十国春秋十國春秋卷八十六 呉越十 列傳(沈崧・皮光業ら)
沈崧
- 沈崧、字は吉甫。閩の人。祖父の輅は唐の大理評事で緋衣を賜り、父の超は福州長渓県令。
- 崧が生まれたとき、大蛇が寝台の前に落ちて首をもたげてじっと見つめ、しばらくして去った。七日後、産湯を使わせようとすると、突然の風雨で盥が壊れた。人々はみな不思議がった。
- 乾寧二年(895年)、刑部尚書の崔凝が貢挙を司り、進士に及第した二十五人の中に崧がいた。まもなく昭宗が武徳殿に出御して翰林学士の陸扆と秘書監の馮偓に再試させ、十人が落第したが、崧はこのときも選に入った。
- まもなく閩に帰ろうとして淮甸を通ったとき、淮南の帥に招かれたが応じなかった。杭州を通ったところ、武粛王に留められて鎮海軍掌書記となり、浙西営田副使を授かり、奏請により秘書監・検校兵部尚書右僕射となった。書檄・表奏の類は多く崧の手になった。
- 後唐の荘宗が即位して同光と改元した(923年)とき、武粛王がその国運の長短を問うと、崧は「この年号を見るに、国は成らず、ただ一つの口があるだけです」(「同光」の字解き)と答えた。
- 文穆王が立つと儒学を好み、択能院を置いて呉中の文士を選んで登用し、崧にその職を統べさせた。建国すると崧を丞相に任じた。
- 天福三年(938年)二月に没した。年七十六。諡は文献。文集二十巻がある。
皮光業
- 皮光業、字は文通。代々襄陽の竟陵の人。父の皮日休は高名で、唐末に蘇州軍事判官・太常博士となり、そのまま蘇州に居を定めた。
- 光業は姑蘇に生まれ、十歳で文章を作れた。長じて自作を携えて武粛王に謁し、沈崧・林鼎とともに幕府に招かれ、累りに浙西節度推官に署せられ、緋衣を賜った。
- 天宝九年(916年)、王は梁に誠意を通じようとしたが、適任者がなく、しかも間に淮南があって遠回りを強いられ難儀していた。そこで光業を才能ありとして使者に立て、建州・汀州から虔州・郴州を越え、潭州・岳州・荊南を経て梁に入貢させた。梁の均王は大いに喜び、王に天下兵馬大元帥の号を加え、開府して官属を置くことを許し、光業には特に進士及第を賜り、あわせて秘書郎を賜って右補闕内供奉に任じ、金紫を賜った。
- まもなく淮南人が和好を求めてくると、王は光業に答礼の使いをさせた。帰るとき淮南は銭三百万を贈ったうえ、それを持ち出すことを禁じ、「これで買い物をせよ」と言った。光業は「私は使者であって商人ではない」と言い、置き捨てて去った。淮南人は急いで荷に載せて後を追わせた。
- まもなく両浙観察使を兼ねた。文穆王が跡を継ぐと東府の事を知らされた。
- 天福二年(937年)、建国すると光業を丞相に任じ、曹仲達・沈崧と同日に任命した。教令や儀礼の次第は多くが光業の考定によるものである。
- 光業は容儀が美しく談論に巧みで、見る者は神仙の類かと思った。茶を好み、詩を作って茶を「苦口の師」と呼んだ。国中にその癖が広く伝わった。
- 天福八年(943年)二月丙辰に没した。年六十七。諡は貞敬。撰した『皮氏見聞録』十三巻が世に行われた。
- はじめ光業が微賤だったころ、亭の上の人形がみな並んで拝む夢を見て、自ら誇りに思った。また会稽に旅したとき、里の巷に神が降りたので見に行ったところ、神は口をきかなくなった。立ち去ってから人々が問い詰めると、神は「皮秀才はこの土地の主である。私は小神だから急には姿を見せられない」と答えた。
- 梁が王子の銭伝珍を駙馬都尉に選んだとき、光業は命を受けて京師に赴いた。帰りに靖海を通ったとき、山陰令の滕文規は光業の母方の伯父にあたるが、日暮れに黄衣の吏が現れて「皮補闕はもう靖海に着いた」と報告し、たちまち姿を消した。こうした異兆がこの類は多い。
- 弟の皮光鄰は温州刺史となった。子の皮璨は元帥府判官となり、『鹿門家鈔詩咏』を著した。三代とも文をもって江東に雄たり、識者はこれを誉れとした。
