十国春秋卷八十六 呉越十 列傳 皮光業
要約
皮光業、字は文通、父は盛名を馳せた皮日休で、蘇州に生まれ十歳で文章を作った。成長して沈崧・林鼎とともに武肅王の幕府に招かれ浙西節度推官となり、緋を賜った。天宝九年、王が梁に誠意を通じようとした際、淮南を避けた遠回りの難路を経て通交する使者に選ばれ、虔・郴・越・潭・岳・荊南を経て入貢すると梁の均王は大いに喜び、王への天下兵馬大元帥加授とともに、光業自身にも進士及第・秘書郎・右補闕内供奉と金紫を賜った。淮南への答礼使では贈られた三百万の銭を「使者であって商人ではない」と辞退し、淮南の人が慌てて荷車で追わせるほどの清廉さを示した。まもなく両浙観察使を兼ねた。
文穆王の代には東府の事を委ねられ、天福二年の呉越建国後は丞相を拝し、曹仲逹・沈崧と同日に任命されて教令・儀注の制定の多くを考定した。容儀が美しく談論に巧みで、見る者は彼を神仙の中の人と見なし、茶を好んで「苦口師」と詠む詩でも国中に知られた。天福八年二月に没し、享年六十七、諡は貞敬。著書『皮氏見聞録』十三巻が世に行われた。
若い頃、人形が並んで拝礼する夢を見て自負するところがあり、会稽の神が「皮秀才はこの土地の主」と語った逸話も伝わる。弟光鄰は温州刺史、子璨は「鹿門家鈔詩詠」を著し、三代にわたり文章で江東に雄飛したことが誉れとされた。
現代語訳全文
外交使節と丞相就任
- 皮光業、字は文通、代々襄陽竟陵の人である。父の日休は盛名があり、唐末に蘇州軍事判官・太常博士となり、そのまま蘇州に家を構えた。光業は姑蘇に生まれ、十歳で文章を作ることができ、成長すると自らの学業をもって武肅王に謁見し、沈崧・林鼎とともに幕府に招かれ、しばしば浙西節度推官に任ぜられ、緋を賜った。天宝九年、王が梁に誠意を通じようとしたが、その人選が難しく、しかも途中に淮南が隔たっているため回り道を強いられることを苦とし、そこで光業を使者に選んだ。建汀より虔・郴・越・潭・岳・荊南を経て入貢すると、梁の均王は大いに喜び、王に天下兵馬大元帥を加え、開府して官属を置かせ、特に光業に進士及第を賜り、秘書郎を授け、右補闕内供奉に任じて金紫を賜った。ほどなく淮南の人が友好を求めに来たので、王は光業に答礼の使者とし、帰る際に銭三百万を贈られたが、これを持ち出すことを禁じられ、また「これで商売をしてよい」とまで言われた。光業は言った、「私は使者です。どうして商人でありましょうか」と。そこで置いて立ち去ったところ、淮南の人はすぐに荷車に載せてこれを追わせた。ほどなく両浙観察使を兼ねた。文穆王が跡を継ぐと、東府の事を知るよう命じられた。天福二年、国が建てられると、光業は丞相を拝し、曹仲逹・沈崧と同日に任命を受け、教令・儀注の多くを考定した。
- 光業は容儀が美しく談論に巧みで、見る者はときに彼を神仙の中の人と見なした。性格は茶を嗜み、常に茶を「苦口師」とする詩を作り、国中でその癖がよく語り伝えられた。八年二月丙辰の日に没した。享年六十七。諡を貞敬という。著した「皮氏見聞録」十三巻が世に行われた。初め光業が微賤であったころ、亭の上の人形がみな並んで拝礼する夢を見て、目覚めた後に自負するところがあった。また会稽を旅していたとき、里巷に神が降りたことがあり、光業がこれを見に行くと、神は言葉を発しなかった。光業が去った後、人々がこの神に尋ねると、神は言った、「皮秀才はこの土地の主である。私のような小神はにわかにお目にかかるべきではない」と答えたという。梁が王子傳珎を選んで駙馬都尉としたとき、光業は命を受けて京師に赴いたが、帰る際に靖海を経由した。山陰県令の滕文規はもとより光業の舅であったが、日暮れに黄衣の吏が「皮補闕は今すでに靖海に着いた」と報告するのを見て、間もなくその姿が見えなくなった。彼のこのような不思議な前兆は多くこの類であった。弟の光鄰は温州刺史の官にあった。子の璨(あるいは文璨に作るが誤りである)は元帥府判官の官にあり、「鹿門家鈔詩詠」を著した。三代にわたって文章によって江東に雄飛し、識者はこれを誉れとした。