大賚の騒動を鎮めた徳望
- 曹仲逹、圭の子である。もとの名は弘逹といったが、後に孝献世子の諱を避けて今の名に改めた。仲逹は臨平で生まれたが、母が産褥にあったとき室内に紫の光があり、家人はみなこれを異とした。やや成長すると、圭は彼に労苦を経験させたいと考え、食事はすべて僕隷と同等にし、厳冬でもまだ綿入れの服を着せず、また日々煉瓦を運ばせて筋骨を苦しめた。ほどなく鎮東軍押牙となった。圭が蘇州にいた頃、かつて睦州の陳詢に婚姻を求めたことがあり、この時に至って仲逹を親迎の使者として遣わした。占った結果、「陳氏は良縁ではない。他の一族に求婚すれば栄達に至るだろう」と出た。ほどなく道が銭塘を通る際、武肅王がその容貌を奇として、自らの妹をこれに娶わせた。官を累進して台州・処州二州の刺史を授けられた。文穆王が立つと、仲逹に権知政事を命じ、建国に及んで丞相を拝し、沈崧・皮光業とともに国政を担った。
- 忠献王が王位に即くと、仲逹は再び行軍府の事を摂した。当時、諸軍に大々的な下賜を行ったところ、軍中では下賜が不均等であるとの声があがり、たちまち大いに騒然となり、武器を挙げて下賜を受けようとしなかった。諸将もこれを制することができなかったが、仲逹が自ら階に出てこれを諭すと、その言葉は明快で、みな武器を収めて拝礼した。仲逹は性格が仁厚で施しを好み、食事は決して二味を重ねなかった。文穆王はもとよりこれを重んじ、いつも「丞相」と呼び名を呼ぶことがなかった。没した。享年六十二。諡を安成という。