曹仲達
- 曹仲達は曹圭の子。もとの名は弘達だったが、のちに孝献世子の諱を避けて今の名に改めた。
- 臨平に生まれ、母の産室に紫の光が満ちたので、家人はみな不思議がった。少し成長すると、父は労苦に慣れさせようとして食事は下僕と同じにし、厳寒でも綿入れを着せず、日々煉瓦を運ばせて筋骨を鍛えさせた。まもなく鎮東軍押牙となった。
- 曹圭が蘇州にいたころ、睦州の陳詢に縁組を申し入れていたので、このとき仲達に自ら迎えに行かせた。ところが占ってみると「陳氏は配偶ではない。他の家と縁組すれば栄達する」と出た。まもなく銭塘を通ったところ、武粛王がその容貌を非凡と見て、自分の妹を娶らせた。
- 累りに台州・処州の刺史を授かった。文穆王が立つと権知政事とされ、建国すると丞相となり、沈崧・皮光業とともに国政を執った。
- 忠献王が即位すると、仲達はふたたび行軍府の事を代行した。当時、諸軍に大きな恩賞を出したが、軍中で分配が不公平だという声が出て大騒ぎとなり、武器を掲げて賞を受け取ろうとせず、諸将にも抑えられなくなった。仲達が自ら階に出て諭したところ、言葉が明快で筋が通っていたので、みな武器を置いて拝した。
- 仲達は仁厚な性で施しを好み、食事は一品を重ねなかった。文穆王は深く重んじ、いつも「丞相」と呼んで名を呼ばなかった。六十二で没し、諡は安成。
林鼎
- 林鼎、字は渙文。侯官の人。父の無隠は詩名があり、明州に流寓した。刺史の王晟(黄晟)が士を礼遇したので、無隠はこれを頼った。鼎は明州の大隠村に生まれた。
- 長じて武粛王に謁し、観察押牙となり、まもなく文穆王の幕府に招かれた。文穆王はその才能と行いを買ってたびたび推薦したが用いられなかった。ある日また密かに推薦すると、武粛王は「鼎の骨相は非凡で、まことに宰相の器だ。しかしわしが急に貴顕にしないのは、お前が貴くしてやることで、お前に心を尽くさせるためだ」と言った。
- 文穆王が位を継ぐと、鎮海軍掌書記・節度判官に署された。
- 鼎は剛直な性で、記憶に優れ、書をよくして欧陽詢・虞世南の筆法を得た。中年になっても読書は夜明けまで続き、集めた図書はすべて手ずから数度書き写し、破れた巻や欠けた簡でも校合し補綴して倦むことがなかった。
- 建国すると教令の起草を掌り、まもなく丞相となった。政事に行き届かぬところがあれば、鼎は必ず遠慮なく極言した。
- 天福年間の建州の役では、天文と人事の両面から指摘し、たびたび上疏して強く諫めたが、王は用いず、結局成功しなかった。人々は鼎に先見の明があったと言った。
- 開運元年(944年)正月に没した。年五十四。諡は貞献。『呉江応用集』二十巻がある。
仰仁詮
- 仰仁詮は湖州の人。文穆王に仕えて牙将となり、練達で知られた。
- 王の弟の銭元珦が法を犯したとき、文穆王は仁詮に明州へ赴いて召し出させた。側近は元珦が抑えがたいことを心配し、鎧を内に着て行くよう勧めたが、仁詮は普段着のまま役所に赴き、元珦を伴って杭州に戻った。その間、態度は落ち着き払い、少しも慌てるところがなかったので、人々はその度量に感服した。
- 久しくして建州刺史の王延政が閩主と争い、杭に援軍を乞うた。仁詮は命を受けて救援に赴いたが、軍が長く帰らず、やがて延政に敗れた。
- 忠献王が立つと、仁詮の娘を納れて元妃とした。累進して寧国軍節度使・同参相府事となり、まもなく没した。
- 弟の仰仁謙は忠懿王に従って宋に帰し、太子舎人を授かり、出て永嘉県を知した。
史論
- 沈崧は玉のような資質と金のような姿を備え、内に美徳を蔵して理に通じていた。皮光業は文章が典雅で国家を飾った。曹仲達と林鼎は人望が高く、事にあたって決断でき、轡を並べて競い、宰相の座に出入りした。いずれも国を輝かせる人選である。仰仁詮も才幹と謀略に富み、南征では利を失ったものの、最後には過ちを補った。功が過ちに覆われなかった者というべきであろう。
