駝に大きな斛を負わせて水を張り、魚を飼いながら随行した。幽州南の村落に着いたとき、日はすでに傾いていたが、西京留守の石守信とその子の駙馬都尉の石保吉らはまだ朝食も取っていなかった。たまたま承祐に出会うと、承祐は自分の宿舎に招き入れ、魚の膾を作って食事を出し、山海の珍味を尽くしたので、人々はみな驚いた。
- 承祐は若いころ、人が蓍草一本を差し出し、そこに一本を加えて授ける夢を見た。目覚めて親しい者に「大衍の数は五十、そのうち用いるのは四十九だ。今その一本を加えられたということは、私の寿命はここまでか」と語った。果たして五十で没した。
- 子の孫誘は宋に仕えて駕部郎中となり、出て淮南節度行軍司馬となった。
崔仁冀
- 崔仁冀、字は子遷。銭塘の人。若くして学に篤く文才があり、忠懿王に仕えて通儒院学士となった。王が沈虎子の政事を罷めさせると、仁冀が代わった。
- 宋の太祖がしばしば忠懿王に入朝を促したとき、仁冀は王に「主上は天資英武で向かうところ敵なしです。一族を保ち名を全うするのが上策です」と告げ、王もそのとおりだと考えた。
- 太平興国二年(977年)、王が汴京にいたとき、陳洪進が領地を献じた。王は上疏して、封ぜられた呉越国王および天下兵馬大元帥の職名を返上したいと願い出たが、宋の太宗は手厚い詔で許さなかった。
- 仁冀はさらに王に「朝廷の意図は明らかです。大王が早く納土されなければ禍が及びます」と勧めた。側近は争って不可を唱えたが、仁冀は声を張り上げて「今すでに人の掌中にあり、国を去ること千里です。羽根でもあれば飛んで帰れましょうが」と言った。
- 王はついに決断し、領内の十三州・一軍・八十六県を献じて闕下に至った。太宗は仁冀の帰順の功として淮南節度使を授け、累進して衛尉卿・判大理寺とし、撫州の知に移した。仁冀はそこで没した。
- これに先立ち、侍郎の鮑約も忠懿王に納土を勧めたが、同僚の胡毅・劉䩨はいずれも強く反対した。王が宋に帰したのち、鮑約は海辺に身を隠した。王は詩を人に持たせて追わせ、「東に遐かに追い、西に遐かに追う。鮑約よ、釣りをやめて帰るのはどうか」と詠んだ。今も遐追廟がある。
史論
- 宋の太祖・太宗の兄弟が相次いで興り、龍のごとく飛び虎のごとく変じて群雄を削平し、中原を一つにした。太陽が出れば松明の火は消える。まことに帝王には真の主があると知られる。呉越の諸臣が力を尽くして帰順を勧め、臣も主もともに栄えたのは、機を知らぬとは言えない。金陵(南唐)が抵抗し、番禺(南漢)が戈を執ったのに比べれば、順逆と労逸の差は歴然としている。
余万頃
- 余万頃、字は九疇。睦州の人。忠懿王に仕えて武林検校となり諸軍の事を監察したので、側近の親軍で恐れ憚らぬ者はなかった。
- 国が亡んで宋に入り、侍御史に進んだ。物言いに隠すところがなく、人は「殿上の虎」と呼んだ。戸部侍郎・栄禄大夫に改められ、没した。
- 万頃の甥の余元嘉も忠懿王に仕え、宋に至って累進し、緋魚袋を賜り、中奉大夫となった。
江景防
- 江景防、字は漢臣。常山の人。忠懿王に仕えて侍御史となった。
- 五代のころ、呉越は一隅の地で四方を防いだため費用に際限がなく、田賦・市租・山林川沢の税をすべて旧額の数倍に加増していた。宋が諸国を平定したのち、賦税は従来の帳簿をそのまま基準としていた。
- 忠懿王が入朝したとき、景防は侍従として図籍(土地台帳)を献上する役だったが、「民が苛斂に苦しんで久しい。役所がこの帳簿をそのまま用いれば、民の困窮に終わりはない。私は身をもってこの責めを負おう」と嘆き、図籍を川に沈め、闕下に赴いて紛失の次第を自ら弾劾した。
- 宋の太宗は大いに怒って誅そうとしたが、まもなく沁水尉に左遷するにとどめた。景防はそのまま田舎に引きこもって没した。
- まもなく太宗は右補闕の王永に呉越の田税を均させた。旧来は一畝あたり五斗だったが、王永は一斗に改定した。減税の由来は、実に景防の図籍を沈めた行いに端を発すると人々は言った。
- 景防の子孫からはのちに相次いで正科に及第した者が四十人出て、顕貴が絶えなかった。
陸崇扆
- 陸崇扆は先祖が呉郡の人で、のちに福州侯官県に移った。父の陸景遷は忠懿王に仕えて驍騎上将軍・検校太傅となった。
- 崇扆は累官して威武軍観察推官となり、有能で知られた。忠懿王に従って宋に帰し、官は殿中丞に至った。