陸仁章
- 陸仁章は睦州の人。若いころは身分が低かったが大志があり、困窮して武粛王の庭園の下働きとなった。当時は誰も注目しなかった。
- 武粛王が府の庭園を歩いたとき、仁章の植木の仕方に知恵があるのを見て心に留めた。
- 淮南兵が蘇州で孫琰を囲み、城を三重に取り巻いて通れる道がなくなったとき、武粛王は仁章に計略を立てて入城させ、果たして孫琰の返報を得て戻った。これでいよいよ称賛され、孫たちと同列に養われた。
- 累進して両府軍糧都監使となり、まもなく内牙指揮使に転じた。
- 武粛王が薨じ、文穆王がすでに制を承けて軍府の事を統べていたとき、兄弟と同じ幕の中で喪に服していた。仁章は進み出て「令公は先王の覇業を継がれた身、将吏が朝夕に伺候するのですから、他の公子がたと別の場所におられるべきです」と述べ、係の者に命じてもう一つ幕を張らせ、文穆王を扶けてそこに座らせた。そして将吏に「今後は令公にのみ拝謁せよ。諸公子の従者はみだりに入るな」と告げ、昼夜警備して休まなかった。
- 宝正の末年(931年ごろ)、側近はみな文穆王に付き従っていたが、仁章だけはたびたび諫言して逆らった。このとき文穆王が繰り返しねぎらうと、仁章は「先王の在位中は令公にお仕えするすべを知りませんでした。今日節を尽くすのは、なお先王にお仕えするのと同じことです」と答えた。文穆王は長く感嘆した。
- 以後、仁章は指揮使の劉仁杞とともに中枢で政を執った。仁章の性は剛直、仁杞は人の欠点を言い立てるのを好んだので、人々は大いに憤った。
- ある日、諸将が府に押しかけて二人の誅殺を請うた。文穆王は甥の銭仁俊に諭させ、「二将は先王に長く仕えた。わしはその功に報いようとしているのに、お前たちは私怨を晴らそうと殺せというのか。わしがお前たちの主である以上、わしの命に従え。従えないというなら、わしは安国に帰って賢者に道を譲るまでだ」と言った。人々は恐れて退いた。
- そこで仁章を衢州刺史、仁杞を湖州刺史とした。仁章は累官して保大軍節度使・同参相府事に至り、天福四年(939年)に没した。仁杞は富春の人。
章徳安
- 章徳安は処州麗水の人。累進して内都監に至った。
- 文穆王が病臥したとき、徳安が忠直で大事を決断できると見て後事を託そうとし、「銭弘佐はまだ若い。一族の年長者を選んで立てるべきか」と語った。徳安は「弘佐は若くとも、臣下はその英敏さに服しています。ご心配には及びません」と答えた。王は「お前がよく補佐してくれ。それなら憂いはない」と言った。
- まもなく文穆王が薨じた。内牙指揮使の戴惲は文穆王の養子の銭弘侑と親しかった。弘侑の乳母は戴惲の妻の身内だったからである。戴惲が弘侑を立てようと謀っているという者があり、徳安は喪を秘して発表せず、幕の下に甲士を伏せて戴惲を殺し、弘侑を廃して庶人とし、もとの孫姓に戻して幽閉した。
- ほどなく上統軍使の闞璠が強引で横暴となり、異を唱える者を排斥した。忠献王は抑えきれず、徳安がたびたび争ったので、闞璠は計略を用いて徳安を処州へ左遷させた。右都監の李文慶も闞璠に与しなかったため、同時に睦州へ左遷された。文慶はもともと睦州の人である。
郭師従
- 郭師従は合肥の人。田頵の妻の弟。田頵の部下として都虞候となった。
- 文穆王が宣州に人質となっていたとき、田頵は戦に負けるたびに側近を顧みて「銭郎(文穆王)を出せ、殺す」と求めた。師従は田頵の母とともに手を尽くして庇い、王は死なずにすんだ。
- 田頵が敗れると、師従は従って杭州に帰った。武粛王はその恩に感じて鎮東都虞候に署した。たびたび文穆王に従って広徳を破り無錫を征して功があり、累進して浙西営田副使となった。忠献王のとき同参相府事に任じられ、八十四で没した。
唐仁恭
- 唐仁恭は先祖が晋昌から余杭に移った家。唐の天復年間に建威推官を務めた唐希顔が仁恭の父である。仁恭は文穆王に仕えて唐山県令となり、有能で知られた。子の唐渭は宋に仕えて職方郎中となった。
史論
- 陸仁章は義において私情に流れず、章徳安は忠をもって主に仕えた。文穆王の代替わりにあたって、仁章はその初めを正し、徳安はその終わりを正した。大義は明白で、古の名臣といえども及ばない。郭師従は王の身を守り、魚の姿に身を変えて豫且の網にかかった君主を助けたようなもので、長寿を得たのも当然である。唐仁恭は良吏の才を発揮して一県を撫し慰めた。まさに「和やかな君子は民の父母」というべき人である。
水丘昭券
- 水丘昭券は安国の人。漢に司隷校尉の水丘岑という人がおり、昭券はその子孫である。沈着重厚な性で、書を知り文章をよくした。武粛王の母は水丘氏の出であり、昭券は外戚の縁で忠献王に仕えて内都監使となった。
- 唐(南唐)が福州を激しく攻め、福州の使者が杭に援軍を乞うたとき、諸将の多くは道が険しく遠いことを口実に反対した。昭券は「隣を救い災いを憐れむのは古今変わらぬ道理だ」と述べ、急ぎ援軍を出すよう勧めた。王の意にもかない、これに従った。
- 忠献王が程昭悦を誅したとき、昭券に夜、甲士千人を率いてその邸を囲ませた。昭券は「昭悦は家臣です。罪があるなら公然と誅すべきで、夜に兵を動かすべきではありません」と言った。王は大局をわきまえた者と評価した。
- 忠遜王が立つと、統軍使の胡進思の横暴を憤り、指揮使の何承訓および昭券と密かに謀って外へ追い出そうとした。昭券は「進思の党は強大で、にわかには除けません。しばらく容認して後日を待つべきです」と述べ、王は決めかねた。
- そこへ何承訓が事が露見して自分に及ぶことを恐れ、逆にこの謀を進思に漏らした。数日後、王が夜、将吏を宴に招くと、進思は自分を図る企てかと疑い、戎服で武器を執り、親兵百人を率いて天冊堂に王を訪ね、「老奴に罪はない。何ゆえ私を図るのか」と言った。そのまま王を義和院に幽閉して廃位し、あわせて昭券と近侍の鹿光鉉を殺した。光鉉は忠遜王の母方の伯父である。
- 進思の妻はこれを聞いて涙を流し、「他の者ならまだしも、昭券は君子だ。どうして殺したのか」と言った。
薛温
- 薛温は銭塘の人。武勇によって親軍都頭となった。
- 天福十二年(947年)、統軍使の胡進思が忠遜王を廃して忠懿王を迎え、両軍の事を統べさせた。翌年春、忠遜王を衣錦軍の私邸に移したが、進思は毎日その殺害を請い、あらゆる理屈を並べてやめなかった。
- 忠懿王は変事を恐れ、薛温に親兵を率いて護衛させ、「この任務では廃王の保全をお前に委ねる。もし異常な処置があっても、みなわしの意ではない。死をもって守れ」と戒めた。
- 進思は果たして温に密かに謀を持ちかけたが、温は拒んで許さなかった。進思はさらに夜、方安ら二人に垣を越えて忠遜王の邸に忍び込ませたが、温は部下を率いて駆けつけ、方安らを庭で殺した。
- まもなく進思が死に、忠遜王が天寿を全うできたのは、温の力である。
- 温は累官して鎮国都指揮使・睦州刺史となった。乾徳三年(965年)に土地を寄進して吉祥律寺とし、まもなく没した。諡は正顕。
史論
- 水丘昭券は寛容をもって志とし、事は先代の乱れを正すのに似ていた。しかし決断すべきときに決断せず、身は奸邪の手に斃れた。『易』に「君が密ならざれば臣を害し、臣が密ならざれば身を害す」とあるのは、まさに水丘氏のことであろうか。薛温は旧主を守って志を曲げず、二人の君主が兄弟としてよしみを保ち天倫を全うできるようにした。その功は大きい。事の始めと終わりで心を変える者とは、雲泥の差がある。